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一連の長い論文の最終結論が、
個人の自由、民主主義、幸福追求権、平和主義などの憲法的価値は、戦後、日本の保守が打ち立ててきた ものである。これと同じ価値観しか持たない左翼が力を喪失するのは、当然である。

このような結語となる発表があった。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41890

日本から革新勢力をなくしたソ連崩壊 から説き起こし

 保革対決は資本主義と社会主義の対決
憲法制定時は第9条に反対していた
共産党が現憲法を擁護するのは自殺行為
欠陥の象徴こそ「民主集中制」  こういう、論段で進行する。

この文章を書いた人物は、もと日本共産党幹部であった。日本共産党の内部で、異議を唱えたら、追い出されたという経歴がある。
それで、今でもサヨク思想の本物を求めて、こだわっていて、この一連の文章になっている。

それで、日本の保守をたたえる言葉が最後に出てきた。
実は日本では保守と呼ばれた人たちこそが素晴らしかったのでしょう。




左翼はなぜ力を失ったのか すがるのは「民主主義」、保守に対抗できる価値観が欠落 2014.10.06(月) 筆坂 秀世
↓↓↓↓↓

▽続きを読む▽
2014/10/06 14:51|サヨク思想TB:0CM:0

 

(これも本日見つけました。)
↓↓↓↓↓

▽続きを読む▽
2014/08/18 18:30|現代姿TB:0CM:0

 

(また別件中、こんなサイトも見つけました。アサヒ系のようです。)  http://www.huffingtonpost.jp/2014/03/05/pc-remote-control_n_4905121.html2014年08月18日    Huffpost Japan      Edition: jp メールマガジンを講読  ハフィントンポスト内を検索


 片山祐輔被告を保釈 PC遠隔操作事件 会見で「無罪がゴール」      The Huffington Post
投稿日: 2014年03月06日 07時52分 JST 更新: 2014年03月06日 07時56分 JST

他人のパソコンを遠隔操作し、インターネット上で無差別殺人などの犯罪を予告したとして、威力業務妨害の罪などに問われた元IT会社員片山祐輔(ゆうすけ)被告(31)=公判中=が3月5日夜、収容先の東京拘置所から保釈された。東京高裁が同日、保釈を認めた。保釈保証金1千万円を納付した。NHKニュースなどが報じた。

片山被告は都内で記者会見し、「(逮捕後の約)1年間、緊張の連続で疲れ果てた。まだまだ闘いは長いが頑張っていきたい。無罪を取ることがゴールなので、現時点はまだ道半ば」と話した。

片山元社員は、その後、会見を行い、「カメラのストロボがまぶしく、自由とはまぶしいものだと思った。私もパソコンを遠隔操作された被害者の1人だ。無罪になる自信はある」と改めて無実を主張しました。

この事件の裁判では、データの解析結果や被告の行動などを基に有罪を主張する検察と、被告の犯行を示す証拠はなく、えん罪だとする弁護団が全面的に対立しています。

(NHKニュース「パソコン遠隔操作事件 元社員保釈」より 2014/03/05 19:26)

一連の事件は、2012年、他人のパソコンにウイルスを感染させ、小学校襲撃などの犯罪予告をしたもの。犯行予告を書き込んだとされるパソコンを使っていた男性4人が警視庁などに逮捕されたが、その後、真犯人を名乗る人物が犯行声明文を発表したため、警察が誤認逮捕を認め謝罪した。片山被告は、他人のパソコンを遠隔操作して殺人予告をした疑いで、2013年2月に逮捕され、1年1カ月の間、身柄を拘束されていた。

高裁は4日、同日の保釈決定に対して検察側が特別抗告とともに申し立てた、高裁の職権発動による保釈の執行停止をいったんは認めた。しかし、片山被告の弁護人によると、権限がない東京地検検事による申し立てだったことが5日に判明。高裁が改めて、保釈の執行を停止するかについて判断した。

(MSN産経ニュース「PC遠隔操作の被告を保釈 保証金1千万円納付」より 2014/03/05 19:28)

検察側は公判で、片山被告の元職場のパソコンから見つかった遠隔操作ウイルスの痕跡などを証拠に有罪を主張している。

記者会見で片山被告は「私のパソコンが操られていた可能性は100パーセント。(真犯人が)ファイルを置くのも盗むのも自在だった」と強調し「証拠に矛盾があるが、へ理屈でごまかしている」と検察側を批判した。ウイルスの情報が入った記憶媒体が見つかった江の島(神奈川県)と雲取山(東京都など)に行っていた理由を質問されると「ただ普通に行っただけだ」と言葉をにごした。

(スポニチ「片山被告を保釈 PC遠隔操作事件 会見で『私も遠隔操作されていた』 」より 2014/03/05 20:46)

【関連記事】•片山祐輔被告「徹頭徹尾、事実無根です」PC遠隔操作事件初公判で無罪を主張
•取り調べの可視化を考える市民集会 周防正行監督「全事件の可視化」求める
•袴田事件で「無罪の証拠」 死刑確定判決と矛盾する証言が浮上

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片山祐輔, 保釈, IT会社員, 東京拘置所, 東京高裁, 保釈保証金, インターネット, パソコン, 威力業務妨害, 片山祐輔 遠隔操作, 無差別殺人, 片山祐輔被告
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4 人が4 コメント

Takayasu Iwasaka (Takayasu_Iwasaka)   68 ファン
『ビデオニュース・ドットコム』が、Youtube に記者会見全体の動画を、『【遠隔操作ウイルス事件】片山祐輔被告保釈会見「自由の眩しさをあらためて感じている」』というタイトルで公開しています。(33分程度)

個人的には、動画を観る限り、この記事の最後のスポニチ記事の引用「雲取山に行っていた理由を質問されると...言葉をにごした」という記述はかなり不正確な記述に思えました。(言葉を濁しているようには、全然見てとれませんでした)

司法記者クラブに加盟していないスポーツ紙の記述でしたので、少し不思議です。    3月6日 11:45

Ken . (Tanimura)
結局のところ誰が犯人なんですかね。
PCの遠隔操作とか簡単にできるものじゃないんですよね?

もっとほかのことに頭を使ってほしいです。     3月6日 13:24

G.k. Kodama (KKK_Kodama)
証拠の扱いが難しい事件なので、証拠不十分で推定無罪になる可能性がかなりあると思うが、「無罪がゴール」なのか?「名誉回復がゴール」ではないのか? 無罪判決だけでは名誉回復されない冷たい現実があると思うが。  3月6日 13:46

Toshio Sando (toshio_sando)    
「保釈保証金1千万円」額の大きさに驚いた。保釈されてネットは自由に使えるのだろうか?    3月7日 11:57

~~~~~~
無罪がゴールなんて、タイトル!今では、恥ずかしいでしょうね。
2014/08/18 18:09|現代姿TB:0CM:0

 

(別件調査中、こんなブログが見つかりました)  http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-9ff6.html

植草一秀の『知られざる真実』 マスコミの伝えない政治・社会・株式の真実・真相・深層を植草一秀が斬る 2014年3月 7日 (金)

PC遠隔操作事件での警察検察裁判所の重大犯罪

パソコン遠隔操作事件で威力業務妨害罪などにより起訴された片山祐輔氏は、1年以上もの長期にわたって東京拘置所に勾留されていたが、ようやく3月5日に保釈された。

日本の刑事裁判制度の重大な欠陥が露わになった事例のひとつである。

片山氏が逮捕されたのは昨年の2月10日だった。

片山氏は1年以上の長期にわたり身体の自由を奪われたことになる。

報道されている情報によれば、検察側は決定的な証拠を掴んでいない。

「犯罪の証明」はまったくなされていない。

そして、さらに重大な事実は、警察・検察は、片山氏を逮捕する前に、この事案において、4人の市民が逮捕され、その一部が起訴されるという事態が生じたことである。

そのすべてが、誤認逮捕、誤認起訴であった。

しかも、警察は誤認逮捕した市民から、全面自白の調書まで取り付けていた。

完全無実の人間が自発的に自白調書の作成に応じるわけがない。

自白調書の作成を強要したか、あるいは利益誘導したということになる。

片山氏の保釈については3月4日に東京高裁が保釈決定を示したが、検察が抗告して保釈が停止された。

ところが、高検が行うべき抗告を地検が行なっていたことが判明し、高検が再度抗告したが、高裁はこれを認めず、片山氏の保釈が実現した。

犯罪の証明が極めて不確かな事案で、片山氏は1年以上にわたって身体の自由を奪われてきた。

しかも、接見禁止措置が取られていたために、外部の情報と接することも遮断されてきた。

一連の経過は、日本が人権蹂躙国家であることを明白に物語っている。

日本の警察・検察・裁判所制度は、いまなお、前近代の暗黒の時代にとどまっているのである。

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日本国憲法には次の条文がある。

第三十一条  何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

第三十四条  何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。

第三十八条  何人も、自己に不利益な供述を強要されない。

○2  強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。

○3  何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。

身体の自由は、基本的人権のなかでも、もっとも根源的なものである。

18世紀的人権、19世紀的人権、20世紀的人権という表現がある。

自由権が18世紀的人権、参政権が19世紀的人権、生存権が20世紀的人権と表現される。

身体の自由は人間の最も根源的な基本的人権なのである。

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片山氏および弁護士の説明を聞く限り、犯罪の立証は客観的になされていない。

有罪と無罪の分かれ目はどこにあるか。

その根拠となる法律条文は次のものである。

刑事訴訟法
第三百三十六条  
被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない。

有罪の認定は「犯罪の証明」による。

「犯罪の証明」がない場合は、無罪の判決が言い渡されなければならない。

ここで問題になるのが「犯罪の証明」である。

「犯罪の証明」の程度が問題になる。

この点について最高裁判例が示していることは、

「刑事裁判における有罪の認定に当たっては,合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要である。」
というものである。

「犯罪の証明」について、合理的な疑いを差し挟む余地があれば、裁判所は無罪の判決を言い渡さなければならない。

これが「疑わしきは被告人の利益に」という大原則なのである。

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しかし、日本の警察・検察・裁判所の現実は、こうした憲法および法令の定めに反する「前近代」の状況そのものなのである。

「前近代」の意味を一言で表現するなら「法の支配」が実現していないことである。

PC遠隔操作事件では、誤認逮捕された被疑者がうその自白調書作成に追い込まれている。

このこと自体が、日本の警察・検察取調べの前近代性を如実に示しているのである。

~~~~~
この人:植草一秀さんは、こんなことをよく書くよ。そして、よく残しておいたもんだ。今まだ残っていたから、取り上げるのです。
↓↓↓↓↓


▽続きを読む▽
2014/08/18 17:37|現代姿TB:0CM:0

 

(素晴らしいブログだから紹介)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51908032.html
2014年08月10日02:09     カテゴリメディア

慰安婦はなぜ「慰安婦問題」になったのか

こんな小さな問題がここまで大きくなった原因は、私のように最初から見てきた者にしかわからないと思うので、周知の事実だが書いておく。

慰安婦というのは戦場にいた売春婦のことで、珍しい話ではない。おそらく歴史上どんな戦争にもあっただろう。ただ「私が慰安婦でした」と名乗り出てくることはまずないので、太平洋戦争の慰安婦は噂の中だけの存在だった。吉田清治の話も、裏が取れないので、大したネタではなかった。

ところが1991年に、金学順が初めて実名で姿を現した。これは単なる損害賠償訴訟だったが、そこに朝日の大誤報が出た。特に1992年1月の「慰安所 軍関与示す資料」という1面トップの記事が「挺身隊の名で強制連行」という解説つきで宮沢訪韓の直前に出たため、宮沢首相が韓国に謝罪した。金は最初は「キーセンに売られた」といっていたのだが、福島瑞穂弁護士が朝日の誤報にあわせて「軍に強制連行された」と証言を変えた。

しかしYouTubeでもいったように、問題のコアはそこではない。事件の大きさからいえば、日本人だけで310万人が死んだ太平洋戦争の中で、たかだか数万人の売春婦なんて大した問題ではない。戦争犯罪というなら、もっと残虐な犯罪はたくさんあったが、日本政府が謝罪して賠償し、もう決着がついている。

慰安婦がここまで大きな問題になったのは、日本政府が強制連行を認めないからなのだ。存在しない事実を認めないのは当然だが、一部の勢力にとっては「戦争の歴史を直視しない」態度と見えたのだろう。河野談話で曖昧に強制を認めたことが、かえって問題をこじらせた。

朝日も認めたように、植村記者の記事がおかしいことは、彼らも1993年ごろには気づいていた。それなら訂正記事を出せばいいのに、1997年の検証記事でも吉田証言を「真偽不明」とし、社説で「全体として強制と呼ぶべき実態があったのは明らかである」と書いて、問題を「強制」にすり替えた。

このため海外メディアは吉田証言を根拠に「強制連行」を批判し、それを否定する日本政府を攻撃した。朝日が誤報を認めなかったことが、逆に日本政府が歴史的事実を隠蔽しているという印象を世界に与え、慰安婦が「慰安婦問題」になったのだ。その最大の責任は、22年間も逃げ続けた朝日にある。

その点では今回、誤報を認めたことは一歩前進だ。事実関係はおおむね解明されたので、あとは朝日が開き直るのをやめて「慰安婦問題の本質を直視」し、社長が辞任することだ。それが日韓関係を打開するきっかけになる可能性もある。その社告の雛形も、7年前に書いておいた。
 
~~~~~
著者の池田信夫さんは、ウィキペディアにも採用される著名人である。
この慰安婦問題について、どうしてこうも詳しいのかというと、問題の発端時期から、別の報道機関員として独自に調査を担当したことがあったからであった。

1991年に、終戦特集の番組の取材で、韓国で強制連行の被害者を探すため1ヶ月かけて50人ぐらいにインタビューしたが、軍に強制連行されたという人は1人もいなかった。しかし、それではネタにならないので、「日本にも道義的責任はある」という「告発調」の番組を作った。

上記がウィキペディアに紹介されている。


著者の池田信夫さんのウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%A4%AB
↓↓↓

▽続きを読む▽
2014/08/14 10:12|コリアTB:0CM:0

 

日本経済の幻想と真実

朝日新聞が日韓関係を破壊した
慰安婦についての大誤報を謝罪することが関係修復の条件


2012.08.16(木) 池田 信夫

韓国の李明博大統領が突然、竹島を訪問した事件は日本人を驚かせたが、8月15日の光復節(独立解放記念日)の式典では「従軍慰安婦問題について日本政府の責任ある措置を求める」と述べ、竹島には言及しなかった。

 彼にとっては慰安婦問題に世界の注目を集めることが目的で、竹島はその手段にすぎなかったわけだ。日本人の大部分には関心もない古い話がいまだに蒸し返される原因は、政府のまずい対応にもあるが、この問題を拡大したのは朝日新聞である。

 朝日新聞の創作した「従軍慰安婦」 

 これは戦後処理とは無関係なデマである。第2次大戦の賠償問題は1965年の日韓基本条約で終わっており、このときには慰安婦という言葉も出ていない。「従軍慰安婦」という言葉は日本のルポライターの造語で、戦時中にそういう言葉が使われた事実もない。

 ところが1983年に吉田清治という元軍人が『私の戦争犯罪』という本で「済州島から慰安婦を拉致して戦場に送り込んだ」と書いたため、韓国で騒ぎが起こった。しかし1989年に済州島の地元紙が検証を行い、吉田の記述がまったく事実に反することを明らかにした。

 本来ならここで終わっていたのだが、1991年8月に福島瑞穂弁護士などが慰安婦を原告として日本政府に国家賠償を求める訴訟を起こし、「私は慰安婦だった」という韓国人女性が名乗り出た。

 実は私は当時、NHKに勤務していて朝鮮人の「強制連行」を韓国まで取材したのだが、50人近い男女の中で「日本軍に強制連行された」という証言は1人もなかった。このためNHKでは「慰安婦が初めて名乗り出た」という話にとどめた。

 ところが朝日新聞が「戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかった」という植村隆記者の「スクープ」を掲載したことが騒ぎの再燃するきっかけになった。

 続いて植村記者は、1992年1月の「慰安所 軍関与示す資料」という記事で、日本軍の出した慰安所の管理についての通達を根拠として「慰安婦が軍に強制連行された」と報じ、その直後に訪韓した宮沢喜一首相は韓国の盧泰愚大統領に謝罪した。

政府の弱腰の対応が問題をさらに悪化させた

 しかしこの通達は「慰安婦を拉致するな」と業者に命じたものだ。軍が慰安婦を連行した事実はなく、そういう軍命などの文書もない。当の元慰安婦も、訴状では「親に40円でキーセンに売られた」と民間の業者による人身売買であることを認めていた。

 これは戦前には合法だった公娼(公的に営業を許可された娼婦)であり、軍は慰安所の監督をしていただけだ。だまされて「タコ部屋」から逃げられないという事件も多かったが、監禁したのは業者である。もちろん好ましいことではないが、これは商行為であり、国家に責任はない。

 ところが植村記者が「慰安婦が女子挺身隊として強制連行された」と報じたため、韓国政府が日本政府に賠償を求め、政府間の問題になった。彼の義母は日本政府に対する慰安婦訴訟の原告団長だったので、これは訴訟を有利にするための意図的な捏造だった疑いが強い。

 そして日本政府が慰安婦に聞き取り調査を行い、1993年に河野洋平官房長官が「本人たちの意思に反して集められた事例が数多く」あり、「官憲等が直接これに加担した」という談話を発表したため、「日本政府も慰安婦問題を認めた」という印象を世界に与えてしまったのだ。

 このあとも朝日は「強制連行はなかったとしても強制性は明らか」だとして政府に謝罪を求めた。2000年には編集委員の松井やより氏が主催する団体が「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」を開いて昭和天皇に「有罪判決」を下した。

 また安倍政権のとき、朝日新聞社の中に東京支局を置くニューヨーク・タイムズ紙のノリミツ・オオニシ支局長が繰り返し慰安婦問題を取り上げて「元慰安婦」の証言を報じ、安倍首相は訪米で謝罪するはめになった。

朝日新聞が謝罪しないと日韓関係は打開できない

 このように「慰安婦問題」が政府間の問題になったきっかけは朝日新聞の誤報(あるいは捏造)だが、それを裏づけるのは元慰安婦の(矛盾した)話しかない。

 朝日新聞も2000年代からは慰安婦キャンペーンをやめ、「強制連行されたかどうかは本質的な問題ではない」などと書くようになった。今年8月15日の社説では、次のような微妙な表現になっている。

 韓国併合や旧日本軍の慰安婦問題をめぐり、韓国内には根強い対日批判がある。日本の植民地支配からの解放を祝う15日の「光復節」を前に、そうした世論に火をつけようとしているとしたら危険このうえない。[中略]

 歴史認識を近づけることは容易ではない。長く厳しい道のりを覚悟せねばならない。それでも、未来を共に築こうとする者たちは、過去にも共同で向かい合わねばならないのである。

 かつてのように居丈高に「政府の反省」を求めなくなったことは進歩だが、もともと慰安婦問題に「火をつけた」のは朝日新聞であることを自覚しているのだろうか。

 李大統領の今回の行動は政権末期の人気取りとの見方が強いが、昨年の訪日の際にも会談の半分以上を慰安婦問題に割くなど、その力の入れようは単なるリップサービスとも考えにくい。韓国でも日本の植民地時代を経験した人は実態を知っているが、1941年生まれの李氏は慰安婦問題を本気で信じているのかもしれない。

 だから日本政府がやるべきなのは、外交的に報復するよりも客観的な証拠に基づいて事実を明らかにすることだ。河野談話のときの調査でも、朝鮮半島で軍が慰安婦を拉致・監禁した証拠はまったく出なかった(「官憲が加担した」というのはインドネシアの軍紀違反事件)。

 何よりもまず、韓国に誤解を与えた一連の大誤報を朝日新聞が訂正して謝罪することが必要だ。朝日も吉田清治の証言が虚偽だったことは認めたのだから、1991年以降の報道についても事実関係を検証して説明する責任がある。「未来を築くために過去に向かい合う」べきなのは朝日新聞である。

~~~~~
ソース
↓↓
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35903

↑↑↑
この文章は、すでに二年前のものです。朝日新聞の対応が遅れに遅れたのでした。 

▽続きを読む▽
2014/08/08 14:08|コリアTB:0CM:0

 

最近になって知ったことだが、大江健三郎という作家は、以前に、自分はキタ朝鮮人になりたかった という。そういう文章を書き残していた。

(以下引用)
~~~~~
「わがテレビ体験」 大江健三郎 (「群像」昭和36年3月号より) (「こんな日本に誰がした」 谷沢永一より)

結婚式をあげて深夜に戻ってきた、そしてテレビ装置をなにげなく気にとめた、スウィッチをいれる、画像があらわれる。
そして三十分後、ぼくは新婦をほうっておいて、感動のあまりに涙を流していた。

それは東山千栄子氏の主演する北鮮送還のものがたりだった、ある日ふいに老いた美しい朝鮮の婦人が
白い朝鮮服にみをかためてしまう、そして息子の家族に自分だけ朝鮮にかえることを申し出る…。
このときぼくは、ああ、なんと酷い話だ、と思ったり、自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、
というようなとりとめないことを考えるうちに感情の平衡をうしなったのであった。
~~~~~~
(引用オワリ)
ある世代の、進歩的文化人たちは以下の共通認識を持った。
・共産主義は素晴らしい
・共産国へ行きたい
・この国は、共産国でないので、汚れた国だ。けがらわしい、いまわしい、にくらしい。



こういった、直観的なレベルで、保持した感情は、なかなか消え去らない。
いつまでも、いつまでも持ち続ける。
・朝鮮戦争は、汚職にまみれた南チョーセン(韓国)の李承晩政権が、先制攻撃を加えたことに、対抗したキタ朝鮮側との間で、戦争となった。
~~~
実は、開戦後、一方的に南側が押しまくられた経過を説明していない。キタ朝鮮側が十分な装備あら戦車やら準備していたことは、明らかなのだ。
この状況は、ヴェトナムと対比しつつ検討すると面白い。ヴェトナムの、指導者・ホ・チミン(および後継者たち)とキタ朝鮮の、指導者キム・イルソン(および後継者たち)とを比較するのである。
ヴェトナムでは、ホ王朝はできなかったが、共産党の一党支配となっている。

○キタ朝鮮では、どう見ても、キム王朝ができあがっているのが現状である。

ここまで、事態が進んだ現代では、こういった状況がハッキリしている。

大江健三郎の話にもどる。

むかし記述したことの内容から、大江健三郎という人物の先見性は、明白だ。
こういう、自己に都合の悪くなったことは、記述してなかったような面構えを崩さず、またまた、別件で今の日本をあしざまに発言し続けることであろう。
大江健三郎のような人物に、ダマされて祖国キタ朝鮮へもどっていって、実に悲惨な生活をすることになった人たちの、その後の、現在につながる状況が、もうすぐに明らかにされそうだ。
「わがテレビ体験」 大江健三郎 (「群像」昭和36年3月号より) (「こんな日本に誰がした」 谷沢永一より)

結婚式をあげて深夜に戻ってきた、そしてテレビ装置をなにげなく気にとめた、スウィッチをいれる、画像があらわれる。
そして三十分後、ぼくは新婦をほうっておいて、感動のあまりに涙を流していた。

それは東山千栄子氏の主演する北鮮送還のものがたりだった、ある日ふいに老いた美しい朝鮮の婦人が
白い朝鮮服にみをかためてしまう、そして息子の家族に自分だけ朝鮮にかえることを申し出る…。
このときぼくは、ああ、なんと酷い話だ、と思ったり、自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、
というようなとりとめないことを考えるうちに感情の平衡をうしなったのであった。

かつて、寺尾五郎なんていう人物が本を書いた。
http://nnagoya.blog64.fc2.com/blog-entry-112.html

その答えとして古い書物が「凍土の共和国」という書物だった。
http://nnagoya.blog64.fc2.com/blog-entry-206.html

北朝鮮送還の事業を、大江健三郎のような絶賛した人が、まだまだ生きているらしい。今のうちから、銘記すべく発掘していこう。

(参考までに、神奈川県知事になったことのあある、長洲一二というサヨク人士の書いたものにも、同様の北送還への絶賛を呼んだ記憶があるのだが、残念ながら今のところ、見つけだせていない。)
2014/08/06 11:47|コリアTB:0CM:0

 

<朝日新聞>慰安婦報道を検証 「強制連行」証言取り消す        毎日新聞 8月5日(火)11時30分配信

 朝日新聞は5日付の朝刊で、従軍慰安婦の問題を巡る同紙の報道内容を検証する特集記事を掲載した。「『慰安婦問題は朝日新聞の捏造(ねつぞう)』との指摘はいわれなき批判」としつつ、特に1990年代初めに、証言や少ない資料をもとに記事を書き続けたと振り返り、「一部に事実関係の誤りがあった」と認めた。「韓国・済州島で強制連行した」との証言について、「虚偽だと判断し、記事を取り消す」としている。

 同紙は1面で、元慰安婦の記事を書いた同紙の元記者が名指しで中傷されている事態などについて、説明責任を果たすため、5~6日付の紙面で特集を組むとした。

 誤りを認めた一部の記事については「裏付け取材が不十分だった点は反省する」と記述。一方で「戦時中、日本軍兵士らの性の相手を強いられた女性がいた事実を消すことはできない」と強調した。

 さらに特集面で五つの論点で読者の疑問に対する回答を掲載。韓国メディアより先に元慰安婦の証言を報じたとする元記者の記事に「慰安婦と挺身(ていしん)隊の混同」があったと認めたが、「韓国でも当時混同が見られ、元記者も誤用した」と釈明した。

 また、「済州島で慰安婦狩りをした」と証言した吉田清治氏(故人)を16回にわたって記事に取り上げた点も検証。同紙が済州島で再取材した結果、証言を裏付ける話が得られなかったことなどから、証言は虚偽と判断した。【伊藤一郎】
.
【関連記事】
【河野洋平官房長官談話】1993年8月4日に発表された全文
菅官房長官:「従軍慰安婦」遺産登録申請に抗議
従軍慰安婦像設置に抗議--訪米の議員の会
国連人権委:慰安婦「日本に責任」 ヘイトスピーチにも勧告
<韓国と日本>世界遺産、海女で摩擦                   最終更新:8月5日(火)12時36分   毎日新聞

~~~~~~

今頃になって、取り消しても、ひどい手遅れだ。

日本人をひどく傷つけた。アメリカでは、記念碑やら銅像やらが続々建ってきている。

今後、日本人の名誉回復をどうしようとするものだろうか。

朝日新聞の、ひどい報道には、いっぱい先例がある。

私の学生時代の、中国文化大革命への報道ぶりは酷かった。(のちに石川真澄さんが、謝罪記事を書いていた。)

北朝鮮の祖国帰還事業について、どうなのか。報道修正の必要はないものか。
2014/08/05 13:02|相続税贈与税財産税TB:0CM:0

 

中国台頭の終焉 (日経プレミアシリーズ)中国台頭の終焉 (日経プレミアシリーズ)
(2013/06/19)
津上俊哉

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昨年はじめに中国台頭の終焉 (日経プレミアシリーズ)という、著書が発表されていた。
○中国経済は、農村の、相対的過剰人口からくる低賃金を武器に発展してきた。その過剰人口の蓄積がとぼしくなってきて、賃金が上昇し始めた。優位点が失せたわけである。(こういう現象は、先進国がみな経験してきたことで、ルイスの転換点という。)

それ以外にも
○2008年のりーマンショックへの対抗策として、中共政府が実施した、4兆元(日本円なら40兆円以上)という、巨額な投資の後遺症が短期問題として出てきている。

さらに中期問題として
○国家資本主義という体制なので、国進民退という問題がある。民間企業が伸びない。そのとおり。共産党政府は民間を伸ばさないのが伝統的体質なのである。
その当時は、民間を伸ばすことが約束され、期待されたWTO加盟の約束も、加盟はしておいてホゴにしてしまった。

地方政府が暴走を繰り返している。全国各地にゴーソトタウン(鬼城)が出現していいる。チャイナの特徴として、人が住まなくなってゴーストタウンとなるのではない。はじめから、人が住む可能性が乏しい場所に、ゴーストタウンを、新たに建設している。そのように見ると、この国の地方政府の暴走が理解できる。
この国は社会主義政党が実権を掌握しているというのに、年金制度が、お粗末である。経済が成長するなかで、先進国は年金財源を確保して制度を充実させてきた。
民間企業が伸びてくると、官が収奪をし始める。
農村と都市との間に、戸籍はじめ差別が構造的に残ってしまっている。(別の人の書物によると、農村出身で、差別にあってウダツが上がらない上にアタマの弱い種類の中国人が、反日活動に熱心だったのだという。)

大きな問題として
○少子高齢化は、今後表面化してくる長期性の、大問題である。

そういったことから、
GDPで、中国がアメリカを抜く日は当分来ないと予言している。
むしろ、
社会的、政治的な国民の不満を、外へ向けさせて、東アジアは不透明になってゆく。

以上のような、予言的書物が昨年はじめに出ていた。


著者の津上俊哉さんには、10年前に、中国台頭の著作があった。
中国台頭―日本は何をなすべきか中国台頭―日本は何をなすべきか
(2003/01)
津上 俊哉

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予言10年にして、修正をしなければならないというわけである。10年前の著作には書評とともに激賞があった。サントリー学芸賞である。
↓↓↓↓

▽続きを読む▽
2014/07/29 13:02|(コリア)チャイナTB:0CM:0

 

4年後の2018年には、韓国が一人当たり所得で大きく伸びて、日本やフランスを抜き去るという。そういう記事・・・と言ってもいささか古い・・・を見つけた。
予見をビジネスにしている企業・ムーディーズの発表だから、ここのブログへ残すだけの値打があるだろう。
4年後にどうなっているのか。このブログは、4年前に存在していた。4年後に、この記事を検証しよう。

~~~~~~~

韓国、2018年に1人当たり所得で日仏抜く=ムーディーズ    2014年 06月 9日 17:52 JST

[ソウル 9日 ロイター] - 韓国経済は、海外市場の混乱に対して極めて高い抵抗力を持つことを示してきたし、今後5年間「群を抜いた」成長率を維持し、購買力平価調整後の国民1人当たり所得で日本やフランスを上回る可能性がある。格付機関ムーディーズ・インベスターズ・サービスは9日このようなレポートを公表した。

「第二次世界大戦後の世界で、(韓国ほど)持続的な高度経済成長と繁栄を実現した国はまれだ」とレポートは同国経済を分析、「過去10年間で政府部門と家計部門の負債が増加しており、目先リスクがないわけではない」と指摘しつつも、「政府は着実に問題に対処している」としている。
 
同報告は「住宅ローン市場の構造変革、堅実な財政政策、競争力を高め技術革新を次々と生み出す企業部門、こうした要素を考えると韓国経済は今後も『群を抜いた』成長ペースを維持しそうだ」と指摘した。

ムーディーズによると、過去5年間の韓国経済の成長率は、購買力平価調整後一人当たり所得が3万ドル以上の32カ国の平均値を上回り、今年から来年もその状況に変わりそうにはない。

さらに購買力平価調整後の一人当たり所得は、2012年の3万1950ドルから2018年には3万8451ドルに達し、日本(2018年予想、3万7826ドル)やフランス(同、3万7647ドル)を上回ることになりそうだとしている。

~~~~~~
自分の予見を記述しておく。
↓↓↓↓↓

▽続きを読む▽
2014/07/17 21:51|コリアTB:0CM:0

 

Ihateyou

「お前なんかキライ」「分かってる」(対面)


「アンタななかキライ」「分かってる」(そっぽ)


「チョッパリ!こっち見ろよ!」「オレのことキライって分かってる 分かってる」(塚原卜伝流に無視)


「チョッパリ!頼むからこっち見てよ(涙目・・・」「ああメシウマ」(かかわらない。助けない。

著作権問題のため引用元
http://i.imgur.com/RS5C0Hp.jpg
2014/06/23 11:38|(コリア)チャイナTB:0CM:0

 

http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000042168.pdf

ソース

慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯
~河野談話作成からアジア女性基金まで~
平成26年6月20日
河野談話作成過程等に関する検討チーム
弁護士(元検事総長) 但木 敬一(座長)
亜細亜大学国際関係学部教授 秋月 弘子
元アジア女性基金理事,ジャーナリスト 有馬 真喜子
早稲田大学法学学術院教授 河野 真理子
現代史家 秦 郁彦
事務局(内閣官房、外務省)
河野談話作成過程等に関する検討チーム
~検討会における検討~
1 検討の背景
(1)河野談話については,2014年2月20日の衆議院予算委員会において,石原元官房副長官より,①河野談話の根拠とされる元慰安婦の聞き取り調査結果について,裏付け調査は行っていない,②河野談話の作成過程で韓国側との意見のすり合わせがあった可能性がある,③河野談話の発表により,いったん決着した日韓間の過去の問題が最近になり再び韓国政府から提起される状況を見て,当時の日本政府の善意が活かされておらず非常に残念である旨の証言があった。
(2)同証言を受け,国会での質疑において,菅官房長官は,河野談話の作成過程について,実態を把握し,それを然るべき形で明らかにすべきと考えていると答弁したところである。
(3)以上を背景に,慰安婦問題に関して,河野談話作成過程における韓国とのやりとりを中心に,その後の後続措置であるアジア女性基金までの一連の過程について,実態の把握を行うこととした。したがって,検討チームにおいては,慰安婦問題の歴史的事実そのものを把握するための調査・検討は行っていない。
2 会合の開催状況
2014年 4月 25日(金) 準備会合
5月 14日(水) 第1回会合
5月 30日(金) 第2回会合
6月 6日 (金) 第3回会合
6月 10日(火) 第4回会合
3 検討チームのメンバー
秘密保全を確保する観点から,検討チームのメンバーは,非常勤の国家公務員に発令の上,関連の資料を閲覧した(五十音順)。
弁護士(元検事総長) 但木 敬一(座長)
亜細亜大学国際関係学部教授 秋月 弘子
元アジア女性基金理事,ジャーナリスト 有馬 真喜子
早稲田大学法学学術院教授 河野 真理子
現代史家 秦 郁彦
1
4 検討の対象期間
慰安婦問題が日韓間の懸案となった1990年代前半から,アジア女性基金の韓国での事業終了までを対象期間とした。
5 検討の手法
(1)河野談話にいたるまでの政府調査及び河野談話発表にいたる事務を当時の内閣官房内閣外政審議室(以下「内閣外政審議室」)で行っていたところ,これを継承する内閣官房副長官補室が保有する慰安婦問題に関連する一連の文書,並びに,外務省が保有する日韓間のやり取りを中心とした慰安婦問題に関する一連の文書及び後続措置であるアジア女性基金に関する一連の文書を対象として検討が行われた。
(2)秘密保全を確保するとの前提の下,当時の政府が行った元慰安婦や元軍人等関係者からの聞き取り調査も検討チームのメンバーの閲覧に供された。また,検討の過程において,文書に基づく検討を補充するために,元慰安婦からの聞き取り調査を担当した当時の政府職員からのヒアリングが内閣官房により実施された。
(3)検討にあたっては,内閣官房及び外務省から検討チームの閲覧に供された上記(1)の文書並びに(2)の聞き取り調査及びヒアリング結果に基づき,事実関係の把握,及び客観的な一連の過程の確認が行われた。
6 検討チームの検討結果
検討チームの指示の下で,検討対象となった文書等に基づき,政府の事務当局において事実関係を取りまとめた資料は別添のとおりである。検討チームとして,今回の検討作業を通じて閲覧した文書等に基づく限り,その内容が妥当なものであると判断した。
河野談話作成過程等に関する検討チーム
弁護士(元検事総長) 但木 敬一(座長)
亜細亜大学国際関係学部教授 秋月 弘子
元アジア女性基金理事,ジャーナリスト 有馬 真喜子
早稲田大学法学学術院教授 河野 真理子
現代史家 秦 郁彦
(五十音順) 2
(別添資料)
目次
Ⅰ.河野談話の作成の経緯
1 宮澤総理訪韓に至るまでの日韓間のやりとり(~1992年1月) 1
2 宮澤総理訪韓から加藤官房長官発表(調査結果の発表)までの間の期間の日韓間のやりとり(1992年1月~1992年7月) 2
3 加藤官房長官発表から河野官房長官談話前の間の期間の日韓間のやりとり(1992年7月~1993年8月) 3
4 元慰安婦からの聞き取り調査の経緯 7
5 河野談話の文言を巡るやりとり 9
Ⅱ.韓国における「女性のためのアジア平和国民基金」事業の経緯
1 「基金」設立まで(1993年~1994年) 14
2 「基金」設立初期(1995年~1996年) 16
3 元慰安婦7名に対する「基金」事業実施(1997年1月) 17
4 「基金」事業の一時中断(1997年2月~1998年1月) 18
5 「基金」による新聞広告掲載(1998年1月) 19
6 「基金」による償い金事業の一時停止(1998年2月~1999年2月) 19
7 韓赤による医療・福祉事業への転換(1999年3月~1999年7月) 20
8 事業転換困難のまま基金事業終了(1999年7月~2002年5月) 20
9 韓国における「基金」事業の終了と成果 20
慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯
~河野談話作成からアジア女性基金まで~
Ⅰ. 河野談話の作成の経緯
1 宮澤総理訪韓に至るまでの日韓間のやりとり(~1992年1月)
(1)1991年8月14日に韓国で元慰安婦が最初に名乗り出た後,同年12月6日には韓国の元慰安婦3名が東京地裁に提訴した。1992年1月に宮澤総理の訪韓が予定される中,韓国における慰安婦問題への関心及び対日批判の高まりを受け,日韓外交当局は同問題が総理訪韓の際に懸案化することを懸念していた。1991年12月以降,韓国側より複数の機会に,慰安婦問題が宮澤総理訪韓時に懸案化しないよう,日本側において事前に何らかの措置を講じることが望ましいとの考えが伝達された。また,韓国側は総理訪韓前に日本側が例えば官房長官談話のような形で何らかの立場表明を行うことも一案であるとの認識を示し,日本政府が申し訳なかったという姿勢を示し,これが両国間の摩擦要因とならないように配慮してほしいとして,総理訪韓前の同問題への対応を求めた。既に同年12月の時点で,日本側における内々の検討においても,「できれば総理より,日本軍の関与を事実上是認し,反省と遺憾の意の表明を行って頂く方が適当」であり,また,「単に口頭の謝罪だけでは韓国世論が治まらない可能性」があるとして,慰安婦のための慰霊碑建立といった象徴的な措置をとることが選択肢に挙がっていた。
(2)日本側は,1991年12月に内閣外政審議室の調整の下,関係する可能性のある省庁において調査を開始した。1992年1月7日には防衛研究所で軍の関与を示す文書が発見されたことが報告されている。その後,1月11日にはこの文書について朝日新聞が報道したことを契機に,韓国国内における対日批判が過熱した。1月13日には,加藤官房長官は,「今の段階でどういう,どの程度の関与ということを申し上げる段階にはありませんが,軍の関与は否定できない」,「いわゆる従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた方々に対し,衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい」との趣旨を定例記者会見で述べた。
(3)1992年1月16日~18日の宮澤総理訪韓時の首脳会談では,盧泰愚大統領から「加藤官房長官が旧日本軍の関与を認め,謝罪と反省の意を表明いただいたことを評価。今後,真相究明の努力と,日本のしかるべき措置を期待」するとの発言があり,宮澤総理から,「従軍慰安婦の募集や慰安所の経営等に旧日
1
本軍が関与していた動かしがたい事実を知るに至った。日本政府としては公に
これを認め,心から謝罪する立場を決定」,「従軍慰安婦として筆舌に尽くし難
い辛苦をなめられた方々に対し,衷心よりお詫びと反省の気持ちを表明したい」,
「昨年末より政府関係省庁において調査してきたが,今後とも引き続き資料発
掘,事実究明を誠心誠意行っていきたい」との意向を述べた。
2 宮澤総理訪韓から加藤官房長官発表(調査結果の発表)までの間の期間の
日韓間のやりとり(1992 年1 月~1992 年7 月)
(1)宮澤総理訪韓後,1992 年1 月,韓国政府は「挺身隊問題に関する政府方
針」を発表し,「日本政府に対して徹底的な真相究明とこれに伴う適切な補償等
の措置を求める」とした。日本側では,真相究明のための調査に加えて,「65 年
の法的解決の枠組みとは別途,いわゆる従軍慰安婦問題について人道的見地か
ら我が国が自主的にとる措置について,韓国側とアイディアを交換するための
話し合いを持つ」ことが検討され,韓国側の考え方を内々に聴取した。
(2)日本側は,1991 年12 月に開始した各省庁における関連資料の調査を1992
年6 月まで実施した。韓国側からは,調査結果発表前に,当該調査を韓国の政
府及び国民が納得できる水準とすることや,調査結果発表について事務レベル
で非公式の事前協議を行うことにつき申し入れがあった。また,発表直前には,
韓国側から,調査結果自体の発表の他,当該調査結果についての日本政府の見
解の表明,調査に続く措置の案の提示が含まれるべき旨意見が呈されるなど,
調査結果の発表ぶりについて韓国側と種々のやりとりが行われた。
調査結果の内容について,韓国側は,日本政府が誠意をもって調査した努力
を評価しつつ,全般的に韓国側の期待との間には大きな差があり,韓国の国民
感情及び世論を刺激する可能性があると指摘した。その上で,募集時の「強制
性」を含めて引き続きの真相究明を行うこと,また,「後続措置」(補償や教科
書への記述)をとることを求めるコメントや,「当時の関係者の証言等で明らか
な強制連行,強制動員の核心となる事項が調査結果に含まれていない点に対す
る韓国側世論の動向が憂慮される」とのコメントがなされた。なお,韓国政府
は,日本政府による調査結果の発表に先立ち,1992 年7 月,慰安婦問題等に関
する調査・検討状況を発表したが,その際にも日本側に対し事前にコメントす
るよう要請し,結果として,両国で事前調整が行われた。
(3)1992 年7 月6 日,加藤官房長官は,記者会見においてそれまでの調査結
果を発表した。官房長官より,関係資料が保管されている可能性のある省庁に
おいて資料の調査を行った結果として,「慰安所の設置,慰安婦の募集に当たる
者の取締り,慰安施設の築造・増強,慰安所の経営・監督,慰安所・慰安婦の
2
衛生管理,慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき,政府の関与があっ
たこと」を認め,「いわゆる従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられ
た全ての方々に対し,改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい」,
「このような辛酸をなめられた方々に対し,我々の気持ちをいかなる形で表す
ことができるのか,各方面の意見を聞きながら,誠意をもって検討していきた
いと考えております」と発言した。他方,徴用の仕方に関し,強制的に行われ
たのか,あるいは騙して行われたのかを裏付ける資料は調査で出てこなかった
のかと問われ,「今までのところ,発見されておりません」と応じた。
(4)なお,韓国側は,「補償」やその日韓請求権・経済協力協定との関係につ
いては,法律論で請求権は処理済みか検討してみないとわからないとしたり,
現時点では日本側に新たに補償を申し入れることは考えていないと述べたりす
るなど,韓国国内に種々議論があったことがうかがえる。
3 加藤官房長官発表から河野官房長官談話前の間の期間の日韓間のやりとり
(1992 年7 月~1993 年8 月)
(1)加藤官房長官発表の後も,韓国の世論においては慰安婦問題に対し厳し
い見方が消えなかった。かかる状況を受け,内閣外政審議室と外務省の間で,
慰安婦問題に関する今後の措置につき引き続き検討が行われた。1992 年10 月上
旬に外務省内で行われた議論では,盧泰愚政権(注:韓国は1992 年12 月に大
統領選挙を実施)の任期中に本件を解決しておく必要があると認識されていた。
同じく10 月上旬には石原官房副長官の下で,内閣外政審議室と外務省の関係者
が,慰安婦問題に関する今後の方針につき協議した。同協議では,慰安婦問題
につき,今後検討する事項を,①真相究明に関する今後の取組,②韓国に対す
る何らかの措置,③韓国以外の国・地域に対する措置,④日本赤十字社(以下
「日赤」)への打診(②を実施するための協力要請),⑤超党派の国会議員によ
る懇談会の設置とする方針が確認された。このうち,真相究明については,資
料調査の範囲を拡大するが,元慰安婦からの聞き取りは困難であるとしている。
また,韓国への措置については,日赤内に基金を創設し,大韓赤十字社(以下
「韓赤」)と協力しつつ,元慰安婦を主たる対象とした福祉措置を講ずることと
されている。
(2)上記方針を受け,10 月中旬に行われた日韓の事務レベルのやりとりでは,
日本側より,非公式見解としつつ,①日赤に基金を設置し,韓国等の国々に慰
安婦問題に対する日本の気持ちを表すための措置を講ずる,②真相究明につい
ては,対象となる省庁の範囲を広げたり,中央・地方の図書館の資料を収集す
る等の措置を講じ,これら2 点をパッケージとするアイディアがある旨を伝達
3
した。これに対し,韓国側からは,①重要なのは真相究明である,②強制の有
無は資料が見つかっていないからわからないとの説明は韓国国民からすれば形
式的であり,真の努力がなされていないものと映る,③被害者及び加害者から
の事情聴取を行い,慰安婦が強制によるものであったことを日本政府が認める
ことが重要である等の反応があった。
(3)こうした韓国側の反応を受け,日本側において改めて対応方針の検討が
行われた。10 月下旬,未来志向的日韓関係の構築のため,韓国の政権交代まで
に本件決着を図るよう努力するという基本的立場の下,①真相究明(資料の調
査範囲の拡大,元従軍慰安婦代表者(数名)との面会の実施といった追加措置
をとり,結論を導く。「強制性」については明確な認定をすることは困難なるも,
「一部に強制性の要素もあったことは否定できないだろう」というような一定
の認識を示す。)と,②「我々の気持ちを表すための措置」(日赤内に基金を創
設し,韓赤と協力しつつ,主に福祉面での措置を想定)をパッケージとするこ
とで本件解決を図ることを韓国側に提案する方針を決定し,韓国側に伝達した。
(4)しかし,1992 年12 月の大統領選挙との関係で,韓国側では検討はあまり
進んでおらず,本格的な議論は大統領選挙後に行いたいとの反応であったため,
日本側は,韓国新政権のスタッフと調整を行い,早期かつ完全な決着をめざす
との方針を決定した。その際,今後の対応として,①真相究明のための措置を
実施する,②後続措置の内容について可能な限りさらに具体化する,③「後続
措置とセットの形で,真相究明の措置の結果として」,「一部に『強制性』の要
素もあったと思われる」など一定の認識を示すことを再度韓国側に打診するこ
ととなった。その際,真相究明のための措置として,①調査範囲の拡大,②韓
国側調査結果の入手,③日本側関係者・有識者よりの意見聴取,④元従軍慰安
婦代表からの意見聴取が挙げられているが,元慰安婦代表からの意見聴取につ
いては「真相究明の結論及び後続措置に関して韓国側の協力が得られる目処が
立った最終段階で」,「必要最小限の形で」実施するとしている。
(5)1992 年12 月,韓国大統領選挙と前後して,日本側は累次にわたり,韓国
側に対して基本的な考え方を説明した。
真相究明については,①日本政府はこれまで真相の究明に努力してきたが,
100%の解明はそもそも不可能である,②慰安婦の募集には,「強制性」があっ
たケースもなかったケースもあろうが,その割合をあきらかにすることはでき
ないであろう,③最後の段階で,日本政府関係者が慰安婦の代表と会って話を
聞き,また韓国政府の調査結果を参考にして,強制的な要素があったというこ
とを何らかの表現にして政府の認識として述べてはどうかと考えている等の説
4
明を行った。これに対し,韓国側は,①理論的には自由意志で行っても,行っ
てみたら話が違うということもある,②慰安婦になったのが自分の意志でない
ことが認められることが重要である等述べた。
後続措置に関しては,日本側より,法律的には片付いているとしつつ,こと
の本質から考えて単に違法行為があったということでなく,モラルの問題とし
て誠意をどう示すかの問題として認識している,措置をとるにあたって,韓国
側の意見は参考としてよく聞くが,基本的には日本が自発的に行うものである
等の説明を行った。
(6)1993 年2 月には,金泳三大統領が就任した。1993 年2 月~3 月頃の日本
側の対処方針に係る検討においては,基本的考え方として,「真相究明について
の日本政府の結論と引き換えに,韓国政府に何らかの措置の実施を受け入れさ
せるというパッケージ・ディールで本件解決を図る」,「真相究明については,
半ば強制に近い形での募集もあったことについて,なんらかの表現により我々
の認識を示すことにつき検討中」,「措置については,基金を創設し,関係国(地
域)カウンターパートを通じた福祉措置の実施を検討」としていた。「強制性」
については,「例えば,一部には軍又は政府官憲の関与もあり,『自らの意思に
反した形』により従軍慰安婦とされた事例があることは否定できないとのライ
ンにより,日本政府としての認識を示す用意があることを,韓国政府に打診す
る」との方針が示されている。また,元慰安婦の代表者からの事情聴取に関し
ては,「真相究明の結論及び後続措置に関し,韓国側の協力が得られる目途が立
った最終的段階で,他の国・地域との関係を考慮しつつ,必要最小限の形でい
わば儀式として実施することを検討する」とされている(聞き取り調査につい
ては後述)。
(7)1993 年3 月13 日,2 月に就任した金泳三韓国大統領は,慰安婦問題につ
いて,「日本政府に物質的補償を要求しない方針であり,補償は来年から韓国政
府の予算で行う。そのようにすることで道徳的優位性をもって新しい日韓関係
にアプローチすることができるだろう」と述べた。
同年3 月中旬に行われた日韓の事務方の協議において,日本側は,①慰安婦
問題の早期解決,②韓国政府による世論対策の要請,③前出の大統領発言を受
けての韓国政府の方針と日本による措置に対する韓国側の考え方の確認等を軸
とする対処方針で協議に臨んだ。この対処方針の中で日本側は,「真相究明の落
とし所として,日本政府として『強制性』に関する一定の認識を示す用意があ
ることを具体的に打診する。また,韓国政府の仲介が得られれば,本件措置の
パッケージの一環として元慰安婦代表(複数可)との面会を実施する用意があ
ることを打診する」としている。同協議の場において,韓国側は,日本側の認
5
識の示し方について,事実に反する発表はできないであろうが,(例えば,何ら
かの強制性の認定の前に,「軍は募集に直接関与したことを示す資料は発見され
なかったが」等の)複雑な「前置き」は避けるべきと考える旨述べた。
同年4 月1 日の日韓外相会談では,渡辺外務大臣より,「強制性」の問題につ
いて「全てのケースについて強制的であったということは困難である」,「両国
民の心に大きなしこりが残らないような形で,日本政府としての認識をいかに
示すかぎりぎりの表現の検討を事務方に指示している」,「認識の示し方につい
て,韓国側と相談したい」等と韓昇洲外務部長官に伝達した。
(8)一方,韓国側は,それまで真相究明のやり方については韓国側としてい
ちいち注文を付けるべきことではなく,要は誠意をもって取り進めていただき
たいとの姿勢であったのが,前述の93 年4 月1 日の日韓外相会談頃から,韓国
国内の慰安婦関係団体が納得するような形で日本側が真相究明を進めることを
期待する,また,韓国政府自体は事態収拾のために国内を押さえつけることは
なし得ないとの姿勢を示し始めた。1993 年4 月上旬に行われた日韓の事務方の
意見交換の際にも,日本側の働きかけに対し,①日本側が真相究明のためにあ
らゆる手をつくしたと目に見えることが必要,いたずらに早期解決を急ぐべき
ではない,②慰安婦は一部のみに強制性があったということでは通らないので
はないか,③韓国政府としては,日本側と決着を図り,韓国世論を指導すると
か抑え込むということはなし得ない,要は日本政府の姿勢を韓国国民がどう受
け取るかにつきる,との見解を述べた。
更に,同年4 月下旬に行われた日韓の事務方のやりとりにおいて,韓国側は,
仮に日本側発表の中で「一部に強制性があった」というような限定的表現が使
われれば大騒ぎとなるであろうと述べた。これに対し,日本側は,「強制性」に
関し,これまでの国内における調査結果もあり,歴史的事実を曲げた結論を出
すことはできないと応答した。また,同協議の結果の報告を受けた石原官房副
長官より,慰安婦全体について「強制性」があったとは絶対に言えないとの発
言があった。
(9)1993 年6 月29 日~30 日の武藤外務大臣訪韓時には,武藤外務大臣より,
「客観的判断に基づいた結果を発表し,本問題についてのわれわれの認識」を
示すとした上で,「具体的にどういう表現にするかについては,日本側としても
韓国国民の理解が得られるようぎりぎりの努力を行う所存であるが,その際に
は韓国政府の大局的見地からの理解と協力を得たい」旨述べた。韓昇洲外務部
長官からは,日本側の誠意あふれる発言に感謝するとしつつ,重要な点として,
「第一に強制性の認定,第二に全体像解明のための最大の努力,第三に今後と
も調査を継続するとの姿勢の表明,第四に歴史の教訓にするとの意思表明であ
6
る。これらがあれば」,「韓国政府としても」,「本問題の円満解決のために努力
していきたい」との発言があった。また,韓国側からは,日本に対し金銭的な
補償は求めない方針であるとの説明があった。

4 元慰安婦からの聞き取り調査の経緯
(1)元慰安婦からの聞き取り調査に関しては,1992 年7 月~12 月にかけて累
次にわたり,韓国側からは,①被害者及び加害者からの事情聴取を行ってほし
い,②日本側の誠意を示すためにも,全ての慰安婦とは言わないまでも,その
一部より話を聞くべき,③日本政府が最善を尽くしたことが韓国人に伝わるこ
とが重要である,④日本政府だけでなく地方や外国でも調査を行ったり,関係
者の証言も聴取することが望ましい等の指摘があった。また,韓国側からは,
聞き取り調査によって関係者の感情を和らげることができ,また,自分の意思
でなかったことを主張している人に対し誠意を示すことになるとの見解が示さ
れていた。
(2)日本側においては当初,元慰安婦からの聞き取り調査を始めると収拾が
つかず,慎重であるべきとの意見もあったが,1992 年12 月までに,上記韓国側
見解を踏まえ,「真相究明の結論及び後続措置に関して韓国側の協力が得られる
目処が立った最終段階で」,元慰安婦からの意見聴取を「必要最小限の形で」実
施するとの対応方針が決定された。その後,1993 年3 月の日韓の事務方のやり
とりでは,日本側より,前述(3(4)~(6))の対処方針に沿って,「韓国
政府の仲介が得られれば,本件措置のパッケージの一環として元慰安婦代表(複
数可)との面会を実施する用意がある」ことを打診した。これに対し,韓国側
は,評価すべきアイディアとコメントするとともに,全員から聴取する必要は
ないであろうとし,「証人」の立ち会いを求めることはあり得るが,韓国政府は
立ち合いを希望しないであろう旨述べた。
(3)1993 年4 月頃より元慰安婦からの聞き取り調査に関するやりとりが本格
化した。その際に,韓国政府が慰安婦問題関係団体への打診を行ったが,韓国
政府からは,慰安婦問題関係団体の主張は厳しく,解決を急ぐあまり当事者か
ら証言をとってお茶を濁そうとしているとの反発があるとの説明があった。ま
た,韓国政府は,真相究明のあらゆる手段を尽くした上での最後の手段として
本人のインタビューが必要であるといった位置づけを説明する必要があり,い
きなりインタビューを行うと一方的に決めるのではなく,時間の余裕をもって
対応する必要がある旨述べた。その上で,韓国政府から,太平洋戦争犠牲者遺
族会(以下「遺族会」。1973 年に結成。太平洋戦争の遺族を中心に結成された社
団法人で,活動目的は遺族実態の調査や相互交流等)及び挺身隊問題対策協議
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会(以下「挺対協」。1990 年に結成。多数のキリスト教系女性団体で構成され,
特に慰安婦問題を扱い,日本軍の犯罪の認定,法的賠償等を日本側に要求する
ことを運動方針としている)に打診を行った。韓国政府からは,このうち,遺
族会については,聞き取り調査に応じる用意があるのでこれを行い,挺対協に
ついては,聞き取り調査には難色を示しているので,同協会が出している証言
集を参考とすることも一案である旨の見解が示されていた。なお,同年5 月中
旬には,韓国政府は,聞き取り調査によって新たな事実が出てくるとは思わな
いが,この問題の解決の一つの手続きとして行うということであろうとの反応
を示した。また,7 月上旬に行われた日韓の事務方のやりとりでは,韓国側より,
聞き取り調査の実施は最終的に日本側の判断次第であり,不可欠と考えている
わけではないとしつつも,聞き取り調査は日本側の誠意を強く示す手順の一つ
であり,実現できれば調査結果の発表の際に韓国側の関係者から好意的反応を
得る上で効果的な過程の一つとなると考えるとの意向が示された。
(4)1993 年5 月末~7 月にかけて,日本側は,挺対協及び遺族会と相次いで,
元慰安婦からの聞き取り調査の実施のための接触・協議を行った。
挺対協については,(3)のとおり,韓国政府から,挺対協の厳しい立場の根
底には日本政府に関する不信感があり,それを和らげるためには現地調査の実
施やインタビューへの民間人の立会いが必要である旨示唆があった。韓国政府
の示唆を踏まえ,5 月下旬に在韓国日本大使館が挺対協との協議に着手したが,
挺対協側は聞き取りの実現に,当時日本政府が行っていた追加調査結果の事前
提示,「強制性」の認定等を条件として掲げ,日本側とのやりとりを経てもその
立場を翻意するには至らなかった。またその過程で挺対協側より,日本の役人,
しかも男性がいきなり来ても誰も心を開いて話はしないとして,慰安婦らの証
言については挺対協がとりまとめていた証言集を参考にすることで十分である
とのコメントもあり,最終的に挺対協からの聞き取り調査は断念し,代わりに
同証言集をもって参考とすることとなった。
(5)一方,在韓国日本大使館は遺族会とも協議を開始し,複数回に亘る交渉
を経て,聞き取り調査を実施することで合意した。この際,①聞き取りは静か
な雰囲気で行うこととし,場所は遺族会の事務所とすること,②聞き取りに当
たっては,全国人権擁護委員連合会所属の弁護士1名及び訴訟に関与した弁護
士1名が日本側のオブザーバーとして,遺族会関係者1名が遺族会側のオブザ
ーバーとして,それぞれ立ち会うこと,③遺族会の募集により希望する全ての
慰安婦から聞き取りを行うこと,④外部の記者は入れず,また,遺族会の内部
記録用としてビデオ撮影を行うが,本ビデオは公表したり法廷で使用したりし
ないこと,⑤慰安婦関連の訴訟で原告側の訴状の中に出てくる元慰安婦9 名の
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証言については,被告である日本政府が訴状をそのまま参考にはしないが,遺
族会側がそれら元慰安婦の証言を別の形でまとめたものを参考資料とすること
等について一致した。聞き取り調査は,事前の調整の時間が限られていたこと,
また日本側としては元慰安婦の話を聞きにいくという姿勢であったこともあり,
前述のとおり遺族会側が手配した場所(遺族会事務所)で行われ,日本側は対
象者の人選を行わなかった。また,聞き取り調査の実施に向けた日本側と遺族
会の間の具体的な調整に際し,対象となる慰安婦の選定等については,韓国政
府側が何らかの関与・調整等を行った事実は確認されなかった。
(6)最終的に,遺族会事務所での聞き取り調査は1993 年7 月26 日に始まり,
当初は翌27 日までの2 日間の予定であったが,最終的には30 日まで実施され,
計16 名について聞き取りが行われた。日本側からは,内閣外政審議室と外務省
から計5 名が従事し,冒頭で聞き取りの内容は非公開である旨述べて聞き取り
を行った。元慰安婦の中には淡々と話す人もいれば,記憶がかなり混乱してい
る人もおり,様々なケースがあったが,日本側は元慰安婦が話すことを誠実に
聞くという姿勢に終始した。また,韓国政府側からは,聞き取り調査の各日の
冒頭部分のみ,韓国外務部の部員が状況視察に訪れた。
(7)聞き取り調査の位置づけについては,事実究明よりも,それまでの経緯
も踏まえた一過程として当事者から日本政府が聞き取りを行うことで,日本政
府の真相究明に関する真摯な姿勢を示すこと,元慰安婦に寄り添い,その気持
ちを深く理解することにその意図があったこともあり,同結果について,事後
の裏付け調査や他の証言との比較は行われなかった。聞き取り調査とその直後
に発出される河野談話との関係については,聞き取り調査が行われる前から追
加調査結果もほぼまとまっており,聞き取り調査終了前に既に談話の原案が作
成されていた(下記5参照)。
5 河野談話の文言を巡るやりとり
(1)1992 年7 月の加藤官房長官発表以降,日本側は真相究明及び後続措置に
ついて何らかの表明を行うことを企図し,韓国側との間で緊密に議論を行った。
1993 年3 月に行われた日韓の事務方のやりとりでは,韓国側から,日本側によ
る発表は,韓国側との協議を経て行われるような趣旨のものではなく,あくま
でも日本側が自主的に行ったものとして扱われるべきものとしつつ,発表内容
は韓国側をも納得させ得る内容に極力近いことが望ましいとの感想が述べられ
た。同年5 月の日韓の事務方のやりとりでは,日本側から,発表に対して韓国
政府からネガティブな反応は避けたいとして,「強制性」等の認識については,
一言一句というわけにはいかないものの,韓国側とやりとりをしたい旨述べた
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のに対し,韓国側は,種々協力したく,発表文については,その内容につき知
らせてほしいと述べる等,発表文を承知したい旨要望していた。
同年7 月28 日の日韓外相会談において,武藤外務大臣より,「発表の文言に
ついては内々貴政府に事前にご相談したいと考えている」,「この問題について
は右をもって外交的には一応区切りを付けたい。金泳三大統領は,日本側の発
表が誠心誠意のものであったならば,自分から国民に説明する考えであり,そ
うすれば韓国国民にも理解してもらえると考えている旨述べていた。この点を
踏まえ,是非大統領に日本側の考えを伝えて欲しい」と述べた。これに対し,
韓昇洲韓国外務部長官からは,「本件に対する日本の努力と誠意を評価したい。
日本側の調査の結果が金泳三大統領より韓国国民の前で説明して納得できる形
で行われることを期待すると共に,これにより韓日関係が未来志向的にもって
いけることを期待している。韓国もこのような結果を待ち望んでいる」と述べ
た。
(2)また,日本側では,加藤官房長官発表以降も引き続き関係省庁において
関連文書の調査を行い,新たに米国国立公文書館等での文献調査を行い,これ
らによって得られた文献資料を基本として,軍関係者や慰安所経営者等各方面
への聞き取り調査や挺対協の証言集の分析に着手しており,政府調査報告も,
ほぼまとめてられていた。これら一連の調査を通じて得られた認識は,いわゆ
る「強制連行」は確認できないというものであった。
(3)その後の談話の文言を巡る日韓間の具体的な調整は,上記外相会談を受
けて開始されたが,談話の原案は,聞き取り調査(1993 年7 月26 日~30 日)
の終了前の遅くとも1993 年7 月29 日までに,それまでに日本政府が行った関
連文書の調査結果等を踏まえて既に起案されていた(上記4(7)参照)。
談話の文言の調整は,談話発表の前日となる8 月3 日までの間,外務省と在
日本韓国大使館,在韓国日本大使館と韓国外務部との間で集中的に実施され,
遅くとも7 月31 日には韓国側から最初のコメントがあったことが確認された。
その際,韓国側は,発表内容は日本政府が自主的に決めるものであり,交渉の
対象にする考えは全くないがとしつつ,本問題を解決させるためには,韓国国
民から評価を受け得るものでなければならず,かかる観点から,具体的発表文
を一部修正されることを希望する,そうした点が解決されることなく日本政府
が発表を行う場合は,韓国政府としてはポジティブに評価できない旨述べた。
その後,韓国側は,上記文言調整の期間中複数回に亘りコメントを行った。こ
れに対し,日本側は,内閣外政審議室と外務省との間で綿密に情報共有・協議
しつつ,それまでに行った調査を踏まえた事実関係を歪めることのない範囲で,
韓国政府の意向・要望について受け入れられるものは受け入れ,受け入れられ
10
ないものは拒否する姿勢で,談話の文言について韓国政府側と調整した。
韓国側との調整の際に,主な論点となったのは,①慰安所の設置に関する軍
の関与,②慰安婦募集の際の軍の関与,③慰安婦募集に際しての「強制性」の3
点であった。
慰安所の設置に関する軍の関与について,日本側が提示した軍当局の「意向」
という表現に対して,韓国側は,「指示」との表現を求めてきたが,日本側は,
慰安所の設置について,軍の「指示」は確認できないとしてこれを受け入れず,
「要望」との表現を提案した。
また,慰安婦募集の際の軍の関与についても,韓国側は「軍又は軍の指示を
受けた業者」がこれに当たったとの文言を提案し,募集を「軍」が行ったこと,
及び業者に対しても軍の「指示」があったとの表現を求めてきたが,日本側は,
募集は,軍ではなく,軍の意向を受けた業者が主としてこれを行ったことであ
るので,「軍」を募集の主体とすることは受け入れられない,また,業者に対す
る軍の「指示」は確認できないとして,軍の「要望」を受けた業者との表現を
提案した。
これらに対し,韓国側は,慰安所の設置に関する軍の関与,及び,慰安婦の
募集の際の軍の関与の双方について,改めて軍の「指図(さしず)」という表現
を求めてきたが,日本側は受け入れず,最終的には,設置については,軍当局
の「要請」により設営された,募集については,軍の「要請」を受けた業者が
これに当たった,との表現で決着をみた。
なお,「お詫びと反省」について,日本側は,「いわゆる従軍慰安婦として数
多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた方々ひとりひとり
に対し,心からお詫び申し上げる」との原案を提示し,韓国側は,「お詫び」の
文言に「反省の気持ち」を追加することを要望し,日本側はこれを受け入れた。
この交渉過程で,日本側は宮澤総理,韓国側は金泳三大統領まで案文を上げ
て最終了解を取った。
慰安婦募集に際しての「強制性」について,どのような表現・文言で織り込
むかが韓国側とのやりとりの核心であった。8 月2 日の段階でも,韓国側は,い
くつかの主要なポイントを除き,日本側から韓国側の期待に応えるべく相当な
歩み寄りがあり,その主要な点についても双方の認識の違いは大きくないと述
べる一方,越えられない限界があり,韓国国民に対して一部の慰安婦は自発的
に慰安婦になったとの印象を与えることはできない旨発言していた。
具体的には,日本側原案の「(業者の)甘言,強圧による等本人の意思に反し
て集められた事例が数多くあり」との表現について,韓国側は,「事例が数多く
あり」の部分の削除を求めるも,日本側はすべてが意思に反していた事例であ
ると認定することは困難であるとして拒否した。また,朝鮮半島における慰安
婦の募集に際しての「強制性」にかかる表現について,最後まで調整が実施さ
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れた。8 月2 日夜までやりとりが続けられ,「当時の朝鮮半島は我が国の統治下」
にあったことを踏まえ,慰安婦の「募集」「移送,管理等」の段階を通じてみた
場合,いかなる経緯であったにせよ,全体として個人の意思に反して行われた
ことが多かったとの趣旨で「甘言,強圧による等,総じて本人たちの意思に反
して」という文言で最終的に調整された。
最終的に8 月3 日夜,在日本韓国大使館から外務省に対し,本国の訓令に基
づくとし,金泳三大統領は日本側の現(最終)案を評価しており,韓国政府と
しては同案文で結構である旨連絡があり,河野談話の文言について最終的に意
見の一致をみた。
(4)以上のとおり,日本側は,(2)にあるように,関係省庁における関連文
書の調査,米国国立公文書館等での文献調査,さらには軍関係者や慰安所経営
者等各方面への聞き取り調査や挺対協の証言集の分析等の一連の調査を通じて
得られた,いわゆる「強制連行」は確認できないという認識に立ち,それまで
に行った調査を踏まえた事実関係を歪めることのない範囲で,韓国政府の意
向・要望について受け入れられるものは受け入れ,受け入れられないものは拒
否する姿勢で,河野談話の文言を巡る韓国側との調整に臨んだ。また,日韓間
でこのような事前のやりとりを行ったことについては,1993 年8 月2 日,日本
側から,マスコミに一切出さないようにすべきであろう旨述べたのに対し,韓
国側はこれに了解するとともに,発表の直前に日本側からFAX で発表文を受け
取ったと言うしかないであろう旨述べた。また,8 月4 日の談話発表に向けて日
本側事務方が用意した応答要領には,韓国側と「事前協議は行っておらず,今
回の調査結果はその直前に伝達した。」との応答ラインが記載された。
(5)上記次第を受け,1993 年8 月4 日,日本側では,河野官房長官より,こ
れまで行われてきた調査をまとめた結果を発表するとともに,談話(河野談話)
を発表した。
河野官房長官談話 (1993 年8 月4 日)
いわゆる従軍慰安婦問題については,政府は,一昨年12 月より,調査を進めて来たが,今般
その結果がまとまったので発表することとした。
今次調査の結果,長期に,かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され,数多くの慰安婦が存
在したことが認められた。慰安所は,当時の軍当局の要請により設営されたものであり,慰安所
の設置,管理及び慰安婦の移送については,旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰
安婦の募集については,軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが,その場合も,甘言,
強圧による等,本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり,更に,官憲等が直接これ
に加担したこともあったことが明らかになった。また,慰安所における生活は,強制的な状況の
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下での痛ましいものであった。
なお,戦地に移送された慰安婦の出身地については,日本を別とすれば,朝鮮半島が大きな比
重を占めていたが,当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり,その募集,移送,管理等も,甘言,
強圧による等,総じて本人たちの意思に反して行われた。
いずれにしても,本件は,当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問
題である。政府は,この機会に,改めて,その出身地のいかんを問わず,いわゆる従軍慰安婦と
して数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお
詫びと反省の気持ちを申し上げる。また,そのような気持ちを我が国としてどのように表すかと
いうことについては,有識者のご意見なども徴しつつ,今後とも真剣に検討すべきものと考える。
われわれはこのような歴史の真実を回避することなく,むしろこれを歴史の教訓として直視し
ていきたい。われわれは,歴史研究,歴史教育を通じて,このような問題を永く記憶にとどめ,
同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
なお,本問題については,本邦において訴訟が提起されており,また,国際的にも関心が寄せ
られており,政府としても,今後とも,民間の研究を含め,十分に関心を払って参りたい。
(6)「強制性」の認識に関し,河野官房長官は同日行われた記者会見に際し,
今回の調査結果について,強制連行の事実があったという認識なのかと問われ,
「そういう事実があったと。結構です」と述べている。
また,「強制」という言葉が慰安婦の募集の文脈ではなく慰安所の生活の記述
で使われている点につき指摘されると,河野官房長官は「『甘言,強圧による等,
本人たちの意思に反して集められた』というふうに書いてあるんです。意思に
反して集められたというのはどういう意味か。お分かりだと思います」と述べ
た。
さらに,公文書で強制連行を裏付ける記述は見つからなかったのかと問われ,
河野官房長官は,「強制ということの中には,物理的な強制もあるし,精神的な
強制というのもある」,精神的な強制という点では,「官憲側の記録に残るとい
うものではない部分が多い」,「そういうものが有ったか無かったかということ
も十分調査を」し,元従軍慰安婦から聞いた話や証言集にある証言,元慰安所
経営者等側の話も聞いたとした上で,「いずれにしても,ここに書きましたよう
に,ご本人の意思に反して,連れられたという事例が数多くある」,「集められ
た後の生活についても,本人の意思が認められない状況があったということも
調査の中ではっきりしております」と述べた。
(7)河野談話発表後,韓国外務部は,「日本政府が今次発表を通じ,軍隊慰安
婦の募集,移送,管理等において全体的な強制性を認定し,また軍隊慰安婦被
害者に対する謝罪と反省の意とともに,これを歴史の教訓として直視していく
等の決意を表明した点」を評価したい旨の論評を発表した。また,在韓国日本
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大使館から外務省に対し,韓国側報道は事実を淡々と述べ比較的肯定的な評価
のものが多いこと,韓国外務部は積極的に協力していたことを指摘した上で,
その背景として,調査結果と談話が全体として誠意に満ちたものであったこと
に加え,同問題の扱いを巡っては頻繁に韓国政府と協議をしつつ,日本側の率
直な考えを伝え,かつ韓国側のコメントを可能な限り取り入れてきたことがあ
ると考えられること等を報告した。
(8)日本側において検討され,韓国側とも種々やりとりが行われてきた日本
側による元慰安婦への「措置」のあり方については,河野談話の発表を受け,
両国間でより詳細な議論が行われることとなる。(次章参照)
Ⅱ. 韓国における「女性のためのアジア平和国民基金」(以下「基金」)事業
の経緯
1 「基金」設立まで(1993 年~1994 年)
(1)前述のとおり,慰安婦問題をめぐる日韓政府のやりとりでは,真相究明
と後続措置がパッケージと観念されてきた。1993 年8 月4 日の河野談話も「そ
のような(お詫びと反省の)気持ちを我が国としてどのように表すかというこ
とについては,有識者のご意見なども徴しつつ,今後とも真剣に検討すべきも
のと考える」として言及している。元慰安婦への「措置」について日本側が,
いかなる措置をとるべきか韓国政府の考え方を確認したところ,韓国側は,日
韓間では法的な補償の問題は決着済みであり,何らかの措置という場合は法的
補償のことではなく,そしてその措置は公式には日本側が一方的にやるべきも
のであり,韓国側がとやかくいう性質のものではないと理解しているとの反応
であった。
(2)その後,元慰安婦に対する具体的な措置について韓国政府側とやりとり
を重ねたが,日本政府が何らかの具体的な措置を講じるとしても,日韓両国間
では,慰安婦の問題を含め,両国及び両国民間の財産・請求権の問題は,法的
には完全且つ最終的に解決済みであり,韓国の元慰安婦に対しては,個人的な
賠償となる措置は実施しないことを想定している旨韓国側には確認していた。
韓国側は,日本側が戦後処理の清算の次元で自主的に処理すべきものであり,
また韓国政府は日本政府に対し物質的な補償を求めず,かつ,日本側の措置に
は関与しないとの反応であった。また,翌94 年の夏に入り,日韓の事務方のや
りとりにおいて,韓国側からは,韓国の世論の一つには被害者とその関係団体
があり,彼らの要求は補償をしろというものである一方,慰安婦問題であれ,
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何であれ,日本政府に何かを求めることはそろそろ止めにしようという世論も
あり,数でいえばこちらの方が多いとの率直な意見が述べられた。
(3)1994 年12 月7 日,与党三党(社会・自民・さきがけ)による「戦後50
年問題プロジェクト・チーム」の下に設けられた慰安婦への対応を議論する小
委員会で「第一次報告」がまとめられ,国民参加の基金を設置し,元慰安婦を
対象とした措置を行うとともに,過去の過ちを繰り返さないために女性に対す
る暴力など今日的な女性の名誉と尊厳にかかわる問題の啓発・予防・対応・解
決に向けた活動の支援を行うこと,政府がこの基金に対する資金拠出を含め可
能な限りの協力を行うことを表明した。
(4)1995 年6 月13 日,日本政府は,韓国,台湾,インドネシア,フィリピン,
オランダを対象にした「基金」を翌日に公式発表することを決定し,その設立
目的や事業の基本的な性格等を記した「基金構想と事業に関する内閣官房長官
発表」の内容を韓国側に対し事前通報したところ,韓国政府からは,①全般的
な感想としては,当事者団体にとって満足いくものでないにしても,韓国政府
としては評価できる点もあるような感じがする,②従来より金泳三大統領は,
慰安婦に対する補償金は要らないが,徹底した真相究明が行われるべきである
旨明らかにしている,③韓国側が要請してきた点である,日本政府としての公
的性格を含める必要があること及び日本政府としてのお詫びの気持ちを表明す
ることの2点が概ね含まれており,こうした点において評価したい旨述べた。
また,関係団体に対し日本側の措置を説明するにあたっては,韓国政府として
もできるだけ協力したい旨の反応があった。翌14 日には,五十嵐官房長官が以
下を発表した。
五十嵐内閣官房長官発表(抜粋) (1995 年6 月14 日)
平成6 年8 月の村山総理の談話を受け,また与党戦後50 年問題プジェクトの協議に基づき,
政府において検討の結果,戦後50 年にあたり過去の反省に立って「女性のためのアジア平和
友好基金」による事業を次の通り行うものとする。

元従軍慰安婦の方々のため国民,政府協力のもとに次のことを行う。
(1) 元従軍慰安婦の方々への国民的な償いを行うための資金を民間から基金が募金する。
(2) 元従軍慰安婦の方々に対する医療,福祉などお役に立つような事業を行うものに対し,政
府の資金等により基金が支援する。
(3) この事業を実施する折,政府は元従軍慰安婦の方々に,国としての率直な反省とお詫びの
気持ちを表明する。
(4) また,政府は,過去の従軍慰安婦の歴史資料を整えて,歴史の教訓とする。
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女性の名誉と尊厳に関わる事業として,前記1.(2)にあわせ,女性に対する暴力など今日的な問題に対応するための事業を行うものに対し,政府の資金等により基金が支援する。
「女性のためのアジア平和友好基金」事業に広く国民のご協力を願う「呼びかけ人」として,これまでご賛同を得た方々は次の通りである。(以下略)
これを受け,韓国外務部は以下の外務部論評を発表した。
五十嵐官房長官発表に対する韓国外務部論評 (1995年6月)
1.韓国政府は従軍慰安婦問題についてのフォローアップは,基本的に日本政府が93年8月に発表した実態調査の結果により自主的に決定する事項であるが,従軍慰安婦問題の円満な解決のためには,当事者の要求している事項が最大限反映されることが必要であることを指摘してきた。
2.今次日本政府の基金設立は,一部事業に対する政府予算の支援という公的性格は加味されており,また,今後右事業が行われる際,当事者に対する国家としての率直な反省及び謝罪を表明し,過去に対する真相究明を行い,これを歴史の教訓にするという意志が明確に含まれているとの点で,これまでの当事者の要求がある程度反映された誠意ある措置であると評価している。
3.韓国政府は,今後日本が今次基金設立を契機に,様々な過去史問題に対する史実を明らかにし,右解決のための努力を積極的に傾けていくことによって,正しい歴史認識を土台にした近隣各国との未来志向的な善隣友好関係に発展させていくことを期待する。
2 「基金」設立初期(1995年~1996年)
(1)一方,韓国国内の被害者支援団体は,「基金」を民間団体による慰労金と位置づけ,日本政府及び「基金」の取組を批判した。これを受け,翌7月には,韓国政府は,官房長官発表を韓国外務部としては評価する声明を出したが,その後被害者支援団体から韓国外務部に強い反発がきて困っている,このような事情からも表立って日本政府と協力することは難しいが,水面下では日本政府と協力していきたいとの立場が示された。
(2)1996年7月,「基金」は,「償い金」の支給,総理による「お詫びの手紙」,医療福祉事業を決定した。特に総理からの「お詫びの手紙」については,韓国政府から,日本政府は韓国政府に対してお詫びをしているが,被害者は個人的にはお詫びをしてもらってないと感じているという反応もあり,お詫びを表明するに当たっては総理による手紙という形をとることとなった。こうした決定を,日本政府から韓国側に説明するために,韓国政府を通じ遺族会及び挺対協に対して面談を申し入れたが,「民間基金」を受け入れることはできないとの見解が両団体から示された。 16
(3)韓国政府からは,①日本政府がどのような形式であれ,被害者達が納得できる措置をとってほしい,②日本が法的に国家補償を行うことは無理であると明言した上で,政府の謝罪の気持ちを表明し,何らかの形で,国家補償と同じように見えるものができないか,③「韓国との関係については今後誠意を持って話し合いたい」旨のメッセージを日本政府より発出して頂けないかとし,その後具体的にどう対応するかについて,時間をかけて日本側と静かに話し合っていきたいとの意向が示された。
(4)同年8月にフィリピンにおいて「基金」事業が開始されたこともあり,同月「基金」は韓国政府から認定を受けた被害者に対して事業を実施するとの方針の下,「基金」運営審議会委員からなる対話チームが韓国を訪問し,10数名の被害者に会い,事業の説明を行った。そして同年12月,元慰安婦7名が「基金」の努力を認め,事業の受け入れを表明した。
3 元慰安婦7名に対する「基金」事業実施(1997年1月)
(1)日本政府は,上記7名に対する事業を実施するに当たり,1997年1月10日(事業実施の前日),在日本韓国大使館に,「基金」事業を受け取ってもいいとの意思を表明した韓国の元慰安婦に対し「基金」事業をお届けすると決めたようである旨事前通報した。韓国政府は,①関係団体と被害者の両方が満足する形で事業が実施されるのでなければ解決にはならない,②何人かの元慰安婦だけに実施されるのであれば,関係団体が厳しい反応を示すこととなろう,日韓外相会談,首脳会談の直前であり,タイミングが悪いと考える旨の反応があった。
(2)翌11日,「基金」代表団は,ソウルにおいて元慰安婦7名に対し,総理の「お詫びの手紙」をお渡しし,韓国のマスコミ各社に対し,事業実施の事実を明らかにするとともに,「基金」事業について説明した。
元慰安婦の方々に対する内閣総理大臣の手紙
拝啓 このたび,政府と国民が協力して進めている「女性のためのアジア平和国民基金」を通じ,元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し,私の気持ちを表明させていただきます。
いわゆる従軍慰安婦問題は,当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は,日本国の内閣総理大臣として改めて,いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。 17
我々は,過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては,道義的な責任を痛感しつつ,おわびと反省の気持ちを踏まえ,過去の歴史を直視し,正しくこれを後世に伝えるとともに,いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。末筆ながら,皆様方のこれからの人生が安らかなものとなりますよう,心からお祈りしております。 敬具
日本国内閣総理大臣
(歴代内閣総理大臣署名:橋本龍太郎,小渕恵三,森喜朗,小泉純一郎)
これに対し,韓国のメディアは「基金」事業を非難し,被害者団体等による元慰安婦7名や新たに「基金」事業に申請しようとする元慰安婦に対するハラスメントが始まった。被害者団体は,元慰安婦7名の実名を対外的に言及した他,本人に電話をかけ「民間基金」からのカネを受け取ることは,自ら「売春婦」であったことを認める行為であるとして非難した。また,その後に新たに「基金」事業の受け入れを表明した元慰安婦に対しては,関係者が家にまで来て「日本の汚いカネ」を受け取らないよう迫った。
(3)また,韓国政府からは直後に,韓国政府としては,当然「基金」から目録等を誰に伝達したのかにつき通報を受けて然るべきであったと考えるところ,日本側は少し性急すぎるのではないか,また,「基金」の韓国における事業実施につき本当に困惑しているなどと,遺憾の意が伝えられた。
(4)その翌週の日韓外相会談において,柳宗夏韓国外務部長官より,先週末に「基金」が事業を開始し,元慰安婦に支給を行ったことは極めて遺憾である,この撤回と今後の一時金支給の中断を求めるとの発言があった。また,池田外務大臣の金泳三大統領表敬訪問において,大統領より,この問題は国民感情の面からみると敏感な問題である,外相会談でこの話が取り上げられたと報告は受けているが,最近とられた「基金」の措置は国民感情にとって好ましくない影響を強く与えるものであり,遺憾である,このような措置が今後再びとられることのないようお願いしたいとの発言があった。
4 「基金」事業の一時中断(1997年2月~1998年1月)
(1)「基金」事業を受け取った7名の元慰安婦が韓国内で継続的にハラスメントを受けることになったことを踏まえ,「基金」は,一時事業を見合わせることとして慎重な対応を取ることとなった。他方,一部被害者支援団体から,事業の受け取りを希望する元慰安婦との調整に前向きな反応もあり,そうした元慰安婦の数を増やすためにも引き続き事業に対する韓国での理解が得られるよう様々な方策を検討し,韓国国内で新聞広告を掲載することなどを模索すること
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とした。
(2)その後,1997 年夏から秋にかけて,日本政府と「基金」関係者との間で,
韓国国内での広告掲載や事業再開について幾度も折衝が行われた。日本政府は,
韓国大統領選挙や日韓間の漁業交渉の状況もあり,延期するよう働きかけたと
ころ,「基金」は,納得できないとの立場を堅持しつつも,日韓及び韓国国内の
センシティブな状況に配慮し,新聞広告の掲載を数回にわたって見送った。
(3)しかし,少しでも多くの韓国人元慰安婦に「基金」事業の内容を知って
もらい,理解を得たいと「基金」側が強く希望し,韓国の新聞社からも広告掲
載の了解があったため,日本政府としても,1998 年12 月18 日に終了する大統
領選挙後であれば,静かに目立たない形で事業を実施し,広告についても掲載
することはやむを得ないと判断し,小渕外務大臣までの了承を得た。
5 「基金」による新聞広告掲載(1998 年1 月)
(1)1998 年1 月上旬に,日韓の事務方のやりとりにおいて,日本側から,「基
金」事業に係る韓国内での理解を普及する目的として新聞広告(4 紙)の掲載予
定について事前説明したのに対し,韓国政府側からは,「基金」事業の一方的な
実施は問題の解決にならないとして,挺対協と「基金」との対話を進めようと
しているが,挺対協からは組織内の意見がまとまるまでもう少し時間が欲しい
と言われている旨回答があった。
(2)1998 年1 月6 日,実際に広告が掲載されたことを受け,韓国政府側から,
日本側が柔軟性を発揮し,急ぐことなく,本問題が目立たずに徐々に消えてい
くよう対応するのが好ましいと考えており,その意味で,先日の新聞広告は極
めて刺激的であった旨の反応が示された。
6 「基金」による償い金事業の一時停止(1998 年2 月~1999 年2 月)
(1)1998 年3 月,金大中政権が発足し,韓国政府として日本政府に国家補償
は要求しない代わりに韓国政府が「生活支援金」を元慰安婦に支給することを
決定した。なお,韓国政府として,「基金」から受け取った元慰安婦は「生活支
援金」の対象外となったものの,「基金」自体に表だって反対し,非難する措置
ではないとの立場について説明があった。
(2)さらに,この時期,韓国政府は,金大統領自身本件について金銭の問題
をなくせ,政府間のイシューにするなという意見であり,両国の問題は存在し
ないと思った方が良いとして,「基金」には申し訳ないが,政府間の問題になら
19
ないよう終止符を打つべき旨述べていた。
7 韓赤による医療・福祉事業への転換(1999 年3 月~1999 年7 月)
(1)「基金」は,1998 年7 月にオランダでの医療福祉事業が順調に開始された
こともあり,「償い金」に代わる医療福祉事業の転換を検討し,1999 年1 月末,
韓赤に協力を打診する方針を決定した。これに対して,日韓の事務方のやりと
りにおいて,韓国側からは事業を抜本的に変更することは結構なこととして,
形としては,日本側と韓赤の間で話が進み,韓赤より相談を受けた段階で前向
きに対応することを慫慂するとの段取りが適当と考える旨の反応が示された。
(2)しかし,1999 年3 月下旬に行われた日韓の事務方のやりとりにおいて,
突如韓国政府が方針を変え,この問題では何かしてもしなくても批判されると
いうことを冷静に踏まえておく必要がある旨述べつつ,韓赤は韓国政府の息の
かかった組織であり,強い反対が予想されるので,今回の提案は勘弁してほし
いとの反応が示された。これに対し,日本側は,事業転換は,金大中大統領訪
日により醸成された未来志向の日韓関係に悪影響を与えないようにとの観点か
ら,総理の了承も得て事業終了に強い難色を示す「基金」を説得したものであ
るとして,韓国側の申し入れは容易に納得し難い旨申し入れたものの,韓国側
の協力が得られずに最終的に事業転換が実現できない状況となった。
8 事業転換困難のまま基金事業終了(1999 年7 月~2002 年5 月)
(1)事業転換が実現出来なかった「基金」は1999 年7 月に事業を停止するこ
ととなり,停止状態が2002 年2 月まで続いたが,同月20 日,「基金」は事業の
停止状態をいったん解き,韓国内での事業申請受付期限を同年5 月1 日にする
ことを決定した。
(2)2002 年4 月に行われた日韓の事務方のやりとりでは,改めて韓国政府と
しては,「基金」の「償い金」支給,医療・福祉事業について反対の態度を示し
た。そして,翌5 月1 日に韓国における全ての「基金」事業申請受付が終了し,
1997 年1 月から始まった韓国での事業が幕を閉じた。
9 韓国における「基金」事業の終了と成果
(1)1995 年に設立された「基金」には,基本財産への寄附を含め約6 億円の
募金が集まり,日本政府は,インドネシアでの事業をもって事業全体が終了す
る2007 年3 月末までに拠出金・補助金あわせ約48 億円を支出した。韓国にお
ける事業としては,事業終了までに,元慰安婦合計61 名に対し,民間による寄
付を原資とする「償い金」200 万円を支給し,政府拠出金を原資とする医療・福
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祉支援事業300 万円を実施(一人当たり計500 万円)するとともに,これらを
受け取ったすべての元慰安婦に対し,当時の総理の署名入りの「お詫びの手紙」
をお渡しした。その数は,橋本政権下で27 件,小渕政権下で24 件,森政権下
で1 件,小泉政権下で9 件に及ぶ。
(2)フィリピン,インドネシアやオランダでの「基金」事業では,相手国政
府や関連団体等からの理解や肯定的な評価の下で実施できたところ,韓国では,
韓国国内における事情や日韓関係に大きく影響を受け,同政府や国民からの理
解は得られなかったものの,「基金」事業を受け取った元慰安婦からは,日本政
府から,私たちが生きているうちに,このような総理の謝罪やお金が出るとは
思いませんでした,日本のみなさんの気持ちであることもよく分かりました,
大変有り難うございます,とするお礼の言葉が寄せられた。
(3)また,一部の元慰安婦は,手術を受けるためにお金が必要だということ
で,「基金」を受け入れることを決めたが,当初は「基金」の関係者に会うこと
も嫌だという態度をとっていたものの,「基金」代表が総理の手紙,理事長の手
紙を朗読すると,声をあげて泣き出し,「基金」代表と抱き合って泣き続けた,
日本政府と国民のお詫びと償いの気持ちを受け止めていただいた,との報告も
なされており,韓国国内状況とは裏腹に,元慰安婦からの評価を得た。
以 上
21


エイゴ版もある
http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000042169.pdf


▽続きを読む▽
2014/06/21 15:30|コリアTB:0CM:0

 

ある北朝鮮兵士の告白(新潮新書)ある北朝鮮兵士の告白(新潮新書)
(2012/09/07)
韓景旭

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それほど面白いとは思わなかった。キタの実情を知ってくると不思議と思えない内容である。書物と、ネットの中だけだが、自分の知識が相当な豊かさになっているのを再確認した。 特亜幻想を打破したいと思う人には入門書のひとつになるだろう。 北朝鮮の内情の一部なのだ。


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2014/06/17 15:12|コリアTB:0CM:0

 

探し方が不味くて、見つけていなかったのですが、アマゾンなら入手可能であることが分かりました。


共産党についての九つの論評―中国共産党の正体を暴く共産党についての九つの論評―中国共産党の正体を暴く
(2005/09/13)
大紀元新聞グループ編集部

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日本ではマイナーな出版元なので、広まっていないようです。
勧めたいのは;

在日特定アジアの人には、本書で
中国人には、オリジナルで
在日外国人にそれぞれの翻訳で

日本人には、今では当たり前すぎるから他の書物でも良いのですが、本書はまとまっているので良い書物になります。

批判、反批判を繰り返すことで、論説は進歩します。

後進国に、(および後進人に)、多く発生するのは、批判に耐えないことです。
批判から逃げる、ないし無視することす。

日本の、マスメディアは本書を取り上げる気配がありません。それが逃げる意味の無視のように思います。
2013/12/20 11:00|九評共産党TB:0CM:0

 

 1980年代に、ソビエト共産主義に対する 批判が猛烈に高まり、ほどなく10年ほどの間にロシアの共産主義体制は崩壊していった。
ソビエトが崩壊したのだから、中国共産体制の崩壊もすぐにおきるように思った。ところが、かの国の体制は奇妙な生き延び方をしていった。
改革開放 という政策である。
この政策のおかげで、しばらく、共産党支配は延命した。

この体制の寿命はいつになったらくるのだろうか?


共産体制に対して破壊的な 書物が存在するのだという。それが、この九評共産党である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E8%A9%95%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A


発行元は大紀元 という。 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B4%80%E5%85%83
http://www.epochtimes.jp/jp/ssbd.php

新唐人電視台という、ネットTV局でも常備している。
http://jp.ntdtv.com/index.html

この局名:新唐 は、面白い。

いまから千四百年ほどむかしのチャイナには、隋 という全国統一王朝が成立した。47年ほどで滅んだ。

滅んだというよりも、周辺諸国を武力侵略を繰り返して、ほとんど自滅したのだ。

これに、交代した王朝が 唐 という。

実は、隋・唐は同一貴族集団の代表すげ替えという王朝交代だったのだ。
それで後継の唐王朝は、隋王朝の滅亡事情に反省して、自重的に行動し、隋王朝時代からの宿敵:高句麗を、新羅に手伝わせて滅ぼした。

これに先立って、滅ぼした 百済王朝については、(当初の約束に従って というわけではないが、)新羅に 奪取されると 再奪還戦争に疲れ ついに承認した。結局、新羅との当初の約束の線で実施された。

日本国天皇王朝も、そうなってのち、唐に使者:粟田真人を派遣して 以後、友好関係を結んだ。

大唐帝国 は、尊敬される存在であった。
そういう唐の故事から、考えると、
 新唐人電視台 という命名は興味深いものがある。

これまで、よくも延命してきた共産政権であるが
中国人民のために早期の滅亡を期待してやまない。

ひょっとすると、標記の ソビエトの例では、1980年代に批判が高まって、10年ほどの間に滅んだ。
以来、30年ほどの今。
2010年代のうちに、中国の共産主義王朝は滅ぶのであろうか。
中国人民の幸福のため、一日も早い滅亡が望まれる。

↓ ↓

▽続きを読む▽
2013/12/19 19:09|九評共産党TB:0CM:0

 

序文

百年余りに亘って世の中を騒がせてきた共産主義運動が人類にもたらしたものは、戦争、貧困、血生臭さと専制だけであったが、ソ連と東欧の共産党の崩 壊により、この世界に害を及ぼしたでたらめな芝居も前世紀末には終焉へと向かい、今では、庶民から党の総書記に至るまで、共産主義のたわごとを信じる人は 誰一人いなくなった。

「君権神授」でもなく「民主選挙」でもない共産党政権は、自らが生存の拠り所としていた信仰が完全に消えうせた今日、その執政の合法性もかつてない挑戦を受けることとなった。

中国共産党(中共)は、歴史の潮流に従ってその表舞台から退くことを拒み、逆に数十年に亘る政治運動の中で蓄積してきた、邪悪の粋を集めた各種の無頼手段を振るうことにより、合法性を探り、起死回生を図るための狂気のごときあがきを始めた。

改革にしろ開放にしろ、中共の目的は、ただ単に集団の利益と独裁政権を必死に維持することである。中国のこの20年間の経済発展、つまり、 中国人民が依然として厳しい束縛の中で辛労を重ねて獲得した果実は、中共に刀を捨てさせることができなかったばかりか、逆に執政の合法性の資本として奪い 取られてしまい、その一貫した無頼行為をいっそう人々を惑わす欺瞞的なものにしてしまったのである。

最も恐れるべきことに、中共は全力を傾けて民族の道徳的基盤を破壊し、全ての中国人を大なり小なり無頼の徒に変えて、共産党のために「時代とともに変化する」生存環境を確保しようと企んでいる。

民族の長期に亘る太平と安定のために、そして中国が一日も早く共産党支配から脱却し、民族の栄光を取り戻すためにも、共産党はなぜ下劣な行為をするのかということ、ならびにその無頼の本質を明確に認識することがとりわけ重要となった。

一、 共産党の無頼の本性は全く変わっていない

(一) 共産党の改革なるものは誰のためなのか?

歴史上、中共は、危機に遭遇するたびに改善しているように装い、人々に中共に対する幻想を引き起こさせてきた。しかし、これらの幻影は、一つの例外もなく ことごとく水泡と帰していったのである。今日、目先の利ばかり求めて見せびらかす、中共方式の経済繁栄という偽りの姿の下で、人々は共産党に対してまたも 幻想を産み出してしまっている。とは言え、共産党自身の利益と国家民族としての利益が根本的に相反するものである以上、この種の繁栄が長続きしないのは当 たり前であり、それが約束した「改革」なるものは、中共の統治を守ろうとするだけのものであり、薬を煎じるための水は変えるが薬は変えないといった小手先 の改革にすぎないのである。歪んだ発展の背後には、更に大きな社会的危機が潜んでいる。この危機が一旦暴発すれば、国家と民族はまた巨大な衝撃を受けるこ とになるであろう。

中共指導者は、世代交代につれて、天下を治めうるような器量を失い、天下を支配するための威信も失っていった。しかし、共産党は一つの体制として、合法性 が危ぶまれる中、集団の利益を維持することが個人の利益を守るための根本的保障となってきているのである。このような利己的な本性を持ち、全く制約を受け ない政党が、苦もなく順風満帆に発展するなどということは一方的な思い込みに過ぎない。

中共の『人民日報」でどう述べられているか見てみよう。

歴史的な弁証法は、中国共産党員に次のように教え込んだ。「変わるべきものは、変わらなければならず、変わらなければ衰える。変わるべきでないものは、変わってはならず、変わることは己の瓦解を意味する」。(2004年7月12日第1面)

では、変わるべきでないものとは、いったい何なのか。

党の「一つの中心、二つの基本点」[1]という基本路線は、百年変わらず揺らぐことはない。(2004年7月12日第1面)

人々は何が中心で何が基本点なのか分からないが、誰にでも分かることは、共産党の邪霊が、その集団の利益を守り、独裁専制を続けようとする決意を悔い改め ようなどということは決してありえないということである。案の定、共産党は世界の至る所で崩れた。それが共産主義の末路なのである。しかし、亡び行くもの は必ず必死にその滅亡に逆らおうとし、より破壊的となる。共産党と民主改良について話し合おうなどというのは、トラに向かって皮をよこせと頼むような無理 な相談にほかならない。

(二)共産党がなくなったら中国はどうなるのか?

共産党が衰退へと向かっている今、人々は思いがけなく、邪霊の憑き物のような中共が数十年にわたって、千変万化の無頼な手段によって人々の生活の様々な側面に共産党の邪悪な要素を注ぎ込んできたということに気付いた。

かつて、少なからぬ人が、毛沢東の遺影の前で涙を流し、「毛沢東がいなくなったら中国はどうなるのか?」と繰り返し泣き叫んでいた。二十数年後の今日、共 産党が「執政の合法性」を失った今、中共は新たなメディア宣伝によって、再び人々に、「共産党がなくなったら中国はどうなるのか?」という憂いを抱かせて いるのである。

事実、中共は、あらゆる隙間に入り込むという統治方法によって、われわれの文化と思考方法、更には中共を判断する基準にまで深々と中共の烙印を押し、言い 換えるならば中共そのものに変えたのである。過去が、中共の考えを人々の思想に注ぎ込む時期であったとすれば、今は正に、中共がそれを収穫する時期になっ たと言える。なぜなら、当時注ぎ込まれたものは、既に消化され人々の細胞となっており、人々は自ら進んで中共の論理によって思考し、中共の立場に立って物 事の是非を判断するようになったからである。

6月4日の天安門事件の虐殺について、「私が鄧小平だったらやはり戦車で鎮圧しただろう」と言う人がいる。法輪功への鎮圧について、「私が江沢民だったら やはり徹底的に鎮圧する」と言う人がいる。言論の自由の禁止について、「私が共産党だったら同じようにする」と言う人がいる。真理と良識は既に無く、共産 党の論理しか残っていない。これこそ、中共の無頼としての最も悪辣な手段の一つなのである。人々の頭の中に中共のこういった毒素が残っているかぎり、中共 は無頼としての生命を維持するために、そこからエネルギーを吸い取るのである。

「共産党がなくなれば中国はどうなるのか?」という思考方法こそ、中共が夢にまで願ったものであり、人々にその論理に従って物事を考えさせているのである。

中華民族には、中共の支配が始まる以前、既に五千年の文明の歴史があった。世界のいかなる社会といえども、王朝の滅亡によって発展の歩みが止まったという 例はない。しかし、数十年の中共の統治によって、人々は判断力を失い、長期にわたるキャンペーン、党を母と思わせる教育、あらゆるところに及ぶ政治によっ て、中共が無ければ生活ができないと思い込まされているのである。

毛沢東がいなくなっても中国は倒れていない。共産党が無くなれば中国は倒れるであろうか。

(三)動乱の本当の源は誰であるのか?

多くの人が、中共の無頼な行為を十分理解しそれに反感を持ち、共産主義の人を懲らしめ騙す手法を嫌悪している。しかし、人々は、中共の政治運動とそれに よって引き起こされる動乱に恐れをなしており、中国が乱れることを恐れている。中共が一旦「動乱」の名目で脅すと、人々は中共の強権に対して何もできず、 その統治を黙認することになってしまう。

実際のところ、数百万の軍隊と武装警官を抱えている中共こそ、中国の動乱の真の源であって、一般民衆には動乱を起こす理由は無く、ましてや動乱を起こす資 格も無い。潮流に逆らって動いている中共こそ、疑心暗鬼となって国家に動乱を持ち込んでいるのである。「安定が一切を圧倒する」、「一切の不安定要素は、 その萌芽状態のうちに消滅させる」というのが、中共が人民を弾圧する理論的根拠になっている。誰が中国最大の不安定要素であるのか。それは専ら暴政を行っ ている中国共産党にほかならない。動乱を起こしている中共が、「動乱」を逆用して人々を脅しているのであり、これこそ無頼漢のやり方なのである。

二、 経済発展は中共の供え物となった

(一) 人々が苦労して培った成果を盗用

中共が自認する「合法性」は、ここ20数年間の経済発展にある。実際、この経済発展は、中共が人民に対する束縛を少し緩めた中で、中国人民がコツコツと一 つ一つ積み上げて来たものであり、中共とは何ら関わりがない。それにも拘らず、中共はその成果を自分の功労として宣伝し、人々に対してその恩に感謝するよ う言う。まるで、中共がなければ、この成功は全てあり得なかったかのようである。誰もが知っている通り、共産党政権がない多くの国家では、とっくにもっと すばらしい状態になっているのである。

オリンピックで金メダルを取った選手は、党に感謝することを求められ、党自身も自ら、見せかけの「スポーツ大国」を実現したのは党の英明なリーダーシップ のお陰とした。中国で「SARS」が流行した時には、「党の基本理論、基本路線、基本綱領、基本経験の実践」が病毒との戦いに勝利をもたらした(人民日 報)と言い、「神州五号(宇宙船)」打ち上げ成功の時は、本来科学技術者の貢献であるものを、中共のお陰であり、中共こそが中国人民を世界の大国に列しう る証しであると宣伝した。2008年のオリンピック開催権については、本来西洋諸国が中国の人権状況改善を進めることを意図していたにも拘らず、反って人 権抑圧を「合法的」にし、民衆に対して公然と弾圧実施への口実として利用した。諸外国が見込んだ「巨大市場の潜在力」は、本来13億人民による消費である にも拘らず、中共はこれを掌握しているとして、西側諸国への脅しの材料とし、中共統治の武器として使っているのである。

全ての悪しきことは反動勢力と下心がある者が行うとし、全ての良いことは党の指導のお陰で成功したとしている。何かが達成されれば、それは全て中共統治の 「合法性」を塗り固める材料となる。良くないことさえ、その悪事を塗り替えて、自らの「合法性」に貢献するものにしてしまう。例えば、中共は、エイズの流 行について厳重な情報封鎖を行っていたが、隠し切れなくなると、態度を一変させた。自分たちが悪事の張本人であるにも拘らず、人類の疾病に対する挑戦者で あり、患者への福音であり、エイズの対抗勢力であるとして、有名俳優から党の総書記まで動員して、大々的な宣伝を行った。人命に関わる重大な問題であるに も拘らず、中共は自らを粉飾する材料としてしか考えておらず、このような理不尽な手法は、中共という無頼漢にしかできないものなのである。

(二) 短絡的行為が後発劣勢をもたらす

重大な「合法性の危機」に直面している中共は、統治を守り抜くために改革開放を進めたのだが、功を焦り目先の利を追ったがために、中国を「後発劣勢」に陥れてしまった。

「後発劣勢」あるいは「後発優勢」の概念とは、発展の遅れている後進国は、逆に多くのものを先進国から模倣していけるということである。模倣には二つの形 式がる。一つは制度の模倣であり、もう一つは技術及び工業化の模倣である。制度の模倣には困難が伴う。制度の改革は既得権益に触れるため、後進国は技術の 模倣に走る傾向にある。技術の模倣は、短期間に発展の効果が見られるが、長期的発展という面からは、多くの問題を内包することになり、長期的発展の失敗を 引き起こすこともある。  

中共は正に、この「後発劣勢」という失敗の路を歩んでいる。二十数年間にわたる「技術の模倣」で獲得した成果は、執政の「合法性」を国民に語るための資本 とされ、自身の利益を脅かす政治体制の改革にはいっそう反発を示し、むしろ民族の長期的発展を犠牲にしようとするのである。

(三) 中共の経済発展は悲惨な代償を支払う

中共は絶えず自国の経済発展を誇っているが、実は、世界経済における現在の中国の地位は、清朝の乾隆時代よりも下なのである。清朝乾隆時代の中国の国民総 生産(GDP)は世界の51%にあたり、孫中山が中華民国を建国した当初の中国のGDPは世界の27%であり、中華民国11年のときのGDPも依然12% に達していた。中共が政権を取った際の中国のGDPは世界の5.7%を占めていたのが、2003年になった時点では世界の4%にも達していなかった。国民 政府時代の数十年間の戦争によって引き起こされた経済的下降とは異なり、中共は基本的に平和な時代において経済的下降を引き起こしたのである。

中共は、党の集団利益が至上という欠陥経済改革を維持し、政権執行を合法的にするために、目先の功利を追い求め、その結果、国家に悲惨な代償を払わせてい る。20年以上に及ぶ経済の急速な発展は、その大部分が資源の搾取となる過度の消耗と浪費という基礎の上に成り立っており、往々にして環境の犠牲をその代 償として支払っている。中国のGDPに示される数字は、その相当な部分が、後世の人々が与えられるはずの機会を犠牲にすることによって獲得されたものであ る。2003年、中国の世界経済における貢献は4%にも満たないのに、鉄鋼やセメントなどの消費は、世界の1/3にも達しているのである(新華社2004 年3月4日報道)。

前世紀の80年代から90年代末までで、中国国土の砂漠化は年間1,000k㎡から2,460k㎡に拡大した。そのため、1980年には中国人一人当たり 約13.5アールであった耕地面積が、2003年には約9.6アールに減少した。さらに、ここ数年の猛烈な宅地開発ブームによって、全国の耕地約700万 ヘクタールが食い荒らされた。ただ実際には、宅地開発のために囲い込まれた土地の利用率は43%に過ぎなかった。また、現時点での廃水排出量は439.5 億トンとなり、環境容量を82%も超えている。七大大河水系の中で、人や家畜の飲用に適さない水は40.9%を占め、75%の湖沼には様々な程度の富栄養 化が起っている。…中国人と自然との矛盾が今日ほど突出していたことはかつてない。こういった状況が進めば、中国のみならず全世界が耐えられなくなるであ ろう(新華社2004年2月29日報道)。

眼前の高層ビルに酔いしれている人々は、近づきつつある生態系の危機に全く気付かずにいるかもしれない。しかし、一旦大自然が人類に対して牙をむいたならば、中華民族が被る打撃は想像もつかないものになるであろう。

一方、共産主義を放棄したロシアは対照的である。経済改革と政治改革が同時進行しており、短期間の苦しみを経た後、急速に発展への道を歩みはじめている。 1999年から2003年までの間に、ロシアのGDPは累計29.9%成長し、国民の生活水準も顕著に向上した。西側ビジネス界も、「ロシア経済現象」に ついて語りはじめたばかりでなく、ロシアというこの新興の投資地域に大挙して参入し始めた。世界で最も投資吸引力を持つ国として、ロシアは、2002年の 17位から、2003年には8位に上昇し、初めて世界で最も歓迎されている10大投資地域の仲間入りを果した。

ほとんどの中国人が、貧しくて立ち遅れており、人種間の衝突が絶えないという印象を持つインドでさえも、1991年の経済改革以来、発展の加速は顕著であ り、毎年の経済成長率は7~8%に達している。インドは市場経済法律体系が比較的整っており、金融システムも健全であり、民主制度も比較的成熟しており、 国民性は穏やかであるため、国際社会からあまねく、巨大な発展潜在能力を持つ国であると考えられている。

それに相反して、ひたすら経済改革だけ行い、政治改革を行おうとはせず、短期的な経済的繁栄という虚飾の下に、「制度の進化」という当然の選択を妨げてい る。このような片手落ちの改革は、中国社会をますます畸形化させ、社会の矛盾をますます際立たせるだけであって、人々が今日勝ち得た発展には何ら制度化さ れた保障がないのである。その上、中共の特権階層は、国有資産の民営化の過程で、権勢を借りていっそう私腹を肥やしているのである。

(四) 中共の農民に対する詐欺行為

中共の政権は、農民に依存して打ちたてられたものであり、古い解放区の人民は中共に全てを捧げた。ところが、中共は権力を掌握した後、農民を差別したのである。

中共は、政権樹立後、極めて不公平な戸籍制という制度を制定した。「農業従事者と非農業従事者」を強制区分し、一つの国家内に分裂と対立を生み出したので ある。農民には医療保険も失業保険もなく、退職金(廃棄保障)も融資制度もない。農民は、中国で最も貧しい階層であるにも関わらず、最も重い税金が課せら れている。農民は、公積金、公益金、行管金、教育費附加、計画生育費、民兵建設訓練費、郷村道路建設費、及び特別慰問金(戦没者の家族、軍人家族などに与 えられる)などが課せられる上、公糧、農業税、土地税、特産税、屠宰税なども支払わされる。しかも、各種の割り当て名目は枚挙にいとまがない。一方、こう いった税金は、「非農業従事者」には課せられないのである。

温家宝は2004年初めに出した「1号文件」(執行部による公文書)で、中国の農民、農業、農村は改革開放以来最も厳しい時期にあり、多くの農業従事者の収入は低迷、減少し、ますます貧しくなっており、都市部住民との収入格差は広がる一方であるということを明らかにした。

四川省東部の営林場で、上級機関が植林用に50万元を支給した。すると、営林場の責任者がまず20万元を着服し、残りの30万元で請け負わせた。この予算 が下層に下りていくうちに同様に着服され、実際に植林を行う当地の農民に渡されるお金はほとんど残っていなかった。ただ、政府は、農民たちがお金が少ない ということで植林をしないのではないかなどということは心配していなかった。なぜなら、農民たちは貧しいので、いかに安くとも必ずやるはずだと考えたから である。「中国製」の物品が安いのも同じ理由である。

(五)経済利益で西側を脅かす

多くの人は、貿易の発展が中国の人権、言論の自由、民主改革を促進しうると考えていた。しかし、十数年が経過した今日、これはただの希望的観測でしかな かったことが証明された。最も典型的な点はビジネスの原則である。西側諸国の公平透明が、中国ではコネクションに変わり、贈賄、収賄、汚職腐敗となる。多 くの西側の大企業が、中国の腐敗進展を煽動する急先鋒となり、更には中国の人権弾圧、人民虐待を隠蔽する母体となっている。

経済カードによる手口は、中共の無頼漢たる外交上での現れである。例えば、航空機の発注をフランスにするのか米国にするのかは、どちらが中国の人権言論問 題についてあれこれ言及しているかによって決めるのである。経済的権益が多くの西側のビジネスマンや政治家をしっかりと取り込んだということである。北米 の一部のウェブ関連企業がインターネット上の情報を封鎖する専用商品を中共に提供しており、一部のインターネット関連企業は、中国へビジネス展開するため に、中共にとって好ましくないものを全てのウェブサイトから「自主的に」フィルターするということまでしている。

中国商務部の統計によれば、2004年4月の中国における外資は累計で9,901.3億米ドルとなっている。外資が中国経済にとって大きな輸血的作用を もっていることは明らかである。しかし、その輸血の過程において、外資が民主、自由、人権の理念を基本原則として中国人民にもたらすことはなかった。外国 企業と外国政府の「無条件」の協力及び一部の国による媚びは、かえって中共が宣伝用に使用する統治資本となった。経済の表面的な繁栄の表看板の下で、役人 と商人が結託し、国家財産を掠め取り、政治改革の実行にこれ以上ない妨げとなっている。

三、中共の洗脳術は、「赤裸々」から「精緻化」へ

しばしば聞かれる話として、「中共が以前よく嘘をついていたことは知っているが、今度の話は嘘ではない」というのがある。皮肉とも言えるのは、時の流れを 遡ってみても、歴史的に見て、中共が何か大きな誤りを犯した時、人々はいつも同じことを語っていた。これこそ中共が数十年にわたり磨き上げて来た、人民を 騙す虚言の本領である。

大風呂敷を広げたような虚言に対しては、人々がいささか抵抗を感じるようになったため、中共の人を騙す嘘も「精緻化」し、「専門化」してきた。過去のス ローガン式宣伝から、「少しずつ前進させる」、「細緻化し、微に入り細にわたる」手法となってきている。特に、情報封鎖をした状況において、「事実」の断 片を切り取った虚言で、民衆を過った方向へと誘導しており、その害は、人々をいっそう惑わすものとなっている。

英文雑誌「China Scope」2004年10月号に、中共が今日いかにして、さらに「精緻化」された手法で虚言を作り出して真相を覆い隠してきたかについての事例分析が紹 介されている。2003年大陸でSARSが流行した際、外部では中共がその実情を隠蔽しているのではないかと疑ったが、中共はそれを再三否定した。中共の SARS報道が客観的なものであるか否かを確認するために、この記事の作者は年初から4月初めにかけて新華ネット上に発表されたSARS関連報道400篇 余りに目を通した。

これらの報道から作者は、次のような報道があったことがわかった。SARSが出現した際、中央から地方までの専門家が直ちに立会診察を行って治療し、病人 は回復し退院したということ。一部の良からぬ者が風波を立てることを恐れ、政府は流言を遮断し、人民の生活秩序の安定を保障しているということ。外国にい る少数の反華勢力が、根拠も無しに、中国政府が隠蔽しているのではないかと疑っているが、大多数の国々と国民は彼らの言うことを信じていないということ。 広州交貿会は、歴史上最大の規模で開催されようとしており、海外からの観光客が、中国の国内観光は安全であると証言したこと。特に(ごまかされた)WHO の専門家も、中共は協力的であり、措置は的を射ており、何の問題もないと語ったこと。(二十日余り待たされた)WHO専門家が広東省への公開視察を許され たということ。

これら400篇以上に及ぶ報道から、作者は、中共は全てを透明にしており、人民の健康には絶対的な責任を負い、情報を隠すなどということは考えられない、 と感じさせられた。しかし、4月20日になって、国務院の報道部は記者会見を行い、中国でSARSが全面的に発生したと発表し、実情を隠蔽していたことを 認めたのである。ここから、中共の「時代と共に変化する」無頼漢的欺瞞の手段が明白に読み取れる。

台湾の大統領選挙に関しても、「手順を踏みつつ」、「ゆっくり誘導」するという方式で、人民を巧みに洗脳し、大統領選挙によって、自殺率が上昇し、株価が 下落し、「怪病」が増え、精神異常者が続発し、島民は海外へと移住し、家人は反目し合い、生活は張りを失い、市場は落ち込み、街では銃が乱射され、紛争抗 議が起こり、総統府を包囲して天下大乱となり、政治はどたばた劇を演じる…毎日大陸の民衆にこういったでたらめな情報を流しては、人民に「これは全て選挙 のせいである」、「私たちは決して民主選挙など行ってはならない」と思い込ませるのである。

法輪功問題に関しては、中共は更に悪辣な手段を講じている。全ての演出は真に迫り、一つ一つ用心深く小出しにして行くことで、人々は信じざるを得なくなっ たのである。騙しによる無頼の手法は、騙される人々の感情を巧みに操り、虚言を真実であると信じ込ませる。その上、騙された人々は、自分たちが真理に準じ ているとまで勘違いしてしまうのである。

この数十年間、洗脳で人を騙す手口は、より「精緻」で「微に入り細にわたる」ものとなり、その無頼の本質を増長させている。

四、 中共の人権偽装

(一) 権力を奪い取り民主を求めるためであったのが、独裁統治と人権偽装へ

「民主国家にとって、主権在民は普遍の原理である。民主国家を自称する国で主権が人民の手中になければ、それは偽りであり、異常であり、民主国家ではない。党支配を止めず、人民による普通選挙も行わずして、何が民主と言えるのか?人民の権利は人民に渡さねばならない!」

これは海外の敵対勢力が中共を打倒するための檄文であるに相違ないと思われたならば、それは誤りである。この宣言は、1945年9月27日付の中国共産党機関紙『新華日報』に掲載されたものである。

大声で「普通選挙」を唱え、「人民の権利を人民に与えよ」と要求した中共は、政権を掠め取った後「普通選挙」を禁句としてしまった。「主人公となって政治 に参与する」はずの人民は、主人公となる権利を全く得られなかった。このような手口は、「無頼漢」の二字をもってしても中共の面目を語るに足りない。

これを過ぎたことであるとし、殺人によって政権を作り上げ、虚言で国を治める邪教中共も、今では改善され、「人民の権利を人民に与える」準備があると見なすことは、大きな誤りである。60年経過した今日、中共の機関紙『人民日報」がどのように唱えているか耳を傾けよう。

「意識形態工作の主導権をしっかり掌握することは、党執政のための思想的基礎と政治的基礎を強固にするためにどうしても必要である」(2004年11月23日第九版所載)

中共が最近唱え出した新「三不主義」[2]では、1番目に来ているのが「論争せずに発展させる」である。「発展」とは偽りであり、人に有無を言わせず、己の言うことを至上命令とする手法を強要する下での「論争せず」が、中共の本当の目的である。

江沢民はかつて、CBSの名レポーター、マイク・ウォレスのインタビューを受け、「中国は、なぜ現在に至っても普通選挙がないのか」と訊ねられた。その時の答えが、「中国人の素質があまりにも良くないから」というものであった。

しかし、1939年2月25日の『新華日報」には、共産党の見解として、「国民党は、中国での民主政治の実現を今日のこととせず、何年か後のことだとして いる。彼らの希望は、中国人民の知識や教育水準が欧米のブルジョア国家並みになれば、民主政治を実現するとしている…ところが、民主制度の下にあるからこ そ、民衆の教育訓練は正に容易に行えるのだ」と言っている。これこそ中共無頼漢の面目を正に現している。

六四(天安門事件)後の中共は、重い人権という荷物を背負ったまま世界の舞台に帰ってきた。歴史が中共に選択の機会を与えたのだ。第一の選択肢は、人民を 尊重し真に人権を改善することを学ぶことであり、第二の選択肢は、引き続き人権を侵犯し、対外的には人権を尊重しているように装い、譴責を逃れることであ る。

不幸なことに、無頼の本性を持つ中共は、躊躇することなく第二の選択肢を選んだ。科学界、宗教界を含めた各領域で、欺瞞に満ちた宣伝を行い、人権が進歩し ていると吹聴する大量の偽装人員を雇い、「生存権」なるものを持ち込んでは人権論議をはぐらかせ(空腹で有れば話す権利が無いというのであろうか?例えそ うであっても、満腹の人は、空腹の人のために何かを言うこともできないと言うのであろうか?)、人権ゲームを弄び、中国人民と西側民主国家を欺き、「今が 中国の人権にとって最もよい時期である」と吹聴したのである。

中共憲法第三十五条には、中華人民共和国公民は、言論、出版、集会、結社、デモ行進、デモの自由があると定められている。これは全くのところ中共のことば 遊びである。中共の統治下では、どれほどの人が信仰、言論、出版、集会、弁護の権利を奪われたことか。さらには、一部の団体の陳情は違法と見なすとまで規 定されているのである。2004年以来、一部の陳情団体が何度も北京でのデモ行進の許可を申請したが、政府は同意しなかっただけでなく、申請人を拘禁し た。中共憲法に規定された香港の「一国二制度」さえもペテンである。何が50年不変なものであろうか。わずか5年で23条の悪法を通過させ、二制度を一制 度に変えようとしたのである。[3]

「言論を緩める」という言葉を流しては、監視をしていないように見せかけるのが、中共無頼漢の新たな策略である。中国人は現在、何かを語ることが以前より 自由になったと感じている。インターネットの出現で情報の伝達もより早くなった。そこで、中共は、言論は自由であると言い、多くの民衆もそれを信じるが、 それは仮面である。中共が慈しみ深くなったのではなく、社会の発展と技術の進歩を中共が阻止できなくなったのである。中共がインターネット上でやっている ことをみる限り、ネット封鎖、フィルタリング、監視、コントロール、罪を着せるなど、完全に世の流れに逆行している。今日では、一部の人権良知に背く資本 家らの協力の下に、中共の警察はパトカーの中でインターネット上の人々の動きを監視できる装備を備えている。世界の民主自由という大潮流の下で行っている ことから見ると、中共は公に悪事を働いているわけで、こんな状態で人権状況の改善などあり得るはずがない。自ら述べている通り、「外は緩く見せ、内は締め る」のであり、無頼の本質は全く変わっていないのである。

国連人権会議における面子のため、2004年中共は人権侵犯を取り締る活動を行ったが、これは全て外国人に見せるためのもので、実質的な内容は全くない。 というのも、中国にあって最大の人権迫害分子は共産党そのものであり、中でも前総書記江沢民、元政法委書記羅干、公安部長周永康及び副部長劉京などが中核 だからである。彼等に人権侵犯者を取り締れというのは、正に泥棒が他人を泥棒呼ばわりしているようなものである。

これは例えてみれば、強姦常習犯が以前は人が見ていないところで、毎日10人の少女を凌辱していたが、後になって通行人が多くなったため、大衆の面前で一 日に一人しか凌辱できなくなったということである。この罪人は好くなったと言えるであろうか。以前は人の見ていないところで少女を強姦していたが、現在は 大衆の面前で少女を強姦するというのであれば、この罪人はより下劣で破廉恥になったということであり、強姦常習犯の本性に何ら変化はなく、ただ、以前ほど 勝手にできなくなったというだけのことである。

中共は正にそういった無頼の強姦魔である。中共独裁の本質は、権力を失うことを恐れるという本能であり、人民の権利を尊重することなどあり得ない。人権尊 重を装うために投入した人力、物力、財力は、真に人権改善のために付与した努力を遙かに上回っている。共産という無頼漢が中華を嗜虐しており、これこそ中 国人民の最大の不幸である。

(二)「法律」を手段に「文明の衣を着て」無頼行為を行う

中共は特権集団の私利を擁護するために、一方で偽装を取り外し、徹底的に工農民衆を捨てている。また一方では、中共の人権侵害のスキャンダルが次から次へ と国際社会に暴露されるにつれて、欺瞞と無頼の手段も「時代とともに変化」し、「法治」、「市場」、「人民のため」、「改革」などの流行用語を用いては、 人々を惑わすのである。文明の衣を着ている中共邪悪無頼漢の本性は変わっていないばかりか、人民服を着ていた以前の中共に比べ、より悪質で欺瞞と惑乱に満 ちるようになった。例えて言えば、『動物農場』(1946年英国の小説家ジョージ・オーウェルが全体主義を皮肉った寓話)に描かれている、両足で立ち上 がって歩くことを覚えた豚のようなもので、体を真っすぐにして歩く豚は、豚というものに対して新しいイメージを与えたが、豚という「本性」は全く変わって いないのである。

1)憲法に反する各種の法律法規及び条例を制定する

これらのものは、いわゆる「法律に基づいたもの」として、国の各級法律執行担当者へ伝達され、「反迫害、自由の獲得、人権の擁護」のために努力する人民に対しての弾圧に利用される。

2)「非政治的」な問題に対して「政治的」手段を用いて解決する

一般的な社会問題を「党と群集を奪い合う」、「党を滅ぼし、国を滅ぼす」、「動乱」、「敵対勢力」などの重大問題にエスカレートさせ、「非政治的」な問題を意図的に「政治的」な問題とし、政治運動の宣伝方式を用いて民衆の憤りを煽り立てるのである。

3)「政治的」な問題を「非政治的」手段で解決する

一部の民主運動家や知識人に対して中共が採っている最新手法は、罠を仕掛け、「売春婦を買う」、「脱税」などの民事刑事罪名によって彼らを 刑務所へと陥れることである。この手法を用いれば、人の目を眩ませることができる上、世間の非難から逃れられ、更に彼らを大衆の面前で辱めることができる のである。

中共の無頼の本性があえて変わったと言うのであれば、更に恥知らずとなり、ますます人間性を失ってしまったということに尽きる。

(三)十数億の人民を拉致する「人質無頼漢文化」

例えば、強盗がドアをうち破って押し入り、強姦をも犯した。法廷における弁護では、その「強姦行為」のおかげで人を殺さずに済んだのであ り、「強姦」と「殺人」を比べれば、殺人の方が凶悪である。従って、法廷は被告を無罪釈放とすべきだと述べ、人々が「強姦は筋が通っている」と唱和すべき とする。

これは全くの荒唐無稽であるが、中共の六四(天安門事件)弾圧の理論は、この強盗と同じなのである。彼等の説は、「学生を弾圧」することによって「内乱」を防いだ。だから、「内乱」と比べれば「弾圧は筋が通る」ということである。

強盗が法廷で裁判官に、「強姦と殺人ではどちらがましか」と問う。これは何を意味するかと言えば、この強姦犯は破廉恥な無頼漢だということである。同様に 「六四」(天安門事件)の問題において、中共とその同調者は、殺人が罪であるか否かという問題を検討したのではなく、社会に対して「弾圧と内戦ではどちら を選ぶか」と尋ねたのである。

中共は、国の全ての機器と宣伝媒体をコントロールしている。言ってみれば、13億の人民は全て中共の人質である。この13億の人質を手にして、中共の「人 質理論」は常に、一部の人を弾圧しなければ内乱になるかも知れない。そうすれば国家的災難に陥ると言っている。このような口実によって、いつでも所かまわ ず、誰かを弾圧したくなれば弾圧し、しかも永遠に「弾圧は筋が通っている」のである。このように民意を踏みにじっている中共を上回るような無頼漢がいるで あろうか。

(四)飴と鞭を与える。「自由」の恩賜から、より酷くなった弾圧まで

人々は、今は昔に比べると随分「自由」になったと感じている。そこから、中共は将来良くなって行くだろうという希望をもっている。しかしながら、人民が 「授け」られた自由の度合いは、中共自身が感じている危機感と大いに関係がある。中共は、党の集団としての利益を擁護するのに役に立つことであれば何でも やる、というだけのことであって、いわゆる民主、自由、人権でさえも、必要があれば与えるのである。

ただし、共産党の統治下で恵まれた「自由」には、何の法的保障もない。この「自由」なるものは、国際的大潮流の中で、中共が人民を麻痺させ思うままに操る ための道具なのである。本来、それは中共の独裁的利益と合致するはずもなく、衝突するしかないものである。一旦、この衝突が中共の容認の限度を超えるまで に激化すると、中共はすぐさま一切の「自由」を奪い去ってしまう。中共の歴史の中で、言論が比較的自由な時期が何度かあったが、自由な時期の後には再び厳 しい取締の時期がやってくる、ということが何度も繰り返されてきた。そこにこそ中共の無頼漢としての本性が現れているのである。

現在、インターネット時代となり、新華ネットや人民ネットを読むならば、そこには多くのマイナス情報が存在することに気がつくはずである。第一に、現在悪 しきニュースがあまりにも多く、しかもあっという間に伝わるし、その分野での競争から報道しない訳にはいかない。第二に、こういった報道の基本は、党の利 益に合致するということであり、「小さなものを罵っておいて、大局的には得をする」という手口で、悪いことの原因は全て個人に帰し、党とは関わりが無く、 しかもその「問題解決の方法」では決まって、「党の指導でなければ解決できない」となっている。何を報じ何を報じないか、報じるとすればどの程度か、報道 は大陸のメディアから出すのか海外の共同メディアに報道してもらうのか、いかにして悪しきニュースを「昇華」させて民心を掌握するかなどについて、中共は 非常に熟達しているのである。

多くの大陸の若者は、中共の言論はかなり自由だと思い込んでいる。そこから中共に対して恩愛を覚え、希望を抱き、最終的にこの手の「精緻な」無頼のメディ ア戦略の犠牲となってしまう。更に、社会の局面を混乱させるために適当なマイナスの報道と組み合わせることによって、人民に対して、中共の強権がなければ 時局を収められないと人々を脅かし、中共に賛成する以外の道を絶ってしまうのである。

だから、中共が人権を改善するという善意を示すことがあったとしても、体質が変わったなどと思わないほうが良い。かつて、国民党との争いの中では、中共は民主闘士を装っていた。無頼の本性からして、中共の一切の承諾は当てにならないのである。

五、中共の無頼漢としての様々な面構え

(一) 虚栄を求め、国を売る。統一のためというのは口実で、実は国土を売り渡したのである

「台湾を解放しなければならぬ」、「台湾統一」というのは、中共が数十年にわたり言い続けているスローガンであり、自分が民族主義と愛国主義の守り神であ るかのように振る舞っている。中共の本当の関心事が国家領土の保全にあるのかと言えばそうではない。台湾は国民党と共産党の争いがもたらした歴史的問題と して残っているだけのことであり、中共は相手を叩く口実として使い、人心の籠絡に使っているに過ぎない。

早期の中共が国民政権の下で打ち立てた「中華ポリシェビキ」での「憲法」第十四条では、「中国内の各少数民族、更に各省は、独立自治することができる」と ある。ロシアに呼応して中共も、「ポリシェビキ〔レーニンの率いるロシア社会民主党ポリシェビキ派(後のソ連共産党)〕を守る」ことをスローガンにした。 抗日戦争中、中共の最大の狙いは、それを利用して自らの規模を拡大することであった。1945年、ソビエト共産軍が東北部に進入し、強姦や略奪を働いた時 にも、更にはソビエト共産軍が外蒙古を独立させた時にも、中共は何ら抗議をしなかった。

1999年末、中共とロシアは「中ロ境界調査協定」を締結し、それによって、清朝がロシアとの間で結んだ一連の不平等条約を承認し、台湾の数十倍にも相当 する100万k㎡あまりの国土を売り渡した。また、2004年の「中ロ東部国境補充協定」によって、黒龍江省黒瞎子島の半分の主権を失ったと言われてい る。

その他の境界分割や南沙群島、さらには魚釣島の主権に関しては、中共は、政権維持に何の利もないと考え、全く重要視していない。また、「台湾統一」は、中共が国内問題を衆目からそらせ、民族主義を煽り立てる無頼の常套手段である煙幕を張っているに過ぎない。

(二) 道徳的抑制のない政治上の無頼漢

政府はすべからく監督の下に置かれるべきである。民主国家にあっては、その分権的政治制度と言論、報道の自由が、格好の監督機能を果たし、宗教の信仰は更に道徳上における自己規制を提供することになる。

共産党は無神論を標榜し、神による道徳的規制がない。また、ひたすら集権専制を進めているため、政治上の法的拘束もない。それ故、中共無頼漢に対しては、 天も法も妨げるものはない。ならば、中共が人民にどのように説明しているかを誰が監督するというのか。「自己」である。これこそ、中共が数十年もの間人民 を騙し続けてきた口癖である。早期の「自己批判」から、後の「自己」監督や「自ら」党の指導を整えるということまで、そして最近の「自ら」党の執政能力を 向上させるということまで、中共が強調しているものは、共産党はいわゆる「自己改善」の強大な能力をもっているということである。党は口で言うだけでな く、更に行動も起こし、「中央紀律検査委員会」、「信訪オフィス」(陳情受付所)なる人々を惑わす飾り物的な機構をも設立した。

道徳と法律の拘束のない「自己改善」は、伝統的な言い方に従えば「自心生魔」(自らの心に魔を生ずる)である。これは中共が外界からの監督、党、報道の開 放を拒絶するための口実であり、政治無頼漢が、その集団の利益と執政の「合法性」を守り、人民を欺くためのものにしか過ぎない。

政治無頼漢としての手腕は中共の得意とするところである。「人民民主的専政」、「民主集中制」、「政治協商」などの言葉は人を騙すためのものに過ぎず、「専政」以外これらのスローガンは全くの偽りである。

(三) 抗日戦争からはじまり、反テロ闘争に到る虚構の上に、陰謀詭計を図る

中共はこれまで一貫して、中国共産党が全国人民を指導して日本人を打ち破ったと称してきた。しかし、多くの歴史的資料から、中共は当時の抗日戦争には敢えて参加せず、国民党が戦っている間に力を蓄え、後ろから足を引っ張って抗日戦争の邪魔をしていたことが明らかとなった。

中共が唯一参加した大型会戦は、「平型関戦役」と「百団大戦」のみである。「平型関戦役」について言えば、「主力部隊として戦闘を指揮し参加した」わけで はなく、敵軍の補給部隊へのゲリラ攻撃を行ったに過ぎなかった。「百団大戦」については、中共の内部では、党中央の戦略方針に背いて行われたものだと考え られている。その後、毛沢東及び中共は、戦闘らしい戦闘に加わったことがないばかりか、董存瑞、黄継光といった抗日の英雄を生み出すこともなかった。ただ 数人の高級軍官が抗日戦で殉死しただけであり、今日に至るまで、その死傷者数を明らかにすることすらできず、しかも広大な中国大陸において、抗日烈士(抗 日戦で戦死した兵士)の記念碑を見ることも、極めて稀である。

当時の中共は抗日戦のはるか後方でいわゆる「陜甘寧辺区政府」を樹立した。現代風に言えば、それは「一国二制度」であり、国の中に「二つの中国」を作った のである。戦闘員の中には抗日の熱情に燃えていたものもあったが、中共の高層には抗日の意志はなく、目的を持って計画的に兵員を温存しつつ己の力を蓄え、 この戦争を利用して己の力を強大にしようとしたのである。中日国交正常化に当って、毛沢東は時の日本の首相田中角栄に心境を吐露した。「中共は日本に感謝 しなければならない。あの抗日戦争がなければ、中共が天下を取ることはできなかった」。

これが、中共が自称する「全国人民を率いて八年間の抗戦中指導を続け、最後の勝利に導いた」という大嘘の真相である。

半世紀後、米国に911テロが起こり、反テロが世界の潮流となると、中共は又しても抗日戦で使った無頼漢的詭計を用いた。反テロを口実として、多くの宗教 信仰、批判分子、地域、民族紛争などの団体をテロ分子とし、国際的な反テロ機運を隠れ蓑に、ほしいままに暴虐な弾圧を行ったのである。

2004年9月27日、新華社が『新京報』のニュースを転載して、北京におそらく、全国の各省市の中で最初の反テロ部局が設立されるであろうと伝えた。海 外の一部の親共メディアは更に、「610オフィスが反テロに加わる」(610は法輪功迫害専門組織)の表題で大げさに報道し、法輪功を含むテロ組織を攻撃 することに重点を置くと公言した。

中共は、心に寸鉄もなく、殴られても殴り返さず、罵られても罵り返すことのない平和的陳情に来た民衆をテロ分子とし、完全武装した「特殊反テロ部隊」を出 動させ、非力な民衆と善良な人々をすぐさま叩き潰すのである。更に「反テロ」という口実で海外からの批判と譴責を逃れるという、抗日時に見せた無頼漢的手 法と全く同じ手法を使い、国際社会で行っている「反テロ」活動に恥辱を与えている。

(四) 表では敬い影では裏切ると言う手口で、真剣に形式だけ整える

「自分では信じないのに、他人には無理やり信じさせる」というのが、中共という邪教の最も無頼漢的な手口の一つである。中共自身が共産党の教義はすべてで たらめであり、社会主義は詐欺であり、既に破綻していることを熟知しており、自ら信じていないにも拘らず、人には信じることを強要し、信じないものは弾圧 するということを行っている。しかも、最も荒唐無稽な破廉恥なことに、党はこれらの欺瞞論理を憲法に取り入れ、立国の要綱としているのである。

現実の生活の中で、次のような面白い現象がある。中国の官界における政治闘争の中で、腐敗が原因で失脚した高官らは、昼は大会で大いに「廉潔奉公」を語 り、夜になれば「賄賂を取り、道楽のし放題」という有様であった。元、雲南省長李嘉廷、貴州省委書記劉方仁、河北省委書記程維高、国土資源部大臣田鳳山、 安徽省副省長王懐忠などのいわゆる「人民公僕」らはみな同じ轍を踏んでいる。彼らの講話を調べてみればわかることであるが、彼らは、一人の例外もなく、一 方ではお金を横領し賄賂を受け取りながら、一方では各種の報告の中で繰り返し、「廉潔に政治を行い、腐敗への反発を強化しなければならない」と要求してい るのである。

中共は多くのモデル的人物を作り出し、理想を抱き、前途有望な人々の入党を大きく宣伝し、党の外観を立派にしてきた。しかし、今日の中国の道徳水準の堕落 がたとえようのない程であることは衆目の一致するところである。なぜ中共の「精神文化」の宣伝が機能しないのであろうか。

実のところ、共産党の首脳部が民衆を指導する時に語る、「共産主義道徳」、「人民に奉仕する」などは、ほとんどでたらめである。マルクスは私生児問題、 レーニンは買春により梅毒感染、スターリンは歌手を無理やり囲い告訴、毛沢東の女漁り、江沢民の淫行、ルーマニアのシャウシェスク一家は権益を享受、 キューバのカストロは海外の銀行に数億の蓄財、北朝鮮の金日成の子孫は豪遊の日々など、共産党リーダーの言行不一致は、元祖マルクスから始まっている。

中国人民は日常生活の中で、嘘で固められた空しい政治学習に厭気が差しており、「政治のことを語る」などといったことをいい加減にあしらっている。なぜな ら、それは人を騙すためのものでしかないということをみんな知っているからである。政治の舞台の上にいる人も下にいる人も、お互いのやっていることが分 かっていても、深く追求せず、暴くこともしないのである。この種の現象を人々は、「真剣に形式だけ整える」と称している。少し前の「三つの代表」、その後 の「執政能力を高める」、最近では「人々の心を暖かくし、人々の心を穏やかにし、人々の心を得る」という「三つの心」などということを言っているが、それ らは全て下らない無駄話である。

どこの執政政党が人民の利益を代表していないだろうか?どこの執政政党が執政能力を重んじないだろうか?どこの執政政党が人心を得るために働いていないだ ろうか?もしそうであれば、早々に政治舞台から追い落とされるのではなかろうか。しかし、中共はこうした中身のない話をさも奥深い精妙な理論であるかのよ うに、全国民に凄まじい勢いで学習させるのである。

「形式だけ整える」ということが、知らぬ間に10数億の人民の習慣となり、「党の文化」現象となってしまった時、社会全体に「うそをつき、ほらを吹き、中 身がない」という現象が起こり、信頼の危機が生じた。中共はなぜこのようなことをするのであろうか。昔は「主義」のためであり、今は「利益」のためであ る。「真剣に形式だけ整えている」のだとわかっていても、そのまま続けなければならない。このような方法をとらなければ、無頼漢らしいボス像がなくなり、 人民に推戴されなくなり、人民が自分を恐れることがなくなるからである。

(五) 良識を殺し、個人の正義感を党の利益に服従させる

劉少奇が『共産党員の修養を論ずる』という本の中で、「党員個人の利益は、無条件に党の利益に服従する」と述べている。歴史的に見ても、中共の党員の中 で、国を憂い、民を憂える正義の士と、人民の為になることを行おうとする廉潔な官僚がいることはいた。しかし、中共という利益追求集団の中では、こういっ た官僚に活路はなかった。そういった官僚は、「人間性は党性に服従する」という圧力の下で、そのまま続けることができなくなるか、または淘汰されるか、あ るいは同じ穴の狢(むじな)になってしまうほかないのである。

人民には中共の血生臭さが骨身にしみている。そして、中共無頼漢の「強権」を恐れている。それ故、人々はもはや正義を擁護しようとはせず、公理を信じよう ともせず、最初は「強権」に服従し、その内感覚がなくなり沈黙し、我関せずという姿勢を貫くようになる。思考論理も自然に「強権」に従うようになってしま う。これこそ中共の暴力団的無頼漢の本性を示すものである。

(六)「愛国主義」とは、人民を緊急総動員するための邪教の号令である

中共は「愛国主義」、「民族主義」といったスローガンを、人々を騙すためのアメとして使っている。「愛国主義」「民族主義」は共産党の大きい旗(看板)で あるだけでなく、何回試しても同じ良い結果をもたらすスローガンである。数十年にわたり国に戻ってこない華僑は、『人民日報』海外版によって、民族主義に 関する宣伝を数年間読み続けるならば、国内の人よりも愛国の念が強くなる。また、共産党のいかなる政策に対しても「ノー」と言えない中国人であるにも拘ら ず、党の組織の下、「愛国主義」の御旗を掲げ、中国にある米国大使館や領事館に何らためらいもなく卵や石を投げつけ、車に火をつけ、星条旗を燃やすような ことを公然とする。

共産党はこのことを見定め、全ての中国人を服従させる必要のある大事に当っては、「愛国主義」、「民族主義」方式で民衆を緊急動員する。台湾、香港、法輪 功、米軍用機衝突事件などについては、恐喝と集団洗脳で全国人民を一種の戦闘状態に引きずり込む。これはかつてのドイツにおけるファシストの手口とよく似 ている。

情報封鎖をしていることで、党の洗脳は特に成功している。中国人は、たとえ中共が嫌いでも、物を考えるに当って、どうしても中共に洗脳された思考方式で考えてしまう。例えば、イラク戦争期間中、少なからぬ人は、中国中央テレビ局[4]の連日の報道による解説を見て、心がかき乱され、憎悪や復讐と戦いたいという強い感覚を覚えながら、戦争を罵っていた。

(七)厚顔無恥にも国家を党の下におき、人民に賊を父と呼ばせる

中共が人民に対する警告として常用している言葉は「党が亡べば国が亡ぶ」で、党が国の前に来るのだ。立国方針は「共産党がなければ新中国はない」である。 人民が子供の時から叩き込まれることは、「党の言うことを聞く」、「党の好い子になる」である。歌わせられるものは、「私は党を母親と考える」、「党は私 の愛する母」、「党の恩は海より深い」、「父親も母親も共産党の親しみ深さには及ばない」である。[5] 行動指針は、「党の指し向かうところそれに従う」であり、政府が救済活動を行った時は、「党と政府に感謝する」であり、「党」への感謝が「政府」への感謝 に優先する。軍隊のスローガンは、「党が軍を指揮する」である。大陸の専門家が裁判官の服装をデザインした時も、襟につける4個の金色のボタンは、上から 順に党、人民、法律、国家を象徴しており、たとえ裁判官と言えども、永遠に党が「法律」、「国家」及び「人民」の上にある。

「党」は中国にあっては無上の存在であり、「国家」は「党」の付属なのである。「国家」は「党」のために存在し、「党」は人民の化身であり、「国家」の象 徴である。党を愛し、党指導者を愛し、国を愛することがまぜこぜになっている。これこそ中国の愛国主義が捻じ曲げられた根本原因である。

長期にわたる宣伝と洗脳の影響で、多くの党員、非党員ともに、意識的あるいは無意識のうちに党と国家の位置付けを誤り、「党の利益」が一切のものに優先す ると考えるようになった。あるいは、「党の利益は人民の利益、国家の利益である」ということを黙認する。そして、そのことによって、中共の無頼集団に、 「国家利益」を売り渡す大きな余地を与えたのである。

(八)名誉回復というトリックで罪を「偉業」に変えてしまう

歴史上、中共は多くの誤りを犯してきた。しかし、その都度「名誉回復」と言っては、個人や団体にその誤りを押し付け、被害者に恩に感じ徳を讃えることを強 要し、中共の罪悪を無に帰すのである。「誤りを犯すことを得意としているだけではなく、自らその誤りを正すだけの勇気も持っている」というのが、死から免 れるための妙薬であり、これにより、中共は永遠に「偉大、光栄、正確」な党となるという訳である。

いつの日か中共が、「六四」(天安門事件)、「法輪功」に名誉回復を行うことがあるかも知れない。しかし、それは行き詰ったことによるもので、余命をつなぐための無頼の手口であり、自ら反省し、自らが犯した罪を清算する勇気などはない。

六、無頼の本性の大暴露:「真・善・忍」を国家テロとして抹殺

中共邪教集団がやった「天安門焼身自殺の捏造」は、中共による世紀の戯言である。法輪功を叩くために、なんと政府たるものが5人を騙して法輪功学習者を演 じさせ、天安門で焼身自殺を偽装させた。結局その場で口封じのため殴り殺された人もいれば、事後に口止めのために殺された人もいる。中央テレビ局で放映さ れたスローモーションの映像で見ると、劉春玲は警官になぐり殺されていることがはっきりと見て取れる。その映像から見られる王進東の座禅のしかた、消火後 両足の間に挟まれたプラスチックボトル、医者と劉思影の会話、カメラマンの現場での配置などに多くの疑念や矛盾があり、この焼身自殺事件は、江沢民の無頼 集団が法輪功を陥れるためにでっち上げたやらせであったことがはっきりと分かる。[6]

政党たるものが、最も卑劣で残忍な手口により、改革開放後二十数年来蓄えてきた国力を傾けて、党、政、軍、警察、スパイ、外交及び各種各様 の政府及び民間組織を動員し、全世界を覆うメディアシステムを操縦し、人による監視から高度な科学技術までを動員して完全な情報封鎖を行い、修養を積み精 神を涵養する平和的団体に対処しているのである。これこそ中共の無頼的本性を徹底的に曝け出したものである。

歴史上、いかなるならず者、無頼漢といえども、江沢民と中共のやっているような徹底した戯言は例を見ない。一人一人の心の中にある各種の観念に応じて、そ れに適している戯言を用意し、あらゆる人に対し、そのデマを信じ込ませ、法輪功はその人達にとっての仇であると思わせているのである。

「貴方は科学を信じますか?法輪功は迷信です。あなたは政治に反感を持っていますか?法輪功は政治に介入しています。あなたは他の人が金を儲け海外へ行っ たことを妬みますか?法輪功は金集めをしています。あなたは組織に反感を感じますか?法輪功は厳密な組織を持っています。何十年も続いている個人崇拝に嫌 気がさしていませんか?彼等は精神コントロールをしています。愛国心は高いですか?法輪功は反中国です。社会の安定を望んでいますか?法輪功は社会の安定 を破壊しています。法輪功は「真・善・忍」を説くと言うのですか?法輪功は真でも善でも忍でもなく、善の心から殺意の心を生み出しています」と言うのであ る。

政府はもうこれ以上嘘をつかないであろうか。決してその様なことはなく、自殺事件から焼身自殺まで、家族の殺害から他人の殺害まで、一人を殺すことから多 数の人を殺害することまで、人々が信じざるを得なくなるまで、更に拡大し撒き散らすのである。もし、法輪功に同情している人がいれば、その人の業績を法輪 功問題と関連付け、法輪功学習者が北京へ陳情に出かければ、その学習者の関係者を失職させ、失業させ、ボーナスなどを没収し、法輪功と敵対せざるをえなく させる。更に、数多くの法輪功学習者を洗脳班に送り、捻じ曲げられた理屈、家族の愛情、就職、就学で圧力をかけ、家族や同僚に対して連座で脅し、その上拷 問や酷刑を加え、なんとしても煉功しないという誓約書を書かせ、正しい信念を放棄させるのである。そして、洗脳によって転向させられた人を使って、他の人 も転向するように仕向けるのである。無頼漢たる中共は、人を鬼へと変え、人に悪の道を辿らせどん底まで陥れるのである。

七、「中国的」な無頼の社会主義

「中国的」というのは中共の目眩ましである。中共は一貫して、中国革命が成功したのは、「マルクス・レーニン主義と中国革命の具体的な実践が相結合した」 からであるとしている。「特殊性」を濫用するのが中共の一貫した手口であり、それが、変転極まりない無頼の政策の理論的下地となっている。

(一)変転極まりなく、密かに悪事を働く

こういった無頼な「中国的」という看板の下で、中共が達成したものを見ると、荒唐無稽であり、笑止千万であるとしか言えない。

共産党革命の目的は、生産資源の公有制を実現することで、多くの共産主義の理想を求める青年を騙し入党させた。その中の少なからぬ人々は、元来資産家の子 息であり、家業に背くことになった。83年が経過した今日、資産階級が再び戻って来たが、それも当初「大同」の旗印の下にあった共産党自身の変身なのであ る。現在、中国共産党指導者の子女や親族で、巨万の富を持つ新資本家は、枚挙にいとまのないほどである。そして、多くの共産党員が先を争ってこの隊列に加 わろうとしている。共産党は革命の名義の下に、地主と資本家を消滅させ、彼らの私有財産を掠奪した。現在、党の成り上がり高官たちは腐敗汚職に染まり、昔 の資本家よりもさらに資産のある官僚資本成り金となったのである。党に付き従って天下を取ろうとした人達に言わせれば、「先にこれを知っていれば、あんな ことはしなかった」と言うことになろう。数十年の流血奮闘の挙げ句、今になって見れば、自分の家族の財産と己の一生を共産党という邪教に捧げてしまっただ けなのである。

共産党は、経済基礎が上層建築[7]を決定すると言っているが、現実には、党内の汚職役人による官僚経済基礎が上層高圧建築を決定しており、それ故に人民を弾圧することが党の基本政策路線となっている。

中共のもう一つの無頼の特性は、人類文化のあらゆる概念の意義をすり替え、変異させた概念をもって全ての人民を批判し、独裁を行うことである。党について 言えば、人類社会において、結党という現象は内外を問わず古くから普遍的に見られる。しかし、共産党だけは、党集団の利益という範疇を完全に飛び出してし まっている。一旦党に加入したならば、党が個人の人間性、生存、そして私生活に至るまで一切をコントロールすることになる。党に権利を譲渡したならば、党 は社会、政府、国家機関の一切をコントロールする。大きなところでは、誰が国家主席になり、誰が国防大臣になり、どんな法令を制定するかまで、そして、小 さなところでは、誰がどこに住んで良いか、誰と結婚するか、子供は何人生むかに至るまでコントロールし、しかもこれらの制御方法を果てしなく広げているの である。

中共は弁証法という名目の下、哲学的な円融思考形式や思考能力及び探究精神を徹底的に破壊した。共産党は「労働に応じて配分する」と言いながら、「一部の 人を先に豊かにさせる」という移行過程によってできあがったのは、「権力に応じた配分」である。「誠心誠意人民に奉仕する」という名目で、美しい理想を抱 いている人々を欺き、そしてその人々を洗脳し全面的にコントロールし、やがて、その人々を「誠心誠意党に奉仕し」、人民のために請願などしようとしない従 順な道具に変えてしまったのである。

(二)「中国的」な無頼漢政党

党の利益の為には一切を顧みないという原則を持つ中共は、邪教的運用方式によって中国社会を捻じ曲げ、人類社会の中に本当の異端を作り出した。この異端 は、いかなる国家、政党、団体とも異なる。その原則は無原則であり、その微笑の裏にはいかなる誠意もない。しかし、善良な人々は中共を理解することができ ない。なぜなら、彼らは、人類共通の道徳基準に照らして中共を推し量ろうとするのだが、そんな悪辣な無頼漢が一つの国家を代表しているなどということは、 想像する術がないからである。党は、このような「中国的特性」によって世界の民族の仲間入りをしたのである。「中国的特性」は「中共無頼漢の特性」の縮図 である。

中国の欠陥資本主義は「中国的社会主義」に変わり、「失業」は中国的な「待業(就職を待つ)」に変わり、「解雇」は中国的な「職場を離れる」に変わり、「貧困」は中国的な「社会主義の初期段階」に変わり、言論、信仰の自由といった「人権」は中国的な「生存権」に変わった。

(三)国家の無頼化、中華民族は空前の道徳危機に直面している

90年代初め中国で、「俺はならず者だ。誰も恐くない」という言葉がはやり始めた。これこそ、中共が数十年にわたり無頼な政治を行った結果であり、国家の無頼化である。中国の見せかけの経済繁栄に伴い、社会道徳が全面的に堕落したのである。

中国人民代表大会開催期間に「誠実信用」問題が高らかに唱えられ、中国の大学入試でも「誠実信用」という題の作文が課せられた。ここからも、「誠実信用の 喪失」と「道徳問題」が、中国社会が直面している、目に見えないが至るところに存在する巨大な危機となったことがわかる。汚職腐敗、偽札横行、詐欺横行、 人心の卑劣化、世情の悪化、人と人の信頼の欠如が起こっているのである。

口々に生活が改善され満足しているという人々にとって、生活の安定こそ最も関心を持っていることではなかろうか。社会が安定する最も重要な要素は何であるか。それは道徳である。道徳の欠落した社会に安全の保障はない。

今日に至って、中共はほとんど全ての伝統宗教を弾圧し、伝統的な価値観を破壊し、手段を選ばずに財を掠め取り、手段を選ばず人民を欺き、上の梁が曲がった ため下の梁が歪み、社会全体を急速に無頼化している。無頼漢的手段で政治を進める中共にとっては、本質からしても、その生存環境として無頼化した社会が不 可欠であるため、あらゆる手段を講じて、人民を悪事に引きずり込み、中国人民を様々な程度の大小異なる無頼漢に仕上げようとしている。中共の無頼としての 本性は、このようにして中華民族を守りつないでいる道徳の基盤を破滅させているのである。

結び

「江山は改め易く、本性は移し難し」。[8] 歴史が証明する通り、中共が手枷足枷を緩めるのは、別に鎖を捨ててしまうことを意味しているわけではない。前世紀60年代初めの大飢饉の後、「三自一包」[9]な るもので農業生産を回復したが、それは中共に農民の「農奴」的地位を改めようとする意図があった訳ではない。80年代の「自由化」と「経済改革」も、 1989年の人民虐殺にいささかの影響を与えるものではなかった。今後とも、中共が何か表面的なことを変えたとしても、無頼漢としての本性を改めることな どあり得ないのである。

状況がすっかり変わり、この党は昔の党とは違うと感じ、目の前にある偽りの姿に満足し、さらには共産党が改善された、あるいは改善されつつある、あるいは 改善しようとしているというような誤った認識を持つことによって過去の記憶が絶えず薄れていけば、中共無頼漢集団に、存続し続け、人類に害を及ぼすチャン スを与えることになる。

共産党は、人々に「忘れさせる」ためにあらゆる努力をし、人々は、何とかして「覚えておく」ためにあれこれとあがくのである。

事実、共産党の歴史は人民の記憶を断ち切る歴史であり、後の世代が前の世代の真相を知らされていない歴史であり、億万の人民が過去の共産党に対する呪いと現実の共産党に対する期待という巨大な矛盾の中に生き、苦難を経験してきた歴史である。

共産主義という邪霊が人の世に下りてきて、共産党が無頼の一揆と無頼の革命で政権を奪い、この世に足場を定めて以来、血生臭い暴政で、「党という憑き物」 による専制社会を打ち立て維持してきた。自然に反し、天理に背き、人間性に反し、宇宙にも反する、いわゆる「闘争」精神によって、人類の良識と善意を破壊 し、伝統文明と道徳観念を壊滅させ、血生臭い虐殺と強制洗脳で全国民を狂わせるような共産邪教の統一国家を作り出したのである。共産党の歴史の中で、赤色 恐怖が頂点に達した狂乱の時期も、滅亡しそうになり荒野へ落ち延びた時期もあった。しかし、共産党は、そのたびに、無頼の手口で逃れ、人民を愚弄し続けて は、次なる狂乱へと向かうのであった。

人々が皆共産党の無頼としての本性を認識し、その欺きに騙されなくなった時が、中共とその無頼の本性が終焉を迎える時である。

中国5千年の歴史に比べれば、中共による50数年の統治はあっという間のできごとである。中共の存在しない時代に、中国は人類史上に残る輝 かしい文明を創造した。中国の内憂外患という機に乗じて居座った中共が、中華民族に巨大な災難を与えた。この災難によって、中国人は、数千万人の生命と無 数の家庭の破壊という代価を支払わされ、民族の生存に欠かせない生態資源をも犠牲にしたばかりでなく、更に重大なことは、民族の道徳資源と優れた文化伝統 がことごとく破壊されたのである。

中国の未来はどうなるのであろうか。中国はどこへ向かうのだろうか。こういった重要な問題は、複雑で一言で述べるのは甚だ難しい。ただ、一 つだけはっきりしていることは、中華民族の道徳を建て直し、人と自然の関係を改めてはっきりと認識し、人と人が和やかに共存するための信仰と文化を取り戻 すということがなければ、中華民族に輝かしい未来はあり得ない。

中共の数十年に及ぶ弾圧と洗脳によって、その思考方式と善悪の基準が中国人の生命の深層にまで入り込んでしまった結果、人々はある程度その歪んだ理論を受け入れ、認めてしまい、さらにはその一部分となって、中共にその存在意識形態の基礎を提供しているのである。

生命の中から、中共に注ぎ込まれた一切の邪説を取り除き、全ての悪を揃えている中共の本質を明らかにし、人間性と良識を取り戻すことが、共産党のない社会に穏やかに移行するために必須の道であり、その第一歩なのである。

その道が平坦で穏やかであるかどうかは、中国人一人ひとりの内心の変化にかかっている。中共は、表面上は一切の国家資源と暴力機器を持って いるが、各人が真理の力を信じ、道徳を重んじるならば、中共という邪霊は身を置く場所を失い、一切の資源は、瞬時にして正義の手に戻るかもしれない。それ は、中華民族再生の時でもあるのだ。

中国共産党がなければ、新たな中国が生まれる。

中国共産党がなければ、中国には希望が生まれる。

中国共産党がなければ、正義を重んじる善良な中国人民が必ずや再び歴史に輝きをもたらす。



(版権所有 大紀元 転載歓迎 変更不可)




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[1] 一つの中心は、経済発展を指す;二つの基本点は、「四つの基本原則(社会主義の路、プロレタリア階級の専制、中国共産党の指導権、マルクスーレーニン主義と毛沢東思想)と開放政策の持続」

[2] 1979年,鄧小平が新「三不主義」を提案して、民衆に心を打ち明けさせようとした:レッテルを貼らない、攻撃しない、あら捜しをしない。それは、50年 代の知識人に心を打ち明けさせた毛沢東時代に思い出させる。共産党への意見を正直に言った人たちは、代償として残酷な迫害に会った。現在の新「三不主義」 は、 「論争せず発展させる、闘争せず前進する、遅れることに満足せず進歩する」という。

[3] 香港政府が北京当局の圧力で2002年に香港基本法23条を提案した。その条項は香港に自由と人権の重大な侵蝕を表し、中国共産党が約束した「一国二制度」方針をひそかに害した。23条は世界に反対されて、2003年に最終的に引き下がった。

[4] 中国中央テレビ局は中央政府に所有され、直接運用されている中国大陸の主要な放送網。

[5] これらの引用文はすべて毛沢東時代の1960年代及び1970年代の歌のタイトルである。

[6] 天安門焼身自殺のビデオは、下記のリンクを参考 http://www.falundafa-jp.net/features/vaudio/vaudio_index.htm

[7] マルクス主義者の社会的な理論の中の上部構造は、人間の主観性と社会の物理的な物質との相互作用方法を示す。

[8] 人間性の永久性を表す中国の諺である。

[9] 経済改革政策である。「三自(自由)一包(契約)」として有名。当時の中国の主席劉少奇によって提案された。この政策は、私用土地の区分、自由市場、企業が自身の損益に唯一の責任を持つ、家庭単位で産量割り当ての分配によって刺激する。



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2013/12/19 17:15|九評共産党TB:0CM:0

 

序文

20世紀、90年代初頭、旧ソ連を始めとする社会主義の陣営が崩壊し、約百年も続いた共産国際運動が失敗に終わった。しかし、中国共産党は一つの異 例として残り続け、しかも世界人口の五分の一を占める中国を統治している。ここに避けて通れないある問題が存在する。つまり、今日の共産党はまだ共産党な のだろうかという問題である。

まず、今日の中国において、中共を含めて共産主義を信じている人はもういない。五十数年間「社会主義」を唱えてきたが、今は株式制、私有 制、外資企業を導入し、労働者を最大限に圧迫し、共産主義の理想と相反する道を走っている。しかし、それと同時に中共は引き続き共産党の絶対的な指導権を 握って離さない。2004年改定された新憲法の中には、相変わらず「中国各民族の人民は引き続き中国共産党の指導の下で、マルクス・レーニン、毛沢東思 想、鄧小平理論及び「三つの代表」など重要な思想に導かれ、人民民主専制と社会主義の道を歩んでいく」という内容が盛り込まれている。

今日の共産党はあたかも、「豹は死んだが、その皮はまだ残っている。」[1]のように、中共に継承され、共産党の統治を維持している。では、中共が継承した共産党という皮、この組織は、その本質はいったいどういうものなのだろうか?


表1 共産党の宗教的特徴
宗教の基本形式 中共の形式
1 教会堂、講壇 各級の党委員会。党の会議から完全に党の管轄下に置かれているマスコミまで中共の講壇となっている。
2 教義 マルクスレーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論、江沢民の「三つの代表」、党の綱領
3 入信の儀式 共産党に対し、永遠の忠誠を誓う
4 専一信仰 共産党しか信じていない
5 神職者・聖職者 党委員会の書記など各級の党幹部
6 神への崇拝 全ての神を貶してから、神と称さない神を立てる
7 「天に昇る、地獄に落ちる」ことは死ぬことを指す 「マルクスに会いにいく」とは、死ぬことを指す
8 経書・聖典 領袖らの理論と著書
9 伝道 様々な会議を開き、指導者たちが発言する
10 経書を念じる 政治学習、党員の勉強会
11 聖歌 党を讃える歌
12 布施 党費を徴収し、無理やり予算を組む(国民が働いて稼いだお金)
13 懲罰 党紀。「決まった時間と場所で調査する」、「党から追い出す」、ひいては死まで追いやる。連座制など

一、共産党の邪教的特徴

共産党の本質は実はほかでもなく、人類に危害を与える邪教なのである。

共産党は自身が宗教であると自称していないが、宗教的色合いを濃く持っている(表1参照)。立党当初、共産党はマルクス主義をこの世の絶対 的な真理とした。マルクスを精神上の神様として崇め、共産主義という「この世の天国」をもって党員を惑わし、生涯共産主義のために身を投じるよう仕向けた のである。

共産党は正教とはっきりした違いがある。正統な宗教は皆神を信じ、善に向かい、人々の道徳を育成し、その魂を救うことを目的としている。これに対し、共産党は神を信じておらず、しかも古来の道徳に反対している。

共産党の行いは、それが邪教であることを証明している。階級闘争、暴力革命と無産階級専制を共産党の教義とし、残酷な暴力と虐殺によって成 り立つ、いわゆる共産革命を引き起こした。共産党政権の赤色テロは一世紀ほど続き、世界半数の国家に影響を及ぼし、数千万人ないし一億人にも及ぶ人々の命 を奪った。このような人間地獄を作り上げた共産党こそ、この世の最大の邪教である。

共産党の邪教の特徴について、以下六項目にまとめることができる。

(一)教義を作り上げ、己に反対するものを消滅させる

共産党はマルクス主義を教義として信奉し、それを「破ることのない真理」だと標榜している。共産党の教義の中に仁愛、寛容はなく、高慢で自 尊自大以外はない。マルクス主義は生産と科学がまだ立ち遅れていた資本主義初期の産物であり、人間と社会との関係、人間と自然との関係についてまったく正 しく認識していなかった。このような異端邪説は不幸にも、国際的な運動になり、百年にもわたってこの世を害し、結局実践によって間違いだらけであることが 証明され、人々に棄てられた。

レーニン以来の共産党の指導者たちは共産党邪教の教義に新しい内容を加え続けてきた。レーニンの暴力革命の理論から、プロレタリア独裁下で 革命を続行する毛沢東の理論、更に江沢民の「三つの代表」まで、共産党の歴史上この類の邪説が溢れている。これらの理論が実践の中で絶えず災難をもたら し、しかも前後矛盾しているのにも関わらず、一貫して正確であると標榜し、国民に学習するようにと押し付けてきた。

自らと異なるものを消滅するのは、共産党邪教が伝教する際に最も有効な手段である。共産党邪教の教義と行為があまりにもでたらめなため、暴 力で自らと異なるものを消滅することによって人々に受け入れてもらうしかない。中国共産党は政権を奪取したのち、「土地改革」の中で地主階級を、「社会主 義の改造」の中で資本家を、「反革命粛清運動」の中で民間の宗教勢力と元政権の人々を消滅し、「右翼反対運動」の中で知識人を黙らせ、「文化大革命」の中 で伝統文化を根こそぎ破壊し、人々が「毛沢東語録を読み」、「忠字舞を踊り」、「朝指示を仰ぎ、夜報告し」などの儀式や運動により、共産党邪教が名実とも に天下を取ったのである。その後、毛沢東及び鄧小平の後、共産党は「真・善・忍」を信じている法輪功は共産党から国民の心を奪うのではないかと決め付け、 法輪功を消滅させようと思った。それゆえ、大虐殺を目的とした迫害を起こし、今でも事態は収まっていない。

(二)教主崇拝、唯我独尊

マルクスから毛沢東まで、共産党の指導者の肖像は高く掲げられ人々に礼拝させ、指導者の絶対的な権威に対する如何なる挑戦も許されない。毛 沢東は「赤い太陽」、「救世主」になり、彼の話なら「一言に一万言の力がある」とされていた。「普通の党員」である鄧小平はかつて皇帝の親のように中国の 政治を司っていた(院政を敷いた)。江沢民の「三つの代表」は句読点を入れてもわずか四十数文字でしかないのに、まさに笑い話のようだが、中国共産党中央 委員会第四次全体会議は「社会主義とは何か、どのように社会主義を建設すべきなのかという問題に答えを出し、どのようにどのような党を建設するのかの問題 にも建設的に解答し、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論を継承し更に発展させたものである」とまで標榜した。

スターリンは罪のない人をむやみに殺し、毛沢東は文化大革命という大災難を発動し、江沢民は法輪功を弾圧しているなど、この全ては教主独裁によるものである。

中国共産党は『憲法』の中で、「中華人民共和国の全ての権力は人民に属している。人民が国家権力を行使する機関は全国人民代表大会と地方の各レベルの人民代表大会であり」、「如何なる組織または個人も憲法と法律を超える特権を有してはならない」[2]と 規定したにもかかわらず、『党章』の中で中国共産党は「中国特有の社会主義事業を指導する際に核心であり」、党を国家と人民の上に乗せた。人民代表大会常 務委員会の委員長は四方八方で「重要な談話」を発表し、人民代表大会が「最高」の国家権力機関であり、「党の指導」を堅持しなければならず、中国共産党の 「民主集中制」という原則に基づき、全党は中央に従うべきであると言っている。はっきり言えば、「人民代表大会」が堅持しているのは「一党独裁」であり、 しかも立法という形で「共産党」の「一党独裁」を保証している。

(三)暴力で洗脳、マインドコントロールを行い、緻密な組織を作り、入ることはできるが出ることができない

共産党という組織は非常に緻密で、党員になるには二人の紹介者が必要で、入党したら、党に永遠に忠誠であることを誓わなければならない。党 員は党費を納め、党の定期的な勉強会に出席しないといけない。党の組織は各レベルの政権に存在し、各鎮、村、町内に党の組織がある。党は党員、党務だけで はなく、非党員まで同様にその管轄下に置かれている。なぜならば、全ての政権は「党の指導を堅持しなければならない」からである。共産党教会の「神父」、 即ち各レベルの党委員会の書記らは階級闘争の時代に、何をしても素人だが、人間を懲らしめることだけを最も得意としていた。

定期的な勉強会にある「批判と自己批判」は、長い間使われてきた普遍性のあるマインドコントロールの手段である。共産党は歴史上、数度にわ たり、「党の粛清」「風紀を整える」、「裏切り者を探し出す」「AB団を殺す」、「党を正す」など周期的に暴力手段をもって党員の「党に対する意識」を養 い、党に永遠に逆らわないようにしてきたのである。

入党すれば、共産党に身を売ったと同じである。国の法律の上に更に党の綱紀がある。党は党員を除名することができるが、個人としての党員は 離党しようと思ったら、多大な代価を支払わなければならない。離党すれば、党の裏切り者になる。更に、共産党邪教が天下を統治していた文化大革命の時代 に、党から死ねと言われたら、生きることができず、生きろと言われたら死んではならない。自殺したら、「自絶於人民」(自ら人民との“連帯”を絶った)と 言われ、家族にまで被害を及ぼしてしまうのである。

党内の決定などは密室で行われ、党内闘争はこの上ない秘密であり、党が発行した文章は機密文書である。悪いことをしたら暴露を恐れ、何かあったらすぐ「国家機密漏えい罪」で異議を唱える人を懲罰する。

(四)暴力を吹聴し、殺戮を崇め、教えのために死ぬことを奨励する

毛沢東は「革命はお客さんを招待することではなく、文章を書くことでもない、絵を描いたり花の刺繍をしたりするような上品なことではない。革命は暴動であり、一つの階級がもう一つの階級をひっくり返す強烈な行動である」と言っていた。[3]

鄧小平はまた、「二十年の安定のためなら、二十万人を殺してもよい」と述べた。

江沢民は「肉体を消滅させ、名誉を毀損し、経済から断ち切る」と話した。

共産党は暴力を吹聴し、今までの政治運動の中で、数え切れないほどの人間を殺し、「敵に対し厳冬のように冷酷無情であるべきだ」と国民を教育してきた。赤い旗は「烈士の血によって染められてできたものだ」とされている。共産党の赤に対する崇拝は実は血に対する崇拝である。

共産党は英雄を手本として立て、党のために命を捧げることを奨励してきた。延安で阿片を生産する竈で死んだ張思徳について、毛沢東は「彼の死は泰山[4]より重い」と評価した。あの気が狂った時代に、「苦も死も恐れない」「命を捧げる勇気と高い志を持つために、日も月も新たにすることをも辞さない」などの豪言に実は物質の貧困に追い詰められたときの狂気が入っていた。

七十年代の終わり頃、ベトナム共産党が出兵し、中国共産党が育ててきた、極悪非道の「クメール ルージュ」政権を覆した。中国共産党はいくら不満であっても、中国とカンボジアの間に直接の陸上輸送ルートがないため、直接軍隊を派遣することができな かった。したがって、中国共産党は「対ベトナム自衛反撃戦争」の名の下で、ベトナム共産党を懲らしめるため、中国とベトナムの国境で戦争を起こし、数万人 の中国兵士がこの共産党の間の闘争のために尊い命を捧げた。彼らの死は実は国家領土の主権とまったく関係はない。数年後、中国共産党はただの一曲の歌「血 に染められた風采」をもって、無意味に犠牲になった若い生命が「革命英雄主義の精神」に対し捧げられたとして片付けた。しかし、1981年百五十四名の兵 士の命を失って奪還した広西法山は共産党がベトナムとの国境線を決める時、あっさりとベトナムに渡したのである。

2003年、「SARS」が流行っていたとき、中国共産党は若い看護婦たちを「第一線で入党させ」、そして病院に彼女たちを閉じ込め、感染 された患者の看護をさせた。これらの若い人を最も危険な第一線に行かせ、これを機会に共産党の「苦も死も恐れない」輝かしい姿を打ち立てようとした。しか し、この時江沢民は死を恐れ、側近を率いて北京から上海へ逃れ、SARSから逃げていたのである。

(五)神の存在を否定し、人間性を扼殺する

共産党は無神論を宣伝し、宗教は人間を麻酔させる「精神的なアヘン」であるとし、自分の統治範囲内で全ての宗教を消滅し、またはそれを征服した。そして、自らを神のように仕立て、共産党邪教で天下統治を実現させた。

共産党は宗教を破壊していると同時に、伝統文化をも破壊した。共産党は伝統、道徳、倫理を封建、迷信だと言い、革命の名の下で排除した。文 化大革命の中で、多くの夫婦は互いの弱点を暴露しあい、学生が先生を殴ったり、親子が反目したり、紅衛兵が罪のない人をむやみに殺し、造反派は物を壊した り人を殴ったりするなど、中国の伝統文化に反する醜悪な世相を造った。これはまさに、中国共産党が人間性を扼殺したことの結果である。

建国して以来、共産党は強制的に少数民族を共産党の指導に従わせ、豊かな民族文化もこれによって喪失し、または変異してしまった。

1989年の「天安門事件」の時、「人民の子弟兵」は北京で惨殺を繰り広げ、国民は政治に対して完全に失望し、その後人々はお金に目が眩むようになった。

1999年から今日まで、法輪功に対して残酷な弾圧を加え、「真・善・忍」を敵とし、それにより社会の道徳は著しく低下した。

新しい世紀に入ってからも、新たな立ち退きや金品の搾取によって多くの民衆は路頭をさまよう生活を強いられ、陳情する人は激増し、社会の対立はますます激化した。[5] 大規模な活動が多発したが、軍隊と警察の暴力と武装鎮圧の餌食とされた。「共和国」のファシズム的本性は突出し、社会にもはや道徳は存在しない。

以前「ウサギは巣の近くの草を食べない」ということを良いこととされてきたが、最近は人を騙す時、親戚友人などを騙し、「親しい人から利益 を取る」と言っている。以前中国人は貞操を最も大事にしていたが、今は「貧しい人が軽蔑されても売春婦は軽蔑されない」というようになってしまった。医者 や教師は最も尊敬されていた徳のある人だったが、今は病院では患者のお金を騙し取り、学校は手を緩めることなく学生からお金を搾取している。中華民族の人 間性と道徳が全滅した歴史が、ある民謡によって如実に表現された。「五十年代、人間は助け合う、六十年代、人間は懲らしめあう、七十年代、人間は人を嘲る 八十年代、人間は自分のことしか考えない、九十年代、人間は騙しあう」。

(六)武力で権力を奪い、経済を独占し、政治経済に対して野心を抱いている

共産党が設立された当時の趣旨は武力で政権を取った後、国有制と独占的な計画経済を実施するというものだった。共産党の野心の大きさに驚かずにいられない。普通の邪教の蓄財レベルはそれとまったく比べることができない。

共産党が統治している社会主義公有制の国の中では、通常の国家機構の上に権力のもっと大きい党の組織、つまり各レベルの党委員会とその支部 が設置されている。党は国家機器に憑依し、直接各レベルの政府から費用を集める。共産党はあたかも吸血鬼のように、国と社会から数え切れない程の財産を奪 うのである。

二、共産党邪教がもたらす危害

「オーム真理教の地下鉄サリン事件」「ライフサイエンスの集団自殺」「人民聖殿教九百人信者の集団自殺」などのことを言うと、皆鳥肌が立 ち、憎悪の念を抱く。しかし、共産党という邪教はそれより千万倍の人々に危害を加えてきた。なぜならば、共産党邪教には通常の邪教がまねできないところが あるからである。

(一) 邪教を国教としている

通常、ある国において宗教を信じていなくても、その宗教の本を読まなくても、その教義を聞かなくても、普通に生活を送ることができる。しか し、中国大陸で暮らしていれば、共産党の邪教の教義とその宣伝を聞かざるを得ない。なぜならば、共産党は政権を奪取し、共産党邪教を国教にしてしまったか らである。

共産党は幼稚園と小学校の教育から教義を人々の頭に詰め込んだ。進学や昇進試験の時、必ず政治という教科のテストがある。出題は学生の独立 した考えで完成できるものではなく、必ず共産党が出した標準回答を丸暗記してはじめて回答できるものである。気の毒な中国人は試験のために、子供の時から おのずと共産党の説教を重ねていき、繰り返し自らを洗脳していた。政府部門の場合、幹部が昇進されたら、共産党員かどうかに関わらず、共産党大学で勉強し なければならない。合格してからやっと昇格されるのである。

共産党を国教としている中国は、如何なる団体に対しても異見を持つことを許さない。政治の飾り物である「民主党派」と改造された「教会」は 共産党の指導に従わなければならないと宣告された。まず共産党に忠実に従い、それから神様を信奉する、これはつまり共産党邪教の論理である。

(二)社会を極端にコントロールしている

共産党邪教は、共産党の国民に対するコントロールと自由の剥奪を基礎にして、国教になった。このコントロールは空前絶後のものである。共産 党は国民個人所有の財産を奪った。しかし、私有制は自由の基礎である。八十年代以前の中国では、都市部の人は党が管轄する企業で仕事し、農民は(党の)公 社の土地で働くしかない。誰も共産党のコントロールから逃げることができない。社会主義の国では、共産党の組織は中央から村や町内会まで置かれており、党 委員会、支部など各レベルの党の組織を通じ、社会をしっかりと自分のコントロール化に置いた。この厳しいコントロールにより、国民は完全に自由を失い、住 居地移転の自由(戸籍制度)、言論の自由(五十五万人の右派分子は言論罪を犯した)、疑う自由(林昭、張志新は党に疑問を抱いたため殺害された)、情報入 手の自由(出版禁止の本を読むことや、「敵対国のラジオ」を聞くのも罪になる。ネットにアクセスする時も監視されている)などなどがある。

一方、中国共産党は現在、私有制を認めているではないかと言う人がいる。しかし、社会主義制度によって、国民は食料さえ確保できない境地に 立たされ、「国民経済は崩壊する寸前まで来てしまい」、共産党は滅びる危機から逃れるため、一部譲歩して存続を図るためにやむを得ずそうしたのである。改 革開放以来、中国政府は国民へのコントロールを緩めることなく、今でも法輪功の学習者を厳しく弾圧している。こういうことは共産党の国だけに現れてくる。 もし中国共産党が本当に思うとおりに経済の巨頭になったら、国民に対するコントロールは今まで以上のものになるであろう。

(三) 暴力を崇め、生命を軽視する

ほとんど全ての邪教は暴力で信者をコントロールし、または外来の圧力に対抗している。しかし、共産党のように憚ることなく暴力手段を使うも のはない。全世界の邪教に害され死んでしまった人を全部合わせても、共産党邪教が殺した人数とは比べ物にならない。共産党邪教から見れば、人間は目的を達 成するための手段であり、殺人も一つの手段である。したがって、共産党は国民を迫害する際、まったく憚ることなく行い、誰もが迫害される対象になりえる。 その中には党の支持者、党員、党の指導者までもが含まれている。

中国共産党が育てた「クメール・ルージュ」は、共産党邪教の残酷さと生命に対する軽視を物語っている。毛沢東思想の指導によって、ポル・ポ トを中心としたカンボジア共産党は「私有制を消滅する」ために、執権した三年八ヶ月の間、人口が八百万足らずのこの国で、二百万人が殺害された。そのなか には、二十数万人の中国人も含まれている。

共産党の罪悪を忘れないようにし、また亡くなった人を記念するために、カンボジアは「クメール・ルージュの罪悪展示館」を作った。展示館は かつて高校の校舎であったが、ポル・ポトによって思想犯を監禁するS-21監獄に改築されていた建物である。多くの知識人がここに閉じ込められ、拷問を受 け亡くなった。今日、S-21監獄は「クメール ルージュの罪悪展示館」に改築された。中には牢屋と各種の拷問器具、そして全ての犠牲者が処刑される前に取られた写真などが陳列されている。その中には、 咽喉を切る、ドリルで頭を貫通する、生きた赤ちゃんを床に投げつけるなど思わず目を覆ってしまうような写真もたくさんある。これら全ては、中国共産党から 派遣された「専門家と技術者」から教わったことである。処刑される前に、保存と観賞のために写真を取ったカメラマンも中国共産党からトレーニングを受けて いたのである。

更に、このS-21監獄は、カンボジアの指導者専用の栄養剤を作るため、頭を貫通させる機械を開発し、人間の脳を取り栄養剤を作った。彼ら は処刑される思想犯を椅子に縛りつけ、機械の前に置き、被害者を極度の恐怖に陥れながら、ドリルをまわし、後頭部から入り、生体から脳を取りだした。

三 共産党邪教の本質

なぜ共産党はこれほど凶暴で邪悪なのだろうか?共産党という「亡霊」がこの世に来た時に、非常に恐ろしい使命を背負っていた。『共産党宣言』の最後に非常に有名な一節がある。

「共産党員は自らの見解と目的を隠しごまかすことを潔しとしない。彼らは、自分たちの目的は、暴力により全ての現存する社会制度を覆して初 めて達成できると、公然と宣言するのだ。統治階級を共産主義革命の前で怯えさせよう。プロレタリアがこの革命の中で失うのは鎖であり、彼らはこれから全て の世界を得ることになる」

この「亡霊」の使命はほかでもなく、公に暴力で人類社会に挑戦し、旧世界を打ち壊し、「私有制を消滅させ」「資産者の個性、独立性と自由を消滅させ」、搾取を消滅させ、「家庭を消滅させ」、世界はプロレタリアに統治される。

この政党は公に「人間をいじめ、物品を壊し、建物を崩壊させる」と宣言し、この考えが邪悪であることを認めるどころか、『共産党宣言』の中で、胸を張って次のように述べた。

「共産主義の革命はほかでもなく、従来の所有制関係と徹底的に決裂することである。何も驚くことではないが、共産主義は自らの発展の過程で、伝統的な観念とも完全に決裂する」。

社会の伝統的な観念はどこからきたのだろうか?無神論の自然の法則から言えば、自然の規律と社会規律の必然的な結果であり、宇宙の運動の結 果なのである。有神論の観点から言えば、人類の伝統と倫理道徳は神から人間に伝えられたものである。その起源がどこにあるかに関係なく、最も基本的な倫理 道徳、行動規範、善悪の基準は相対的な不変性を有し、千年来人類の行動を規制し、社会存続の基礎を維持してきた。もし人類に道徳の規範と善悪の基準がなけ れば、人間は獣になってしまうのではないのだろうか?『共産党宣言』は「伝統的な観念と完全に決裂する」と決め、人類社会の正常を保つ基礎を脅かす存在と なり、従って、共産党は人類を破壊する邪教であると断言できるのである。

『共産党宣言』という綱領を規定した文章の中に、執拗な偏執がいたるところに見受けられるが、仁愛と寛容の心についてはまったく触れていな い。マルクス、エンゲルスは唯物主義を通じて、社会の発展の規律を発見し、真理を手にしたと思い込み、全てを疑い、否定し、共産主義の幻を無理強いで人々 に押し付け、暴力で現有の社会構成と文化の基礎を打ち壊すことを吹聴した。『共産党宣言』は新しく誕生した共産党にこのような、天理に反しており、人々の 人間性を消滅しようとする極端な利己主義で思うままに全てをやってしまう邪な霊を注いだ。

四 共産党の終末論―「党が滅びる」ことに対する危惧

マルクス・エンゲルスは共産党に邪な霊を注ぎ、レーニンはロシアで共産党を作り、無頼らの暴力で二月革命[6]後 の臨時政府を倒し、ロシアの資産階級革命の芽を摘んでしまった。政権を奪取した後、共産邪教のためにこの世での足場を確保した。しかし、革命が成功して も、プロレタリアらは全世界を手にすることができなかった。かえって、『共産党宣言』の冒頭に書いてあったように、「旧欧州の全ての勢力は」「連合し」、 「この幽霊に対して聖なる撲滅を行おう」とされ、共産党は誕生してすぐ生存の危機に瀕してしまい、いつでも撲滅される危険と隣り合わせの状態であった。

十月革命[7]の後、ロシア共産党ボリシェビキが執政したが、国民に平和で豊 かな生活をもたらすことなく、むやみに人を殺していた。前線の敗戦が続く中、後方の経済は革命によって悪化する一方であった。そして国民は蜂起し、瞬く間 に内戦が全国に広まった。農民は都市部に食料の提供を拒否し、ドン河流域で大きな暴動が起き、赤軍と熾烈な戦いを繰り広げた。戦争の野蛮さと残酷さはミハ イル・ショーロホフ「静かなドン」などの文学作品の中で如実に描写された。ロシア共産党は一時コルチャーク、デニーキンなど元白軍が指導する軍隊から窮地 に追いやられ、誕生したばかりの政権であるにもかかわらず、全国民の反抗を受けた。それはすべて、共産党邪教があまりに邪悪で、人々に憎悪の念を抱かせた からである。

中国共産党は中国でも同じような境遇に立たされた。「馬日事変」、「四一二虐殺」[8]から、ソビエト政権地区で五回もの「撲滅」に遭い、その後二万五千里にも及ぶ長征を余儀なくされ、逃げ回っていた。中国共産党は長い間消滅される危機に直面していた。

共産党は手段を選ばずに旧世界をぶち壊し、この世を支配しようとしてきたが、その前に自身が如何にして消滅されることなく、存続していくの かをまず解決しなければならないと気づいた。そのため、共産党は終始消滅される危惧を背負っている。存続していくということは共産党邪教にとって、何より も重要なことであり、全ての全てである。今日になって、国際共産党陣営が完全に解体し、中国共産党の存続の危機はますます深刻な問題になり、「党が滅び る」という論調は1989年以降ますます現実的なものとなってきたのである。

五 共産党邪教が存続のために講じた手段、即ち残酷な闘争

共産党は一貫して、党に対する党員の絶対的な忠誠、組織性と厳しい規律を強調してきた。中国共産党に入党した際、党員は次のように宣誓しなければならない。

「私は中国共産党に入党することを志願する。党の綱領を擁護し、党の規程を守り、党員としての義務を果たし、党の決定に従う。党の規律を頑 として守り、党の機密を漏えいしない。党に対して忠誠であり、一生懸命働き、共産主義のために生涯奮闘し、党と人民のために全てを捧げる用意はいつでもあ る。永遠に党を裏切らない」(中国共産党規程第一章第六条)

共産党はこの献身的に入信する精神を「党性」と呼んでいる。共産党員として、いつでも個人の理念と原則を放棄できるようにし、党と領袖の意 思に対し絶対的に服従することが求められている。善になるようにと言われたら善になり、悪事を働くようにと言われたら悪事を働き、このようにしなければ党 員の基準に達していないことになり、党性が確固としたものではないと思われる。

毛沢東は「マルクスの哲学はほかでもなく闘争の哲学である」と言ったことがある。党性の育成と維持は周期的に起こる党内の闘争に頼ってい る。絶えず党の内部と外部に対して残酷な闘争を起こすことによって、党に対して異議を持つ人を消滅し、人々に恐怖感を覚えさせながら、党の組織を絶えず粛 清し、家訓と教義を正し、党員の「党性」感覚を養っている。それにより、党としての戦闘力を強めている。これは共産党が自らの存続を確保するための有効な 手段である。

毛沢東は中国共産党の指導者の中で党内闘争という手段を最も巧みに駆使した大師である。その闘争の熾烈さ、手段の下劣さは実は“ソビエト根拠地”で1930年代初期、すでに兆候を表し始めていた。

1930年、毛沢東は江西省“ソビエト根拠地”で大規模な革命恐怖を引き起こした。つまり、AB団粛清運動であった。数千名の紅軍と根拠地 にいる党員と青年団団員、一般庶民が無念にも殺された。当時、江西ソビエト根拠地で毛沢東の権威が確立したばかりだったが、李文林を始めとする江西省西南 地域の紅軍と党組織の反対に遭った。毛沢東は自らの権威と意思に抵抗する如何なる組織的な反対勢力をも容認することができず、極端な手段で自分と異なる考 えを持っていると疑われた党内の同士を弾圧した。毛沢東は「AB団を粛清する」環境を整えるために、わざと自分の直属部隊を対象にまず粛清した。11月下 旬から12月中旬にかけて、紅一軍[9]で「迅速粛清」を行った。各師、団、営、連、排で粛 清組織を作り、地主や裕福階級出身の党員と不満を持つ人々を処刑した。一ヶ月も経たないうちに、四万人あまりの紅軍の中から四千四百名以上の「AB団」メ ンバーが探し出され、中に「数十名の団長」(「AB団」の総団長)がおり、全部殺害された。

続いて、毛沢東は“ソビエト根拠地”にいる自身に対して異議を持つ人々に対する粛清を始めた。1930年12月紅一軍政治部事務局長兼粛清 委員会主席の李韶九を江西省ソビエト政府所在地富田に派遣し、江西省行動委員会と紅二十軍の八名の上層幹部段良弼、李白芳などを逮捕し、様々な拷問を施し た。殴られた人は「身体に傷だらけで、指が折れてしまい、体中火傷でただれ、動くこともできない」。当時の資料によると、被害者の「悲鳴が響き渡り、途絶 えることはない。残酷な拷問方法が使い尽くされた」という。12月8日、李白芳、馬銘、周冕の妻らは拘禁中の夫に面会に来た時、「AB団」のメンバーとし て捕えられ、拷問された。「地雷公で手を叩き、お香で身体を焼き、火で局部を焼き、ナイフで乳房を切り取る」。残酷な拷問に遭い、段良弼は李文林、金万 邦、劉敵、周冕、馬銘が「AB団の幹部」であると証言し、更に紅軍学校の中に「たくさんのAB団メンバーがいる」と言った。12月7日から12日夜まで、 わずか五日間の間、李韶九らは富田から「AB団」百二十名あまりのメンバーと幹部数十名を探し出し、四十数名の人を処刑した。彼らの残虐極まりない行動は 最終的に、1930年12月12日、“ソビエト根拠地”を驚かせた「富田事変」を引き起こした。(高華『毛沢東在江西蘇区「粛AB団」的歴史考察』を参 照)

毛沢東は闘争学を頼りにして、更にそれを実践することによって、“ソビエト根拠地”時代から延安の時代まで、徐々に党内での絶対的な地位を 手に入れた。建国以来、この党内闘争が引き続き行われていた。例えば、毛沢東は廬山会議で、突然彭徳懐を打倒し、会議に出席した中央の指導者一人一人は全 部賛成の態度を表明しなければならなかった。わずか数名の人は自分の意見を述べたり保留したりしたが、全部「党に反対する彭徳懐グループ」と見なされ、文 化大革命のとき、皆迫害され、反抗する余地もなかった。誰も毛沢東に対して物を申す勇気はなかった。共産党は一貫して党に対する忠誠を強調し、組織性と厳 しい規律や、教主という領袖に対する絶対的な服従を要求してきた。この党性はほかでもなく、後を絶たない政治闘争から身についたものである

中国共産党の指導者だった李立三は文化大革命のとき批判され、六十八歳の高齢にもかかわらず、毎月七度以上も民衆の前で批判されていた。夫 人の李沙は「ソ連からのスパイ」としてすでに牢獄に入れられ、消息が絶えてしまった。彼はどうしようもない絶望の中で、大量の睡眠薬を飲んで自殺した。李 立三は死ぬ前に毛沢東宛に遺書を残し、共産党邪教徒は、死を目前にしながらも「党性」を放棄できないことをリアルに反映した。




主席:  

今私は自殺し、党を裏切ってしまいました。如何なる方法も私の無実を証明することができません。ただ、私と家族全員は売国のことをしたことはありません。このことだけは、中央が調査し正しい結論を下してほしいのです。            

          李立三  1967年6月22日


毛沢東の闘争の哲学は最終的に、中国を未曾有の大劫難に導いたが、このように「七、八年毎に起きる」政治運動と党内闘争は確かに共産党の存 続を確保する上で大きな役割を果たした。毎回の政治運動の中で、五パーセントの人を懲らしめることによって、九十五パーセントの人々がおとなしく党と同じ 路線を取るようにし、それによって党組織の求心力と戦闘力を保ってきた。同時に、良知を放棄したくない「党に対して確固たる心を持っていない」人を淘汰 し、対抗してくる人々に打撃を加える。このようなやり方で、共産党内の最も闘争精神が旺盛な、手段を選ばない人だけが権力をコントロールすることができる のである。つまり、共産党邪教の教主は闘争経験が豊富で、強い党性をもつ人の地位を確保してきた。この残酷な闘争はそれを経験した人に「血の教訓」を与 え、彼らを暴力的に洗脳した。また、闘争の中で共産党は絶えず充電され、闘争の精神がますます強められ、党が消滅されないことを保障し、闘争を放棄する穏 やかな団体にならないように守ってきた。

共産党が要求しているこの党性はほかでもなく、共産党の邪教的な本質から変化してきたものである。共産党は自らの目的を実現させるために、 全ての伝統と原則から決裂し、手段を選ばずに自らを妨害している人々を敵に回した。従って、共産党は党員を情も義も信用もない、党に服従している道具に仕 立て上げなければならない。共産党のこうした本質は、自らの人類社会と伝統に対する敵視からきたもので、自身に対する現実離れした過大評価、およびそこか ら派生した極端な利己心と他人の生命への軽視からきたものである。共産党は自分たちのいわゆる理想を実現させるために、暴力で全世界をぶち壊すことも辞さ ず、異議を持つ全ての人を消滅しようとしている。このような邪教は、良知ある全ての人に反対されるに違いないため、共産党は人間の良知と善良を何としても 消滅しようとしているのである。このようにしてはじめて、人々に共産党の邪説を信じ込ませることができるようになる。したがって、共産党は自らの存続を確 保するために、まず人間の良知と善良および道徳水準を破壊し、人間を自分の言いなりに従う奴隷と道具に仕立てようとした。共産党の論理から見れば、党の生 命と党の利益はこの上ないもので、ひいては全ての党員の利益を合わせたものよりも大事なものである。従って、党員は常に、党のためにいつでも死んでもいい という用意がないといけない。

中国共産党の歴史から見れば、陳独秀、瞿秋白のような伝統的な知識人、胡耀邦、趙紫陽のような国民の利益を重んじる人、朱熔基のような、民 のために働くと志した幹部、彼らは党に対していくら貢献しても、個人の野心を持っていなくても、最終的に粛清されたり左遷されたりし、党の利益と規律に制 約されてしまう。長年の闘争の中で培った党性はすでに骨まで染み込んでおり、肝心な時になると、彼らは往々にして妥協してしまう。彼らの潜在意識の中で、 党の存続は最高の利益であり、自らが犠牲になっても、党内に邪悪勢力が横行しているのを見ても、良知と善なる念を貫くがゆえに党の存続に影響してしまうよ うなことをしてはならないと思っている。これはほかでもなく、共産党の闘争によってもたらされた結果であり、良い人も共産党の道具になり、党性をもって最 大限に人間の良知を制限しひいては消滅してしまう。中国共産党は十数回にも及ぶ「路線闘争」を引き起こし、十数名の党の指導者または指導者として内定され た人を打倒し、党の指導者は良い最期を迎えた人は一人もいない。毛沢東は四十三年間中国を統治してきたが、亡くなって間もない頃、彼の妻と甥が投獄され、 これは毛沢東思想が勝ち取った偉大な勝利であると全党は歓喜していた。これは喜劇なのであろうか、それとも茶番劇なのだろうか?

共産党が政権を奪取した後、党内から党外まで、政治運動は後を絶たなかった。毛沢東時代はもちろん、「改革開放」以降もこの状況は変わらなかった。80年代、思想がわずかに自由になったが、共産党は「資産階級自由化反対運動」を起こし、「四つの基本原則」[10]を 提唱した。なぜならば、共産党は絶対的な指導権を握らなければならないからである。1989年、学生らは平和的に民主化を求めていたが、「六四天安門事 件」に遭遇した。なぜならば、共産党は民主的な考えを容認しないからである。90年代に「真・善・忍」を信じる法輪功学習者がたくさん現れたが、共産党は 1999年から法輪功学習者を大量に虐殺してきた。なぜならば、共産等は人間性と善なる念を許さない。そのため、暴力をもって人々の心にある良知を全力で 壊そうとしているのである。このようにしてはじめて、共産党は自分の権力に安心感を覚えるのである。新しい世紀に入って、インターネットは世界を繋げた が、中国共産党だけが多額な資金を投入し、ネットを封鎖し、ネットで発言し自由を求める人を逮捕・拘束している。なぜならば、共産党は国民が自由に関する 情報を手に入れるのをとても恐れているからである。

六 共産党邪教の悪変

共産党邪教は本質から天理を否定し、人間性をぶち壊し、その本性は利己的で、傲慢不遜、そして歯止めのきかない、残忍な行動が身上だ。実 際、常に国と民に危害をもたらしているにもかかわらず、永遠に自らの罪を認めようとせず、国民にも自身の本質を見せることも決してしない。また、共産党は 頻繁にスローガンと看板を変えることをまったく気にしていない。この全ては共産党から見れば手段に過ぎず、共産党の存続という大きな目標に有利であれば、 共産党は何でもやりかねない。共産党にとって、道義や原則などはまったくないのだ。

この制度化、社会化された邪教は今後の行方として完全な堕落に向かうしかない。権力が少数の人に高度に集中しており、世論と各種の監督部門に対する制約によって、如何なる人も組織も共産党が堕落と腐敗に向かっていくことを止めることができない。

今日の中国共産党はすでに世界最大の「汚職党」「腐敗党」になってしまった。中国政府の統計によると、全中国に二千万あまりの党の幹部と政 府幹部がおり、二十数年以来、すでに八百万にも上る幹部は汚職で、党の規律と政府の規律および法律に基づいて、処罰された。この上、まだ明るみに出ていな い汚職幹部の数を合わせると、実はすでに三分の二の幹部が汚職していることになる。今知られているのはまだわずか一部だけに過ぎない。

汚職・腐敗し、自分のために金をもうけ、うまい汁を吸うというこの物質的な利益は中国共産党を一丸となった向心力にしているのである。共産 党がなければ、彼らに腐敗の機会もなく、ある日共産党が倒れたら、彼らが失うのは権力と官職だけではなく、処罰されてしまう恐れもあると、腐敗した幹部ら は分かっている。黒幕を暴露した小説『天怒』の中で、著者は市政府事務局副局長相寿のせりふを通じて、共産党の天機を漏らした。つまり「腐敗は私たちの政権を更に固めた」ということである。

「腐敗に反対すれば、党が滅びてしまい、腐敗に反対しなければ、国が滅びてしまう」ということを、国民ははっきりと分かっている。しかし、 共産党は党が滅びる危険を冒してまで腐敗に反対しないのである。共産党はただ、国民に腐敗に反対していることを見せるために、何人かの腐敗幹部を殺すだけ である。何人かの腐敗幹部の命で、共産党の向こう数年の延命を得ようとしている。共産党邪教が今日になって、唯一大事に思っているのはいかに権力を保ち、 党が滅びることを避けるかのことだけである。

今日の中国では、倫理と道徳は深刻に破壊され、偽商品は氾濫し、売春婦はいたるところを徘徊し、麻薬もまた出回り、役人と暴力団が結託し、 暴力団は社会に横行している。ギャンブル、収賄、汚職腐敗など社会に害を与える現象ははびこっている。しかし、共産党はこれらの行為を放任しており、しか も多くの高官は、その見返りとして賄賂を徴収している黒幕である。マフィアを研究している南京大学の学者蔡少卿の推算によると、中国のマフィアのメンバー は少なくとも百万人くらいいるという。一つの暴力団を撲滅する度に、背後にある政府要員、裁判官、警察官など共産党の腐敗幹部が暴露される。

中国共産党は人々が良知と善なる念を持つことを恐れているために、国民に信仰の自由を与えようとしない。信仰を求める良い人、例えば真善忍 を求める法輪功学習者、イエスと神様を信じている地下教会のメンバーに対して、中国共産党は極まることなく、その残酷な迫害手段を駆使している。民主政治 により一党独裁が滅亡してしまうことを恐れているため、共産党は国民に政治の自由を与える勇気はない。独立した考えを持つ人々、ひいては民間で人権を守る 人々はたびたび投獄される。しかし、中国共産党は中国人に別の自由を与えた。つまり、政治に関心はなく、党の指導に反対しなければ、自分の如何なる欲望を も放縦してよい。ひいては邪悪で天理に反することさえやってもよい。これによって、中国共産党の堕落が加速され、中国社会の道徳は日増しに滑落してしまっ た。

「天国への道を塞ぎ、地獄への扉を開いた」、これは中国共産党が今日社会を堕落させたという情況を見事に表現した言葉である。

七 共産党邪教による統治への反省

(一) 共産党とは何か

これは非常に簡単なようにみえる質問であるが、すぐには答えられない質問でもある。共産党は「公」という衣を着ており、政党として現れてき たため、確かに多くの人を惑わしている。しかし、共産党は普通の政党ではなく、邪霊として人々に取り憑き、害を与える邪教である。共産党は生きている生命 であり、党の組織はこの世での邪教の表象であり、邪教の身体である。実際共産党を司っているのは、最初から注ぎ込まれた邪な霊である。この邪な霊は党に邪 教的な本質をもたらした。

共産党の指導者らは教主の身分を持っているが、実は彼らは邪な霊と党の代弁者と執事であるに過ぎない。彼らの意思と目的は党と一致し、しか も党にとって利用価値がある場合、指導者として選ばれる。しかし、党のニーズに応えられなくなったとき、すぐに非情にも打倒されてしまう。党の闘争メカニ ズムによって、最も狡猾かつ邪悪で、しかも残酷な人だけが共産党教主の座に着くことができる。中国共産党の歴史上の数十名の指導者たちが皆悲惨な末路を遂 げたことはまさにこのことを説明している。党の最高指導者が選択できる道は実は非常に限られており、ゴルバチョフのように共産党の呪縛を破ることにより、 その名が歴史に長く残されるのか、または中国共産党の総書記のように党に飲み込まれてしまうのか、この二つしかない。

一般の民衆は共産党にこき使われ、搾取されている。共産党がコントロールしている範囲内で、人々は共産党の権利を脅かさなかったが、共産党 の指導と共産党を支える(養う)義務を押し付けられた。また、彼らは常に党の暴力に脅迫され、邪教的な洗脳を受けざるを得ない。共産党は中国で、全国民に 邪教を信じることと邪教を養うことを強要しており、これはこの世で類を見ないもので、全世界でも特殊な存在である。

党員は共産党の身体を丈夫にする人々であり、彼らの中に善良な人も少なくない。ひいては社会に傑出した功績を残した人もいる。こういう人で あればあるほど、中国共産党は彼らを党員にしようとする。彼らの名誉と能力を利用し、党の為に働いてほしい。更に多くの人は出世し、人の上に立ち、自らの 利益を得ようとするあまり、積極的に共産党に入ろうとする。彼らは共産党を助長し、自由自在に党内で活躍している。共産党が統治している国では、党員にな らなければ個人の成長はほとんど不可能であるため、生涯に何かの功績を遂げようとする人は入党する。また、住宅を配給してもらうため、ひいては「向上」を 求めるために、入党した人もいる。したがって、中国共産党の数千万人の党員の中に、良い人も悪い人も混じっている。しかし、入党当時の動機がどういうもの であるかに関わらず、自分の意思で入党したのかに関係なく、共産党の旗の下で宣誓したならば、自分の意思で党に自らを捧げることとして見なされる。毎週の 政治学習と組織生活は洗脳の過程であり、これによって、多くの人は自我の意志を失う人となり、共産党の邪な霊に憑かれ、制御されてしまう。このような人は 党内で、人体の細胞のように、身体の元気のために絶えず働かなければならない。更に気の毒なことに、「党性」はこれ以降頭にきつく縛られ、それを取ろうと 思っても、なかなか取れない。一旦、人間性が現れたら、粛清と迫害の対象になりうるからである。共産党が党の離脱を認めていないため、このとき、党から離 れようと思ってもできず、裏切り者として扱われてしまう。このため、人々は共産党員の二重人格の存在に度々気づいてしまう。つまり、政治の場合の党員とし ての「党性」と日常の場合の「人間性」の一面ということである。

党の幹部は、党員の中で権力を握る人の集まりである。彼らは、個々の時点や機会において、個人の善悪の判断を下すことはできるが、全体とし ては、党の意志に従って動くしかない。これはつまり、いわゆる「全党が中央に服従する」ということである。彼らは中央と国民との真ん中に立ち、共産党の中 堅であるが、実は党の道具としての役割を果たしているだけである。彼らはいつもの政治運動の中で、利用されたり、批判されたりしている。その基準は、教主 を正しく選んだのか、教主に対して忠誠であるかどうかのことである。

(二)人々はなぜ目覚めないのか

中国共産党は、中国を五十年余り統治しており、様々な悪事を働き、この上なく邪悪であるが、なぜ人々はその邪悪的な本質を認識できないので あろうか?中国人が愚かなのだろうか?そうではない。中国人は世界で智慧ある民族の一つであり、五千年の悠久の文化と伝統を有している。しかし、中国人は 今でも共産党に統治され、不満を漏らすこともできない。その理由は、共産党の邪霊によってマインド-コントロールされているからだ。

もし、仮に中国の国民に言論の自由があり、共産党の是非を公に議論することが許されるとすれば、賢明な中国人はとっくに共産党の邪悪な本質 を見抜き、共産党邪教の制御から抜け出していたかもしれない。しかし、不幸なことに、中国共産党が統治しているこの半世紀もの間、中国の国民は言論と思想 の自由を失っている。1957年、知識人の中から右翼を探し出した目的は言論と思想を制限するためである。このような自由のない社会で、文化大革命の時マ ルクス・レーニンの原著を誠心誠意に研究してきた若者まで、「党に反対する集団」として弾圧され、共産党の是非を議論するなどなおさら許されないことで あった。

共産党は邪教である。多くの中国人はこのことを考える勇気すらなかったと思う。しかし、中国で生活したことのある人なら、自分自身の経験と親戚友人の経験からこの論を支持する論拠を見つけるだろう。

人々は、思想の自由を禁錮されるだけではなく、共産党の説教と党の文化まで注ぎ込まれている。人々は党の功徳を讃える声しか聞こえず、頭の 中に共産党以外のものは何もない。例を挙げて説明しよう。「天安門事件」の時、天安門広場付近で発砲があった時、多くの人は本能から身を隠したが、少し落 ち着きを取り戻すと、皆それぞれ身を隠した場所から、「インターナショナル」を歌って表に出た。これらの中国人は確かに、勇気があり、純真で尊敬に値する 人であるが、なぜ共産党の虐殺に遭っているにもかかわらず、共産党の「インターナショナル」を熱唱したのであろうか。理由は非常に簡単である。つまり、党 の文化で教育されてきたので、人々は共産主義以外、何も知らないのである。「インターナショナル」と党の功徳を讃える歌以外、歌える歌はない。

(三)解決策はどこにある?

中共はもはや救いようがないほど堕落してしまったが、悲しいことに、この邪教は消滅の瀬戸際にあって、中華民族を道連れにしようと考えている。

中共は力が衰え、人々の思想面での支配はだんだん弱くなり、また、現代通信手段、特にインターネットの進歩で情報コントロール・言論封鎖が ますます難しくなっている。民衆が拡大しつつある官僚の汚職による被害に対して認識し始め、中共に対する期待も薄くなり、自らの権利を求めるようになって いる中、法輪功に対する迫害で自分たちの思想面での支配を強化できないばかりか、中共自身の残虐さが世に知られ、自らの首を絞めることとなった。このよう な中、中共の本質を考え直すことが可能となり、中華民族が中共邪霊のコントロールから脱出するきっかけを掴んだのである。

50年にわたり中共政権により支配された中国人に必要なのは暴力による革命ではなく、魂の救済である。これは中国人が自らを救う過程であり、その第一歩としては共産党の邪悪な本質の認識から始まるのである。

いつか中国でも行政系統に独立性を与え、寄生虫の共産党を切り離すであろうが、それは遠い将来ではないだろう。共産党による一党統治を取り 締まれば政府機関は間違いなく効率よく働くし、実際こういった「党と行政との切り離し」の考え方は80年代に共産党内部改革派に提案され実践もされてきた のである。しかし、共産党の絶対的権力を根本から否定せず、それ自身の内部改良だけでは問題の解決にはならないのである。

共産党が生存するためには共産党理論が不可欠であり、行政機関に寄生する共産党を切り離すよりも、思想面での憑き物を追い出す方が遥かに難 しいだろうが、それが共産党を退治する唯一の方法である。本質の邪悪さとそれの危険性を認識させた上で、思想の片隅にも生存空間を与えないようにする。共 産党は一種の思想形態に属するので、民衆へのマインドコントロールを最も重要としている。中国人自ら行わなければならないが、思想面から共産党の存在、そ の理論を否定し、自分の考え方への影響をきれいにしておけば、思想形態としての共産党が滅びるだろう。この場合、共産党憑き物のない正常な社会へ転じるた めには一人一人が「返本帰真」、すなわち善良なる本性に戻る事が必要である。

共産党支配の国々、中国、北朝鮮、ベトナム、キューバのほとんどは権力集中、貧困と迫害を伴う。総数はますます少なくなるという末日が見えている。

邪悪な共産党を追い払ったら、知恵と輝かしい歴史を有する中国には大いなる希望が生まれるだろう。

結び

共産党はもはや共産主義を信じておらず、その魂は死んだが、その残滓がわずかに残っているという有様である。中共は共産党の皮を受け継ぎ、 傲慢やうぬぼれ、極端な利己主義、歯止めのきかない放縦さという邪教的本性を十分に表わしている。中共という邪教は、天理を否定し人間性を抹殺するという 本質を引き継いでおり、何ら変わっていない。

今日、中共による統治は、共産党が長年累積した闘争手段, 厳密な組職制度、‘党による憑き物’の統治形式、及び国教化した邪教的宣伝により維持されている。今日の中共は、本文にまとめられた共産党の 6つの邪教的特徴をすべて備えており、善良な事は全くせず、ひたすら悪事を重ねている。

滅亡の末路を進むこの中共邪教はますます腐敗、堕落する一方である。最も恐ろしいのは、終焉に気づいたがゆえに、この邪教が全力で中国社会を腐敗と堕落の深淵へ道連れにしようとしていることである。

中国人は自らを救うため、反省しなければならず、共産党支配から脱出しなければならない。




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[1] 「豹は死んだが、その皮はまだ残っている」は、古代中国の預言書からの抜粋。ここで表現されている“豹”は旧ソビエト連邦の地域を指す。旧ソ連が崩壊すると、共産主義システムの本質自体も共に壊滅するが、その皮(形式)だけが残り、中国共産党がそれを受け継いでいる。

[2] 中華人民共和国憲法(公式翻訳、1999年)

[3]毛沢東の「湖南省における農民運動についての調査報告」(1927)より

[4]泰山は山東省にある。中国の5つの有名な山のうちでも最も有名。1987年世界遺産に登録された。

[5] 「土地を囲み、お金を囲み、物を囲む」とは、中共の政府と商業が結託し、大規模に国の土地、鉱山、建築と財産を占領していることを指す現代的な用語であ る。人々は都市や住み慣れた町からの強制的な立ち退きを命じられ、多くの場合その補償金は微々たるものである。詳しい情報 は:http://www.uglychinese.org/enclosure.htm

[6] 「2月革命」-1917年2月、ツァーの王位を奪ったブルジョア革命。

[7] 10月革命-ボルシェビキ革命とも呼ばれる。1917年10月にレーニン主導のもとに起きた。この革命で、ツァーの王位を奪った資産階級の革命家たちを虐殺し、ロシアのブルジョア革命を倒した。

[8] 「馬日事変」「四一二虐殺」はともに国民党が中共を攻撃した。「馬日事変」は1927年3月21日、湖南省の長沙市で起こった。「四一二虐殺」は1927年4月12日に上海で起こった。どちらも、中共党員とその支持派の何人かが逮捕され、殺された。

[9]紅一方面軍:1928年、共産党は軍隊を設立し、ソ連の真似をして 「紅軍」と名づけた。しかし、当時軍隊は各地に散在していた。1930年8月、毛澤東、朱徳は紅一軍団を率いて、彭徳懐の紅三軍団と合流し、「紅一方面 軍」を構成し、後ほど林彪の指揮下に置かれた第四野戦軍となった。江西にある臨時政府が崩壊後、中共の内部が分裂し、毛澤東などは紅一方面軍を率いて陝西 省へ逃げたが、様々な困難に遭い、多くの人が命を失った。中共が政権を取った後、これを「万里長征」と名づけ、大々的に宣伝された。

注:毛澤東は粛清委員会の主任李韶九を派遣し、富田で省行動委員会と紅二十軍の指導者を逮捕し、残忍非道な拷問を施した後、彼らを殺害し た。このことをきっかけに、紅二十軍の一部の幹部が軍隊を率いて富田を取り囲み、李韶九らを逮捕し、監禁された人を釈放した。これは即ち中共歴史上の「富 田事変」である。

[10] 4つの原則とは、社会主義への道、プロレタリアート独裁、中国共産党の指導、マルクス-レーニン思想

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2013/12/19 17:06|九評共産党TB:0CM:0

 

序文

中国共産党政権の成立から55年間の歴史は、血と嘘で記された歴史である。その流血の裏にある事実は、残酷非道であるばかりでなく、ほとんど世間に 知られてない。中国人の6千万ないし8千万もの罪のない人々の命が犠牲となり、更に多くの家庭が迫害された。今日でも、多くの人たちが依然として、なぜ中 共は人を殺す必要があるのかと考えている。今日でも中共は相変わらず、法輪功学習者を虐殺しており、更に2004年11月初旬に至っては、漢源で抗議する 民衆に対して発砲し制圧した、その時も多くの人たちが思ったことは、いつ中共が虐殺を止め、対話することを学び、銃を用いるのではなく話し合いをするかと いうことである。

毛沢東が「文化大革命」を総括したとき、「国内が大いに乱れ、そして泰平の世となった、七、八年後にまた同じようなことになるであろう」と述べた。[1] はっきりと言うならば、つまり七、八年ごとに政治運動を行い、七、八年ごとに、再度大量の人たちを殺すことと言える。

共産党のこのような殺人には理論的根拠があり、現実に必要なことなのである。理論から言うと、共産党が「プロレタリア独裁」と「プロレタリ ア独裁の基での継続革命」を信じ、政権を打ち立ててから、「地主を殺す」という方法で、農村の生産秩序を解決し、「ブルジョアを殺す」ことで、商工業の改 革をなし遂げ、都市の生産秩序を解決する。この二つの階級を抹殺してから、経済における基礎的問題をほぼ解決した。イデオロギーの問題も殺人によって解決 しなければならない。その中に、「胡風の反党集団」を絶滅させることと「反右」を含み、それをもって、知識人たちを粛清する目的を達成する。「民間信仰団 体及び結社」を殺すことで、宗教問題を解決する。「文革の人殺し」は文化及び政治に関する党の絶対的な指導権問題を解決するためである。「天安門事件」の 殺人は民主化を求める問題を解決するためであり、政治危機から逃れる為である。「法輪功を迫害する」ことは、信仰及び健康増進運動等々の問題を解決するた めである。

このすべては、みな中共がその地位を強化し、その統治を維持する過程で、絶えず、経済危機(政権を打ち立ててから、物価が高騰し、文革後の経済が崩壊する 寸前に)、政治危機(一部分の人たちが党に服従せず、一部分の人たちが党と政治権利を奪い合う)、信仰危機(旧ソ連の解体及び東欧激変事件、法輪功事件) を解決するうえで起った、必然的な反応である。法輪功事件以外の、前述したすべての政治運動は、中共悪霊への充電であり、革命意欲を掻き立てる過程は、即 ち党の組織に対する検査で、全ての党の要求に符合していない党員は、一切淘汰されてしまう。

それとともに、共産党の殺人は現実に必要でもある。共産党は立党当時から、無頼漢やならず者が、人を殺し、作り上げたものである。人殺しを既に始めたの で、絶対に途中止まることなく、しかも絶えず恐怖を作り上げ、人民を恐怖の中におき、人民は党が強硬すぎるため、頭を下げ言いなりになるという現実を認め ざるをえない。

表面的に、多くの事例は、中共が「受身の立場の殺人」のようで、社会に偶然の事件が起り、偶然に中共の悪霊及びその中共の組織的殺人メカニズムに触れたよ うであるが、実は、「偶発」の裏に隠れている周期的な殺人は、中共にとっては、必然なことである。そうでなければ、喉元過ぎれば熱さを忘れることになり、 二年間ほど殺人をしないと、人々は中共が既に改善されたという錯覚に陥ってしまい、甚だしい事例としては、89年(天安門事件)民主運動の理想青年と同 様、民主化を性急に求めることになりかねない。

七、八年ごとに一度大量殺人をすれば、人々に恐怖感への記憶を絶えず刷新することができる。成長したばかりの若者たちに警告し、共産党に反対し、中共の絶 対指導権に挑戦しようとする人たちや、歴史の本来の面目を回復しようと図る人たちに、「プロレタリア独裁の強烈な打撃」を食わすに違いない。この点から見 ると、殺人とは、中共が統治を維持するための最も必要な手段の一つである。血の債務がますます多くなる状況の下で、屠殺用の刃物を捨てると、自分自身を民 衆に渡して清算されることになる。それゆえ、中共の人殺しは、大量に殺戮して、死体を至る所に放置するばかりでなく、しかも、その手段はとても残虐で、特 に、政権を打ち立てたばかりの時期には、そうしなければ、民衆を震え上がらせることができなかった。

恐怖を作り出すための殺人であるため、誰を殺し、誰を殺さないか、ということに理性などいささかもない歴代の政治運動に中共は、「集団殺害」政策を利用し てきた。「反革命を鎮圧する」を例として、中共は反革命の行為を鎮圧することではなく、反革命「者」を鎮圧するわけである。例えば、ある人が無理やり兵役 に徴用され、わずか数日間、国民党の兵隊になったという事実だけで、台頭した中共政権に対し、何ら反対していないにもかかわらず、やはり処刑されるのであ る。なぜならば、その人は「歴史反革命」に属しているからである。土地改革の過程で、中共は、甚だしく「禍根を根絶する」という絶滅方式を取り、地主を殺 害する以外に、その家族全員を殺す。1949年以降、中国では人口の半分以上が中共の迫害を受けたことがあり、不自然に死亡した人数は6千万ないし8千万 と推定され、二度の大戦における死亡者数の総数を上回っている。

世界の他の共産国家と同様、中共はほしいままに、民衆を屠殺するばかりでなく、内部に対しても血生臭く粛清し、手段も極めて残虐であり、その目的の一つは 「人間性が党性に勝った」異分子を排斥するためである。人民を脅迫する必要ばかりでなく、内輪の人に対し、脅迫が必要である。それは、「難攻不落の堡塁」 を形成させるためである。

文化面において、正常な社会では、人間と人間との間の愛と思いやりを満たし、生命への畏敬と神への感謝の気持ちを溢れさせる。東洋人は「己の欲せざるところを人に施すなかれ」[2]と言い、西洋人は「己を愛する如く他人を愛せ」[3]と言っている。共産党だけが「今までの、すべての歴史は階級闘争の歴史である」[4]と 言い、「闘争」を維持するために、人民の間に、憎しみを煽らなければならない。中共自身が人を殺すばかりではなく、大衆と大衆との間で殺しあうことを唆 す。人民を絶えず人殺しの中におき、他人の苦痛及び命を無視することを教え、色々な非人道的な残虐な暴行に慣れてしまい、無頓着にする。運良く暴行が免れ ることを最も幸いなことだと思わせ、中共の統治が残虐な鎮圧によって維持されることができるようになる。

それゆえ、中共は何十年もの間、虐殺の中で、数え切れない生命を破壊した。更に、中華民族の精神をも打ち砕いてしまった。数多くの人たちが、残虐な闘争の 過程で、条件反射を形成され、中共が殺戮の刀さえ上げれば、すぐに、すべての原則を放棄し、一切の判断力を無くし、投げ出してしまう。ある意味から言う と、彼らの精神は既に死んでいる。これは肉体の死亡より遥かに恐ろしいことである。

一 殺戮は麻を切るが如し

毛沢東が政権を打ち立てる前に書いた文章の中で、既に「われわれは反動派と反動階級の反動行為に対し絶対に仁政を施さぬ」と示した。[5] 言い換えれば、中共が北京に入る前、とっくに「暴政」を実行する決意を表明し、しかも、それに「人民民主専制」という立派な名前を付けた。以下にその例を挙げる。

(一)反革命鎮圧と土地改革

中共が1950年3月に出した《厳しく反革命分子を鎮圧する指示》より始まった運動は、歴史上「鎮反」運動と呼ばれる。歴代の皇帝が即位後 に、世間を大赦するのと異なるのは、中共は登場すると即、斬殺の刀を上げた。毛沢東は、ある資料の中で「極めて多くの地方で、あれこれ気兼ねして大っぴら に反革命分子を殺すことができない」と述べていた。1951年2月、中共中央は再び、浙江省と皖南以外に、「その他の殺人が足りない地区、特に大、中都市 では、引き続き躊躇することなく一まとめに逮捕し一まとめに処刑しろ。止めるのが早すぎてはならない」と指示を与えた。毛沢東は「農村で、反革命を斬殺す るのは、一般的に、人口の千分の一を超えるべきで、…都市では、千分の一より少なくする」という指示を与えた。当時の中国は、6億の人口で計算すると、毛 の至上命令だけで、少なくとも60万の人間の首が刎ねられた。その「千分の一」という数字の比例については、どういう方法で算出したものであるかどうか は、知るべくもないが、毛は、おそらく気まぐれで、この60万人の命を下地にすれば、人民に恐怖感をもたらす最低の規模に、十分であると考えたのであろ う。それ故、このような指標を下したのであろう。

処刑された人たちの罪が、死刑に価するかどうかなどは、中共はまったく考えることのない問題である。1951年、中共が公布した《中華人民共和国反革命分 子を懲罰する条例》によると、「デマを飛ばす」ことさえも、即時死罪にすることができる。「鎮反」と同様、勢いが激しい「土地改革運動」を行っている。実 情は、中共は20世紀20年代に、既にその占領区域に「土地改革」を始めた。表には、「太平天国」[6]の 「有田同耕」に似たような理想を実現させ、実際の、本当の目的は、口実を作って、人を殺すことだ。中共党内第4位の人物である陶鋳は、「村ごとに血祭りに 上げ、各世代を闘争に参加させよう」という「土地改革」スロ-ガンを提示した。つまり、各村とも、地主を銃殺するということである。

本来なら、土地改革に、殺人などはまったく必要がなく、同様に、台湾政府のような買戻し方式を採用することができるにもかかわらず、もともと匪賊とルンペ ン・プロレタリア-トに頼って始まった中共は、「奪い取る」ことしか分からない。他人のものを奪い取ったならば、恨みが怖いため、いっそのこと、根こそぎ にしてしまう。「土地改革」のとき、頻繁に見られた殺人方法は、闘争会である。地主や富農たちに、いくつかのでっち上げの罪名を被せ、それから演壇の下の 人々にどうするのかと尋ねる。演壇の下に、事前に手配した中共党員または積極的行動をする人々が、やらせで「殺すべきだ!」と大きな声で叫ぶ、それによ り、地主や富農たちはその場で処刑されてしまう。当時、農村に若干の田畑を持っている者は皆、何らかの「覇」として定められた。よく百姓をいじめる者は 「悪覇」と呼ばれ、常に大衆のために善行を行う人が「善覇」と呼ばれ、何にもやっていない者は「不覇」と呼ばれたが、このような区別に本質的な違いがな い。なぜならば、どの種類の「覇」の結末も、常に同様にその場で、処決されてしまったのである。

中共の1952年末までの公布によれば、消滅された「反革命分子」は240万人に達し、実際には、国民党が任命した県知事から、地方町内会の10人ごとグ ル-プの甲長(組長)までの公務員や教師及び地主等は、少なくとも500万以上の人たちが殺害された。このような「鎮反」と「土地改革」は、次にあげるよ うな、最も直接的な効果があった。第一に、従来の中国の基本権力の組織は、基本的に農村の宗族による自治は、その土地の有力者が地方自治のリ-ダ-になっ ていた。中共が「鎮反」及び「土地改革」を通して、本来のシステムの管理人員を殺し尽くし、「各村とも党支部がある」ことによって、農村に対する全面的な コントロ-ルを実現させた。第二は、「土地改革」と「鎮反」運動を通じて、大量の財産と金銭を略奪した。第三は、地主及び富農たちへの残虐な鎮圧を通し て、庶民たちを震え上がらせる効果を発揮した。

(二) 「三反」、「五反」運動

「鎮反」と「土地改革」が主に農村の基本的な階層を目標としたものとすれば、続いてできた「三反、五反」運動は、即ち都市の中の虐殺運動である。「三反」 運動は、1951年12月から、中共内部幹部の腐敗を対象とし繰り広げた「汚職に反対し、浪費に反対し、官僚主義に反対する」という運動であった。当時、 腐敗幹部を処刑したが、その後、すぐ引き続き中共は、其の幹部たちが悪くなったのは、みな、資本家たちの誘惑のせいだと思った。そこで、次の年の1月か ら、「五反」運動が始まった。即ち、「贈賄に反対し、脱税に反対し、国家財産の窃盗に反対し、手抜き及び材料をごまかすことに反対し、国家経済情報の窃盗 に反対する」という運動である。

「五反」運動は、実際には、資本家の財産を略奪することであり、甚だしくは、財物を強奪するために人を謀殺することである。当時の上海市長陳毅は、毎晩ソ ファ-に体をもたれ、のんびりとお茶を持ち上げ、報告を聞きながら、「今日は、どのぐらいのパラシュ-ト兵が降りたのか」と問う。つまり、商人が何人飛び 降り自殺をしたか、と聞いていたのである。「五反」運動にあって全ての資本家は、災難を避けることができない運命となった。いわゆる「脱税に反対する」こ とは、光緒時代の上海開港当初から計算した膨大なもので、資本家たちは、家財を投げ打っても、「税金」を払えないことになり、自殺しようと思っても、黄浦 江に身を投げることもできない。なぜならば、香港へ逃げたと言われる恐れがあり、家族たちが続き、返済を求められることを避けるため、仕方なく建物から飛 び降りて自殺し、中共に死体を見せれば、諦めてもらえるということである。当時、上海高層ビルの両側を、あえて歩こうとする人はいなかった。上から飛び降 りた人に押しつぶされることを恐れがあったからである。

1996年、中共中央党史研究室などの4つの部門により、共同編纂された《建国以来歴史政治運動事実》の報告によると、「三反、五反」運動中に、32万 3,100余りの人が逮捕され、280数人が自殺したか、または失踪した。1955年の「胡風に反対する」運動では、5,000人余りが巻き添えにされ、 500人以上が逮捕され、60人ほどが自殺した。12人は不自然な死亡である。その後も引き続いた「反革命分子粛清」運動の中で、2万1,300人余りが 死刑判決され、4,300人ほどが自殺、失踪した。[7]

(三)大飢饉

中国共産党が建国した後、最も多く死亡者を出した政治運動は「大躍進」[8]後の大凶作で あった。紅旗出版社が1994年2月に出版した「中華人民共和国歴史実録」では、表題『大飢荒』の中で、「1959年から1961年までの死亡者及び出生 者数には不自然な部分がみられ、減少した数は約4千万人と記されている。…中国の人口が4千万人も減少したこと自体が本世紀においての世界最大級の“凶 作”であるとしている。実際、海外及び国内の学者らによると、飢餓による死亡人口は、統計によると、3千万人から4千5百万人であると言われている。[9]

今回の大飢饉を、中国共産党は「三年の自然災害である」と事実を歪曲して報じた。実際、その三年間の気候は穏やかであった。大規模な洪水、旱魃、台風、津 波、地震、霜、雹、害虫などによる自然災害は一度もなかった。これは全くの「人的災害」であった。「大躍進」と言う名目で、全国民を挙げての製鋼事業のた めに、農作物の収穫が出来ず、腐るまで放置された。しかし、当時は各地でそれぞれの頭角を争うため、柳州地区の委員会第一書記である賀亦然氏は、自ら環江 県で『1畝(1/15ヘクタール)で、6万5,000㎏のお米を収穫した』とのでっち上げ豊作劇をトップニュースに仕立てた。折しも廬山会議の後であっ た。党が正しいことを証明するために、中国共産党は全国で「反右派」を起こした。そして、共産党は全国ででっち上げた農産物の生産量に従って穀物の買い上 げを実行した。農民の食料、種物、飼料は全て取り上げられた。徴収不足が出た場合、その場で農民が食料を隠したと農民のせいにした。

賀亦然氏は「柳州地区でどれほどの人が餓死しても、一位を争うのだ」と揚言した。ある農民は全てが取り上げられ、尿つぼに隠した一握りのお米しか残されな かった。環江県馴楽区委員会は、農民に対して、食料があっても食べられないようにするため、「火を消し、鍋をしまえ」とまでの命令を下した。民兵は夜間の 巡回で明かりを見つければ、そこの家に対して捜査を行い、逮捕した。多くの農民は、野菜と樹皮を煮て食べることすらできず、餓死した。

過去において、凶作が発生した際、政府は国民に対し食料の供給を行い、凶作発生地区の人々が他の地区へ避難することは許されなかった。しかし、中国共産党 は国民が避難すること自体、「党の威信」を損なうと考え、避難する人々が逃げ出さないように、民兵を派遣し、農村から他の地区への交通道路を封鎖した。凶 作発生地区において耐えきれず、糧食管理所へ食料を盗みに来た人々は、銃撃され、鎮圧された。さらに、飢え死にしそうな国民を銃殺し、反革命者だとでっち 上げた。当時、甘粛省、山東省、河南省、安徽省、湖北省、湖南省、四川省、広西省などの多くの地区には、餓死した人々の死体が至るところに放置されてい た。ご飯を食べられない農民達は更に「水利を修理」、「鉄鋼を煉製」へと行かされ、歩きながら次々と倒れてしまう人が多くいた。しまいには、死者が出ても 埋葬してあげる人さえいなかった。多くの村は、このように次から次へと消滅した。

中国史上最も厳しい大凶作の時代には、「子供を交換し食す」と言うことがあった。しかし、もっと酷いことに、中国共産党の統治下では、死人の肉を煮込んで 食するということが、しばしば現れた。更に他の地区から逃げてきた人や、自分の子供まで殺して食べてしまうことも、発生した。次のような事例があった。 「ある農家では家族は次々と食べられ、父親と一男一女の子供しか残らなかった。ある日、父親は娘を外へと行かせた。その後、娘が戻ると、弟がいなかった。 あるのは、鍋に油が浮きプカプカとしている白っぽいものであった。そして、釜の横には骨が放リ出されていた。数日後、父親は又も鍋に水を足しはじめた。そ して、娘を呼び寄せた。娘は恐れドアの外で号泣した。父親に『お願いです。お父様、私を食べないでください。私は芝刈りをし、火を炊いてあげます。私を食 べたら、誰もお父様の面倒を見る人がいなくなります』」(作家沙青氏の報告文学『依稀大地湾』より抜粋)。

このような人倫の惨劇がどれほど起きたのかは、我々には分からない。しかし、このような惨劇を数多く作った中国共産党は、このような惨劇を歪曲して、党が人民を率いて「自然災害」に対抗する頌歌と為し、党は「偉大、公明、正しい」とまで自画自賛した。

1959年廬山会議で、人民のために請願した彭徳懐氏は、ひどい目にあわされた。多くの真実を語る幹部が、次々と免職させられ、監禁、尋問捜査された。大 凶作が発生した時期になると、幹部らは自分達の職と地位を守るために、本当のことを語る者は誰一人としていなかった。多くの国民が餓死した真実も隠した。 陝西省に対して、甘粛省が救援物資を提供する提案をした時、陝西省は自分達の食料は、食べきれないほどあると言う嘘偽りの口実で断った。

この大凶作は中国共産党幹部に対する検閲でもあった。中国共産党の基準によれば、彼らは、勿論「合格」した幹部達である。何故なら、彼らは数千万人が餓死 した事実を隠しても絶対に本当のことは言わない。共産党の指示通りに行ったことに対し、自分の良心を左右する情けや天理などと言ったものはないのである。 大凶作以降、人民の生死を見放した省の幹部らは、簡単な形式上の検討事項で事を終了させた。当時四川省の省委員会書記であった李井泉氏は、飢餓に瀕してい る数百万人を見放したにもかかわらず、後に西南局第一書記にまで抜擢された。

(四)文化大革命、「六四」から法輪功(ファールゥンゴン)まで

文化大革命は1966年5月16日に始まった。この期間は中国共産党の中で、「10年の災禍」と言われている。胡耀邦氏は、ユーゴスラビアの記者に「当時は、約一億人が連座された。中国の人口の10分の1に相当する」と述べた。

中国共産党史研究室などで合同編集した『建国以来歴史政治運動事実』の中で、次の数字が明らかにされた。「1984年5月、中国共産党中央は更に2年7ヶ 月に亘り調査し、そして、事実を確かめてから、文化大革命に関連する数字を新たに統計した。420万人が監禁審査され、172万8千人余りが不正常の死亡 者となった。13万5千人余りは現行の反革命の罪で死刑に処された。武力闘争中に23万7,000人余りが死亡、703万人余りが負傷して不具になった。 7万1,200戸余りの家庭が完全破壊された」。専門家が中国県誌の記録に基づいて統計した数字では、文化大革命での不自然な死亡者数は、少なくても 773万人と出ている。

殺人の他に、文化大革命の初期に、自殺の波が現れた。多くの著名な文人名士、例えば、老舎、傅雷、翦伯賛、呉口(日含)、儲安平などが自ら命を断った。

文化大革命時代は、中国が最も「左派」となり狂気じみた時代である。この時代「殺人」が、ある意味では「革命的」を表した。故に、「階級の敵」に対する虐殺も残酷さと野蛮さを極めた。

しかし、「改革開放」は情報の伝達を大きく発展させた。多くの海外ジャーナリストらも1989年、北京で起きた「六四」天安門事件で殺人を目撃し、戦車を使い学生達を轢き殺した映像を海外へ流すことが出来た。

江沢民は十年後、1999年7月20日に法輪功(ファールゥンゴン)を弾圧し始めた。2002年末、中国大陸の内部情報は、既に7,000人が各地の拘置所、強制労働収容所、刑務所及び精神病院で虐待され死亡したとしている。平均、一日に7人が虐殺されたことになる。

今日、中国共産党の殺人の数は過去のように百万人、千万人の単位にはなっていない。これには二つの大きな原因が絡んでいる。一つは、国民は中国共産党の党 文化に支配され同化されている。もう一つは、中国共産党内の巨額の汚職行為及び国庫の公金の着服が、中国を「輸血型」経済にさせてしまったことだ。外資が 中国の経済成長及び社会安定を維持する重要な柱となっている。中国共産党は「六四」天安門事件以降に受けた各国からの経済制裁の記憶が未だに生々しく残っ ている。公然と殺人を行ったならば、外資の撤退を招き、自らの統制を危険に曝してしまうからである。

しかし、中国共産党は、裏では殺人行為を止めてはいない。ただ表では極力、血まみれの事実を隠蔽しているのである。

二 残忍極まる殺人手段

中国共産党が行ったことは、全て権力奪取と権力を維持するためである。そして、殺人が権力を維持するための重要な手段であった。殺人方法が残忍極まれば極 まるほど、殺される人数も増える。そうすることによって、更に多くの人々を脅かすことが出来る。このような恐喝は、戦争時代より以前から既にあった。

(一) 抗日戦争における華北の暴行

米国第31代大統領フーバー氏が、世界に向け雷震遠神父の著作『内部の敵』[10]を推薦した際、「この本の中で共産主義の恐怖に満ちた行動が、そのままむき出しにされている。全世界で広がっている共産主義と言う悪魔勢力について、本当のことを知りたい全国の皆さんにこの本を推薦する」と語った。

雷震遠神父は、著書の中で、中国共産党はどのような暴力を用いて民衆を恐喝するかについて、幾つかの物語を述べた。ある日、中国共産党は、ある村の全ての 村民を村の広場へ集まるように指示した。子供も先生達に率いられて広場に集まった。彼らに13名の愛国青年が首を切られるのを見てもらうのが目的だ。でっ ち上げの罪名を読み上げられた後、共産党は既に恐怖で顔面蒼白になった教員らに、子供達と愛国の歌を歌うように命じた。歌声の中に出てきたのは踊り子では なく、刀を手に持つ首切り人であった。『首切り人は、身体が丈夫で力が非常に強い凶悪な共産党青年兵だ。彼は一人目の犠牲者の背後に立ち、両手で幅の広い 鋭い刀を持ち上げ、目にもとまらぬ速さで、スパッと切り落とした。首は地面に音を立てて落ち、鮮血がほとばしった。子供達の歌声はヒステリックになり、乱 れた泣き声となった。教員らは拍子をとって音を整えようとしたが、混乱の中で鍾が鳴った』。

首切り人は刀を連続13回振り、13人の首を切り落とした。その後、中国共産党の兵士達が13人の遺体を切り開き、心臓などを取り出し、食すために持ち 帰った。これらの行動は、全て子供達の目の前で行われた。「子供達は恐怖で顔面蒼白になり、何人かが嘔吐した。教員らが子供達を叱りながら、集合させて列 を作って学校へと戻った」。

以降、雷神父は、子供達が強制されて殺人を見に行かされたのをよく見かけた。子供達はこのような血だらけの場面に慣れるまで、何度も同じ事を繰り返し見せられた。子供達は次第に麻痺し、中には殺人を見た刺激によって、快感を得る子供さえ出てきたほどであった。

中国共産党は殺人が恐怖に満ち、刺激的なものでなくなったと感じた時、彼らはあらゆる残虐きわまる拷問を考え始めた。例えば、大量の食塩を食べさせ、受刑 者が渇ききって死亡するまで水は一滴も与えないでおく。又は、衣服を剥ぎ取り素っ裸にして、一面に砕かれたガラス破片の上を転がさせる。又は、真冬の凍り ついた川に穴を開け、受刑者をその穴に放り投げ、凍死或いは溺死させる。

「山西省ではある共産党員が非常に恐ろしい刑罰を考えた。ある日、彼は町でぶらぶらしている時に、あるレストランの入り口で足を止めた。彼はご飯を炊いて いる大きい鍋をしばらく見つめていた。その後、彼は幾つかの大きい鍋を取り寄せた。反共産党の者を何人か捕まえて来て、いい加減な審判をし、鍋に水をいれ 煮立たせた。審判終了直後、三人の受刑者は衣服を剥ぎ取られて鍋に放り込まれた。人間を生きたま茹でて死なせた。…平山で、私はある父親が生きたまま皮を 剥ぎ取られて死亡したのを目撃した。彼の息子は、共産党によって、強制的に自分の父親が残酷に処刑されるのを見せられた。共産党は父親の身体に酢と酸類の ものをこぼし、一枚の人間の皮が瞬く間に剥ぎ取られた。皮は背中の上部から徐々に両肩まで剥がされて行った。全身の皮が剥がれ、頭皮だけが残された。彼の 父親は全身の皮を剥ぎ取られた後、数分後に死亡した」。

(二)「紅八月」赤色の恐怖と広西省人食い事件

中国共産党は、政権を手中にしてからも、暴行を慎む意思は全く見られず、文化大革命の時、このような暴行は更に発展し拡大された。

1966年8月18日、毛沢東は天安門城門で「紅衛兵」の代表と面会した。宋任窮の娘宋彬彬は、毛沢東から「紅衛兵」の腕章を授けられた。毛沢東は彼女の 名前の由来が「上品で礼儀正しい」と言う意味を知り、彼女に「武力も必要だ」と言った。彼女は以降自分の名前を宋彬彬から「宋要武」に改名した。

意気込みに燃えた「武装闘争」がすぐに全国で展開された。これら中国共産党により無神論教育で育てられた若い世代は、何一つはばかる事はなく、恐れる事も なかった。共産党の直接指導の下、彼らは毛沢東の指示に従い、愚かにも、狂気じみた大胆不敵な悪事を働いた。むやみに人を殴打し、人の家財を奪い取るなど のことは全国に亘り多発した。多くの地区は「黒五類」(地主、資本家、反革命者、悪人、保守派)に対し、「根こそぎ抜き取る連座」の絶滅政策を取った。大 興県が最も典型的な地区であった。8月27日から9月1日まで県内の13公社、48大隊に対し、前後325人を殺害した。年齢は、最年長で80歳、最年少 はわずか生後38日だった。計22戸の世帯が全滅させられた。

「生きたまま人を殴打して死なせることは日常茶飯事。沙灘町で、“紅衛兵”の男子グループが鉄のチェーンと皮のベルトを使って、ある老婆を身動きできなく なるまで殴り続けた。そして、女子の“紅衛兵”が老婆のお腹の上を飛び跳ねたりして、老婆が息を引き取るまでお腹を踏み潰し続けた。…今回の運動の中で、 崇文門付近にある“地主の老婆(独居の未亡人)”の家を“家宅捜査”した。紅衛兵は近所の各戸の人に熱湯の入っている魔法瓶を持って来させ、強制的に彼女 の首に熱湯を注ぎ、首に火傷をおわせ、首の肉が煮え切れるまで止めることはなかった。数日後、家に放って置いた死体はウジに満ちていた。…当時の殺人方法 は多種多様で何でもありであった。棍棒で人を殴ることも、鎌で人を切ることも、紐で絞め殺すこともあった。赤ん坊に対しては、更に残忍な手段を用いた。赤 ん坊の片足を踏み押さえ、もう片足を強引に引き裂き、生きたまま二つに引き裂いた」。(遇羅文『大興虐殺調査』より)

大興虐殺より更に野蛮な事件は、広西省における人食事件であった。鄭義氏はそれを三つの段階に分けて分析した。[11]

一、初期段階:人目を忍んで行い、恐怖に満ち気味が悪かった。某県のある案件記録は、典型的な場面を記している:深夜、殺人 犯らが殺人現場へ行き、死体から心臓を取り出したが、経験が無い上に恐怖の余り間違え、肺臓を持ち帰ってしまった。やもなく、再び殺人現場へ行った。…料 理が出来た。家から酒を持って来た者、おつまみを持ち寄って来た者らは、かまどの消えかかった明かりを頼りに、声も出さずに食べ物を貪った…。

二、上昇期段階:日増しに、勢いが増している。この段階になると、心臓を取り出す経験は相当ある。その上、人肉を食べたこと のある先輩ゲリラ隊員の伝授もあり、技術はできている。例えば、生きている人の胸部を切開するため、あばら骨の下部を、ナイフで「人」の形に切り、腹部に 向けて足で踏みつければ(被害者がもし木に縛り付けられているならば、ひざを用いて腹部を目がけて押し込む…)、心臓と腹部の内臓が自然と飛び出す。先頭 の者は心臓、肝臓、生殖器を切り取り、残りは他の者に、自由に分配させる。赤旗は風に翻り、スローガンが大きく響き、盛大で勇壮な場面なのである。

三、 群集全体が狂気じみた段階:特徴は一言で概括できる:人食い集団。例えば、武宣市では、まるで伝染病が氾濫した時、死体を食べて目を赤くし た犬の群れのようであった。人々は人肉を食べる。気が狂ってしまったように食べまくる。何かするとすぐに人を引っ張り出して「批判闘争」を行う。そして、 批判闘争の後は必ず彼らを食べる。一人が倒れれば、息を引き取ったかどうかも構わずに、大勢の人が群れをなして押し寄せる。それぞれが事前に用意してきた 包丁やナイフを倒れた人を目がけてどこの部分でも構わずに人肉を切り取る。…ここまで来ると、一般の群集も人食いの流れに巻き込まれて行く。ほんの僅か残 された罪悪感と人間性も、「12級台風の階級闘争」によって、綺麗さっぱり吹き飛ばされてしまう。人食いの疫病は武宣市を席巻した。最頂点に達した時の形 式は、「人肉宴席」と言っても、全く誇張ではなかった。人の肉、心臓、腎臓、ひじ、関節、関節の筋を…蒸す、煮る、焼く、炒める、餡かけにする、油で焼く など、盛りだくさんの料理を作り出した。そして、酒を飲み、拳を打ち、論功行賞を行う。まさに人食い最高の時期に達した。最高権力機構である「武宣県革命 委員会」の食堂でさえ、人肉を調理したことがあるのだ!

これら人食い宴会は、決して民間での自発的な行為ではない。全体主義組織としての中国共産党の社会に対する制御は、一つ一つの細胞まで浸透している。背後の中国共産党の煽りと操縦がなければ、このようなことは決して起こりえない。

中国共産党は自らの賛歌で、「旧社会[12]は人を鬼に変え、新社会は鬼を人に変える」と唱っている。それぞれの人食い宴会が反映したこととは、中国共産党は人を更に残忍非道な者に変えることができるということだ。何故ならば、中国共産党自身が残忍非道の悪魔より凶悪だからだ。

(二) 法輪功(ファールゥンゴン)迫害

今や中国人もまたコンピューターと宇宙飛行の時代に入り、私生活でも人権、自由と民主について語ることができるようになった。多くの人々はにあった恐ろし くてぞっとする、気味悪い暴挙は既に過去の出来事と思い、中国共産党は文明のコートを着て、世界と共に行動する時代になったと思っている。

しかし、現実はそうではない。中国共産党がある団体は彼らの拷問と虐殺を恐れないと知った時、あらゆる手段が更に狂気じみたものとなった。そして、その残忍な迫害を受けているのが法輪功(ファールゥンゴン)なのである。

紅衛兵の武装闘争と広西省の人食いは、相手の肉体を消滅させるのが目的である、数分間あるいは、数時間で一つの命を断ち切るというものである。それに対し て法輪功(ファールゥンゴン)修煉者に対する迫害の目的は、彼らに「真・善・忍」の信仰を放棄させることが目的である。しかも、残忍な酷刑は常に数日間 も、あるいは数ヶ月間、数年間も続いている。統計によれば、既に一万人の法輪功(ファールゥンゴン)学習者がこのために命を失った。

九死に一生を得た法輪功(ファールゥンゴン)の修煉者は、彼らが受けた百種類を超える拷問の数々を記録した。以下にその中の幾つかの例を挙げる。

ひどく殴打する手段は、法輪功(ファールゥンゴン)学習者に対して最も多く使用される拷問の一つである。警察官や獄吏らは、学習者をその場で直に殴打する 他に、受刑者らにも学習者を殴打するように指示する。一部の学習者は、ひどい殴打によって耳が聞こえなくなったり、耳が裂けたり、耳が切れて取れたり、眼 球が飛び出たり、歯が折られたりした。又、頭蓋骨、脊髄、肋骨、鎖骨、腰椎、腕、足の骨はひどい殴打によって折られたり、切断されたりした。又、男子学習 者の睾丸を強く握りつぶしたり、女子学習者の陰部を強く蹴ったりした。学習者が屈服しなければ再び刑にかける。学習者らは皮膚が裂け、傷口の肉はぱっくり と開き、血だらけになり、元の形に戻らず変形するまで殴打され続ける。更に、塩水をかけ、高圧スタンガンで電気ショックを与え、血の生臭さと肉を焦がした 臭いが悲鳴と共に交じり合う光景は、人の心が引き裂かれるほど強烈なものがある。又、屈服させるために、ビニール袋を頭に被せ、窒息する恐怖の中で殴打し 続ける。

電気ショックは、中国の強制労働収容所で最もよく使われる拷問の中の一つである。警察官はスタンガンで、学習者の最も敏感で弱いところ、口腔、頭頂部、 胸、陰部、女子学習者の乳房、男子学習者のペニス、肛門、太腿、足の裏などに電気ショックを与える。一部の警察官は、身体の至るところに電気ショックを与 える。又、一度に数本のスタンガンを同時に学習者の身体に当て、肉を焦がした臭いが出るまで当て続ける。電気ショックを受けた学習者の身体は黒紫色を呈 す。一部の学習者は頭頂部と肛門に同時に電気ショック与えられた。警察官は一人の学習者に対して10本、あるいはそれ以上のスタンガンを同時に使うことも しばしばあった。更に電気ショックを与える時間を長くした。このスタンガンは通常数万ボルト以上である。電流を連続して流す時には青い光を放ち、耳障りな ピシピシという音が出る。 電流は人の身体に当てた瞬間、一気に火傷をしたような感じで、同時に蛇にでも咬まれたような感じがする。電撃される度に、蛇に咬まれたような激痛が走る。 そして、電気ショックを受けた箇所は、すぐに赤くなり、肉が裂け、焦げて膿が出てくる。更に高圧のスタンガンによって、電気ショックを受けた場合は、まる で頭頂部を鉄鎚で、勢いよく叩かれたように凄まじいものである。

また、タバコの火を手、顔、足の裏、胸、背中、乳頭に当て、ライターの火で手、陰毛を焼き、加熱して赤くなった鉄線を両太ももに押し付ける。赤く焼かれた 木炭を学習者の顔に押し付けて焼く。あらゆる拷問で虐待され瀕死状態になった学習者を生きたまま焼死させた後に、外部に対して「焼身自殺」として報道す る。

女子学習者に対しては、胸及び乳房、下半身めがけて殴るのである。スタンガンを乳房と陰部に当て、電気ショックを与える。更にスタンガンを膣に入れて電流 を流す。また、四本の歯ブラシを一束にして、女子学習者の膣に強引に入れ、歯ブラシを強くこすり回す。火かき棒で女子学習者の陰部を引っ掛ける。女子学習 者の両手を手錠で後ろ手に掛け、電線を両方の乳頭に通し電気ショックを与える。女子学習者の衣服を剥ぎ取り素っ裸にし、男性牢屋へ入れ、男性犯罪者らに凌 辱させる。

「恐怖の拘束服」[13]を法輪功(ファールゥンゴン)学習者に着せ、両手は後ろで交差させ 縛る。更に後ろで交差させた両腕を両肩の上を通って胸の前まで引っ張る。両足を縛ってから、窓の鉄棒に宙吊りにされる。口を布で塞がれ、耳にヘッドフォン を付けられ、法輪功(ファールゥンゴン)を汚す録音を延々と聞かされる。この酷刑を受けた者は、その場で両腕に傷害が残る。先ずは両肩、両肘、両腕の箇所 の筋が切れ、骨に亀裂が生じる。拷問の時間が長ければ、背骨も裂けて折れる。学習者は生きたまま痛みを嘗め尽くして死んで行く。

また、学習者を汚水、あるいは糞尿の中に全身を浸させる「水の牢」という酷刑がある。他には、先が鋭く削られた竹串を学習者の指先に差し込む。天井とほと んど隙間の無い狭い棚の上、又は、冷たい床に寝かす、至る所に赤、緑、黄色、白のカビが生えている部屋に入れられ、シェパード犬や毒蛇、蠍を使って学習者 を咬ませる。神経を破壊する薬物を注射させるなど、その他奇奇怪怪な虐待手段が山ほどある。

三 党内の残酷な闘争

共産党は道義による結合の団体ではなく、党の本性によるものである。特に最高指導者に対する党員の忠誠心の高さが、非常に重要視される。よって、党内でも 殺人事件が必要となる。最高独裁者が誰かを死なせたい時、その人の死に方が如何に悲惨であるかということを、周りに残った人達に、その恐怖を味合わせ、戒 めとする。

従って、共産党の党内闘争も非常に有名だ。ソ連共産党で連続二度務めた前政治局委員の中で、先に亡くなったレーニン及びスターリン本人以外は、全ての委員 は処刑され又は自殺した。当時、五人の元帥の内、三人が銃殺刑で処刑された。五人の集団軍司令官の内、三名が銃殺刑で処刑された。二等軍団及び師団の司令 官10人が全て銃殺刑で処刑された。そして、85人の軍司令官の内、57人が処刑され、195人の師団長の内、110人が処刑された。

中国共産党も、常に「残酷闘争、無情な仕打ち」を鼓吹している。このような殺人闘争は、単なる党以外の者に対するものだけではなく、江西省にいた頃から中国共産党は、既にAB団を殺害している。[14] 殺人闘争の末、戦争の出来ない者しか残らなかった。延安市にいた頃は「整風」(思想と活動態度を正す)を行った。政権を打ち立ててから高崗、饒漱石、胡 風、彭徳懐を粛清した。文化大革命になった時に、党内の古参はほとんど粛清され、誰も残っていなかった。中国共産党の歴代の総書記は、誰一人良い結末を送 る者はいない。

中国の国家主席を務め、一度は中国国内の第二番手の地位にいた劉少奇は、このような悲惨な状況の中一生を終えた。彼の70歳の誕生日に、毛沢東と周恩来は 特別に汪東興を派遣し、劉少奇にラジオをプレゼントした。彼に第八回の十二中国全国人民大会の公報、「反逆者、敵に内通する人、労働運動の裏切り者にされ た劉少奇を永遠に共産党から除籍し、彼と彼の仲間が党及び国を裏切った罪状について、清算し続ける」を聞かせるのが目的であった。

劉少奇は、精神的に瞬く間に崩れ、病状は悪化した。彼は長期にわたりベッドに縛り付けられ固定されていたため、首、背中、お尻、踵は床ずれとなり、痛みと 共に膿が出ている状態であった。彼は痛みに耐え切れず、側にいる人の衣服や腕に強く掴まるようになった時、彼らは劉少奇の手に硬質ポリ容器を握らせた。彼 が世を去った時、二つの硬質ポリ容器は瓢箪の形になっていた。

1969年10月、劉少奇は、既に全身がひどく爛れ、生くさい臭いを放っていて、枯れ木のように痩せこけていて、息も絶え絶えとなっていた。中央特派員は 彼に風呂も許さず、衣服も換えさせなかった。彼を素っ裸にし、蒲団詰めにして飛行機で北京から開封市へと送り、トーチカの地下室に監禁した。彼が高熱を出 しても薬を与えなかった。その上、医師や看護士を彼の側から全部移動させた。劉少奇は臨終の際、まったく面影もなく、ぼうぼうとした白髪は二メートルも あった。二日後の夜半、急性伝染病患者として火葬処理された。使用した蒲団、枕など全ての遺物は共に火葬され、何も残されなかった。劉少奇の死亡書には次 のように書かれていた『氏名:劉衛黄、職業:無職、死因:病死』。

中国共産党は国家主席まで死に至るまで迫害する、しかも死因ははっきりしない。

四 革命を輸出し、海外で殺人を行う

中国共産党は国内、党内で殺人を繰り返し、そのやり方を新しく変えたほか、更にこの種の革命を輸出し、海外で華人を虐殺することにも参与した。カンボジア共産党が最も典型的な例である。

ボルポトはカンボジアで政権を4年間維持しただけだが、1975年から1978年の間、人口800万人足らずの小さい国で200万人が虐殺された。その中に二十数万人の華人も含まれている。

ここではカンボジア共産党の罪状を論じないが、カンボジアと中国共産党との関係については語る必要がある。

ボルポトが最も崇拝するのは毛沢東である。1965年より彼は四度も中国を訪ね、毛沢東に教えを受けた。1965年11月、ボルポト氏は中国を訪問し三ヶ 月間滞在した際、既に陳伯達と張春橋などから「武力で政権を打ち立てる」「階級闘争」「プロレタリア階級独裁」などの理論と実践を学んだ。これらの理論と 実践は、彼がその後カンボジアで政権を奪取、建国、国を治める依拠となった。帰国後、彼は党の名称をカンボジア共産党と改名し、中国共産党を真似、農村か ら都市を包囲する攻め方で、自らの革命拠点を造った。

1968年、カンボジア共産党は正式に軍隊を作った。1969年末現在、軍隊の人数は、多くみても3,000人程度であったが、1975年、彼がプノンペ ンを占領する前、なんと「完全装備で、勇敢に戦う」8万人の武装軍隊まで発展した。これは完全に中国共産党の後援でできたものだ。王賢根氏の著作『ベトナ ムを援助、米国に抵抗の実録』[15]によると、1970年だけで、中国はボルポト氏に対し て三万人の武器装備を援助した。1975年4月、ボルポトはカンボジアの首都を攻め落とし、二ヵ月後に中国共産党の指示を得るために、北京を訪ねた。赤い カンボジアでの殺人は、中国共産党の理論と物資の支援がなければ、単独では実行できないことが歴然と判明したのである。

ここで一つの例を挙げる。シアヌーク殿下の二人の息子が、カンボジア共産党に殺害された後に、周恩来の一言で、カンボジア共産党はおとなしくシアヌーク殿 下を北京へ送った。カンボジア共産党は、災いを残さないように、殺人する時には腹の中の嬰児まで殺すのが、周恩来の言葉には、文句も言わずに直ちに従った のである。

しかし、周恩来の一言でシアヌーク国王を救えたにもかかわらず、カンボジア共産党が二十数万人の華人を虐殺する際、中国共産党は一言も発しなかった。当時、中国側は大使館に救いを求めに来た華人を全く無視し、何の行動も起こさなかった。

1998年5月、インドネシアで起きた大規模な虐殺事件、華人を強姦した事件に関しても、中国共産党はひたすら沈黙していた。援助の手を差し伸べなかった だけでなく、中国国内で懸命に情報を封鎖した。まるで海外の華人の死活問題は、中国政府と全く無関係であると言う対応の仕方で、人道的な援助は何もしな かった。

五 家庭壊滅

中国共産党は、政治運動を起こす度にどれほどの人々を殺害したか、正確な数字は既に集計できなくなった。地域、民族、言語の隔たりがあるために、民間の資 料は不足しており、統計もない。中国共産党は、なお更自ら墓穴を掘るようなことはせず、もちろん死亡者数の政府筋の統計はない。このように、中国共産党は 自身の歴史については常に「内容は粗く適当にするのがよい、細かいことはしない」というやり方である。

中国共産党が壊した家庭の数については、更に確認できない。一人が死亡すれば、家庭崩壊になる場合もあるし、あるいは一家全員が、次々に死んでいって消滅 する例もある。たとえ家庭の中に死人が出ていなくても、強引に離婚させられたり、親子関係を完全に断ち切られたり、虐待されて身体障害者になったり、迫害 を受けて気が狂ったり、虐められて重い病に倒れて早死にしたりなど、全てが家庭にとって悲劇である。これらに関する数字はとても集計できない。

日本の読売新聞の報道によれば、中国は人口の半分以上が、中国共産党の迫害を受けたことがあるとされていた。もしそうであれば、中国共産党が破壊した家庭は少なくとも億以上の数に上るであろう。

張志新はルポにより津々浦々まで知れ渡る人物となった。多くの人は、彼女が残忍な酷刑を嘗め尽くし、輪姦と精神的な虐待を受けて、最後は精神異常になった 時に喉を切られ、銃殺された事を知っている。しかし、この悲劇の背後に更なる残忍な物語が残されたことについては多くの人は知らない。…『死刑囚の家族学 習班』。

張志新の娘である林林さんは、1975年初春の頃に起きたことを回想した。「瀋陽裁判所から来た人が、私に向かって大声で:君の母親は非常に頑固で、反発 的で、改めない。偉大なリーダー毛主席に反発し、無敵である毛沢東思想に反対し、毛主席のプロレタリア階級路線に反対している。罪に罪を重ね、政府は刑罰 を更に追加することを考えている。極刑にする場合、あなたはどんな態度を示すのか?」…私は驚いて、どう答えればいいのか分からずに放心していた。心は瞬 く間に乱れてしまった。しかし、冷静を装い、涙が出ないように我慢した。父が、決して他人の前で涙を見せるな、そうでなければ、母親と別の態度であるとい うことを区別できなくなるからだ、と言われたことがあった。父親は、私の代わりに『そのようなことが確実であれば、政府が望むように処理して構わない』と 答えた。裁判所の者に『極刑後、遺体は持ち帰るのか?』と聞かれ、私は頭を下げたまま言葉を発せなかった。又も、父親が代わりに『我々は何も要らない』と 答えた…。父は私と弟を連れて、県の宿泊先を出て、風雪の嵐の中でよろよろと歩いて家に戻った。ご飯は炊かず、父は残った唯一の饅頭を二つに分けて私と弟 にくれた。『早く食べて早く寝るように』と父が言った。私は静かに床の上に横になっていた。父は一人で、腰掛に座って、明かりを見つめてぼうっとしてい た。父は私と弟が寝たと思い、ゆっくり起き上がって、瀋陽の家から持ってきた箱を開け、母の写真を取り出して見ている内に、父の目から涙がこぼれ落ちた。 私はベッドを飛び降りて、父の胸へ飛び込んで号泣した。父は『静かに、隣近所に聞こえてしまう』と呟いた。私の鳴き声で弟も起きた。父は私と弟を自分の胸 に強く抱きしめた。この夜、私達はどれほどの涙を流したのか分からなかった。でも決して大声で泣くことはなかった」。[16]

某大学の教師は、幸せな家庭を持っている。しかし、右派を改革した時、彼の家庭は災難に見舞われた。彼の妻は反右派の時代に自分の恋人が右派にされ、流刑 に処され、僻地へと飛ばされた。若い彼女は、彼と共に暮らせないので、他の人と結婚した。そして、若い時に分かれた恋人が、苦難を嘗め尽くして、やっと故 郷に戻って来た。数人の子供の母親である彼女は、過去においての自分自身の薄情と、彼に対する裏切りの行動を悔やんで、良心に従い、自分が作った罪の償い をするために、今の夫と離婚することを決意した。しかし、突然の異変は彼女の夫――55歳の大学教師にとって、とても耐え難いことであった。夫はそれ故に 精神異常になった。彼は素っ裸で、自分の居場所を捜し求めて外で徘徊するようになってしまった。彼の妻は結局夫と子供のもとを去った。共産党が作った別離 の悲劇は、解読のできない方程式である。ある引き裂きの悲劇を、別の引き裂きの悲劇に取って代え、延々と続く社会にとっての不治の病だ。

家庭は中国社会の基本単位である。伝統文化が共産党文化に対抗する最後の防衛線である。それ故、家庭破壊は中国共産党の殺人歴史に於いて、最も残虐で悪辣な所行である。

仮にある人が批判や攻撃対象になった時、中国共産党はその人にとっての資源を社会から全部断ち切る。その人は直ちに生活の危機に陥り、社会の人々から白い 目で見られ、差別され、尊厳は剥奪される。只、このようにされた人々は全て冤罪を負わせられた人達である。自然と家庭が彼らにとって最も安心のできる避難 場所になる。しかし、中国共産党が取っている連座政策は、家族が互いに慰めることが出来ない。そうでなければ、家族も攻撃対象となってしまう。張志新氏は このように強制的に離婚させられたのだ。大部分の人にとって、身内の背信行為、密告、反発、告発と批判闘争は、まさに正常精神を支える最後の砦が、押しつ ぶされることであり、多くの人がこのように自らの命を断ってしまった。

六 殺人手段及びその結末

(一) 共産党殺人の理論指導

共産党は常に自身のことを吹聴し、創造的にマルクス・レーニン主義を発展させたと自己宣伝するが、実は共産党は古今近来国内と海外のあらゆる邪悪なものを 創造的に発展させたのだ。共産主義の大同思想で民衆と知識人たちを騙し、工業革命を利用して信仰を打ち砕き、徹底的に無神論を広げた。共産主義で私有制度 を否定し、レーニンの暴力革命理論と実践で国家を統治すると同時に、中国文化の伝統と背理した最悪の部分を結び合わせた。

中国共産党は自分で発明したプロレタリア階級独裁下にある「革命」と「継続革命」の理論及び手段をもって世界を改造し、共産党の独裁を保障させている。そ の理論はプロレタリア階級独裁下の経済基礎及び上層建築の二部に分かれている。経済基礎により上層建築が決まり、一方、上層建築はまた経済基礎に反作用を している。従って、特に党の政権を含む上層建築を強化するためには、必ず経済基礎から革命を行わなければならない。それには次のことが含まれる。

1.地主を殺害して農村の生産関係[17]を解決

2.資本家を殺害して都市の生産関係を解決

上層建築に於いても殺人は繰り返されている。目的は意識形態上の絶対的独占を保障させることである。それには次のことが含まれる。

1.知識人が党に敵対する政治的な態度をとる問題を解決する

中国共産党は長期に亘って「知識人の思想改造運動」を起こし、資本家階級の個人主義、資本家階級思想、超政治観点、超階級思想、自由主義などなどを批判し た。洗脳し、心を殺して知識人たちを堕落させる。知識人が持っている自由思想及び優良な品格、例えば「正義のために公平なことを言う」。「正義のために身 を捨てる」。「貧賤でも志を変えない、武力や勢力でも屈服させることはできない、財産や地位に惑わされない」。[18] 「先に国を憂い、民を憂い、国も民も安泰としてから自分を楽にする」。[19] 「天下の興亡については、国民の一人一人に責任がある」。[20] 「君子は成功すれば天下も良くなり、出世しなければ個人の道徳修養のみに専念する」[21]のような伝統は一掃された。

2.中国共産党が文化及び政治における絶対的リーダー権を確立するため、文化大革命で虐殺を行った

党内から党外まで群集運動を引き起こす。文学、芸術、観劇、歴史、教育などの領域から始めた。先ずは全国で何人かを虐殺する。例えば「三家村」[22]、 劉少奇、呉(曰含)、老舎、翦伯賛などの有名人をやり玉に挙げ、「党内の一部分」、「軍内の一部分」へ広げ、全人民が互いに殺害しあうまで発展させた。武 装闘争は肉体を消滅し、文化闘争は魂を消滅させる。それは共産党操縦下の混乱時期であり極度に荒々しい時期でもあった。人間の悪の部分が共産党党内の危機 に触発され、最大限まで引き伸ばされた。個々の人が「革命の名義」を使って、「共産党及び毛主席の革命路線を護衛」の名目で任意に人を虐殺することができ る。これは正に、全人民の人間性を絶滅させる空前絶後の訓練である。

3.文化大革命以降の社会に於ける民主の呼びかけを解決するため、中国共産党は「六四」天安門事件で人々を銃殺した

軍隊が公に国民を虐殺することはこれが最初である。国民が汚職行為に反対し、役人と商人の結託に反対し、制度の腐敗を反対するために上げた声、報道の自 由、言論の自由、結社の自由の呼び声を弾圧するためである。軍隊は互いに牽制させ、軍が人民を憎むようにさせるために、中国共産党は軍隊の車が焼かれ、兵 士が殺される場面をまででっち上げた。そして、人民軍が群集を虐殺する悲惨な事件を引き起こさせた。

4.異なる信仰の人を虐殺

信仰領域は中国共産党にとって最も重要なものだ。中国共産党の歪んだ理論と邪説が世を暫く騙すようにするため、中国共産党は政権を取った初期からあらゆる 信仰体系を消滅し始めていた。新しい時代に於ける精神的信仰―――法輪功(ファールゥンゴン)の修煉者達に対し、中国共産党は再び虐殺用の刀を持ち出し た。修煉者は、「真・善・忍」に基づき、社会において「善い人」になることを目指している。その善良さにつけこみ、「悪いことはしない」「暴動や社会を不 安定にさせることはしない」ことをいいことに、修煉者らへの弾圧を重ね、更に他の全ての信仰団体をも消滅させた。今回は中国共産党の首領江沢民が、自ら先 頭に立ち殺人を指示した。

5.情報隠滅のために殺人

真実を知る権利は、中国共産党のもう一つの弱点だ。中国共産党は情報を封鎖するために人を殺す。過去において「敵のラジオを盗み聞き」すれば、牢獄行きの 罪になる。しかし、今はテレビに真相を伝える割り込み放送に対しては、「その場で殺せ」の秘密指令が出されている。劉成軍さんは、この理由で酷刑を受け虐 待されて死亡したのだ。中国共産党は、ゲシュタポのような組織610オフィス、警察、公安、検察、裁判所及び膨大な警察ネットシステムを利用し、全ての群 集の動きを監視している。

6.私利私欲のために人々の生存権を剥奪

共産党は、実は政権を手放せないのが問題である。それ故、継続的革命論を唱え続けたのだ。現段階では、中国共産党の汚職、公金を着服するなどの内部腐敗は 極まっている。そして、党の絶対的政権と国民の生存権を争う問題までに発展している。国民が法律の範囲内で権利を行使する時に、共産党は又もや暴力を使 い、残虐な「リーダー潰し」を行っている。中国共産党はこのために既に百万人の武装警察官を用意している。「六四」天安門事件の時、正規軍を投入したが、 今では武装警官による殺人の準備をしている。国民に活路がなくなった時、中国共産党が自ら破滅へ歩む時である。その政権は既に草や木まで敵兵に見えるほ ど、ひどく怯えていて、情勢が非常に不安定となっている。

上述を総合して、共産党は本質的に邪悪な霊体で、絶対的に人々を制御するために一時の変化があっても、共産党は過去に於いて人を虐殺し、現在に於いても人 を虐殺し、将来に於いても人を虐殺することがはっきりと分かる。共産党の歴史は変わらないものであるということが分かる。

(三) 状況に応じ異なる殺人手段を使用

1.世論先行

中国共産党はあらゆる殺人方法を用いた。異なる時代には異なる殺人手段がある。大多数の殺人は「世論先行」である。共産党は常に「殺人しなければ民衆の怒 りは抑えられない」と言っているが、まるで国民の要求に応じて殺人したようである。実質上、「民衆の怒り」は、中国共産党が煽り出したものであった。

例えば“白毛女”の劇は、民間の伝説物語を改竄したものであった。劇中に登場する地主“劉文彩”は実在するが、地代を厳しく徴収したり、水牢の拷問なども すべてでっち上げられたもので、人々に地主を恨むように「教育」することが目的だ。この種の「敵」を妖怪化したやり方は今までもずっと用いられて来た。国 家主席でさえ妖怪化することが出来る。法輪功(ファールゥンゴン)に対しても「天安門焼身自殺事件」をでっち上げ、民衆の法輪功(ファールゥンゴン)に対 する敵意を引き起こした。その後、法輪功(ファールゥンゴン)の学習者達に対して、ジェノサイド(集団虐殺)の方法で迫害を加えた。共産党はこのような殺 人方式を改めることなく、情報伝達技術の発達に連れ、ますますエスカレートしている。以前は中国人のみを騙したが、今は外国人までも騙す。

2.群衆を煽動し殺人を教唆する

共産党は自ら殺人を起こすほかに「群衆を煽動し、殺人を教唆する」ことをしている。もし初期において規則法律があっても、群衆の殺人がエスカレートした時には、取り締らなくなる。例えば、「土地改革運動」の時に、一土地改革委員会が地主の生死を決めることが出来るのだ。

3.先ず魂を殺し、そして肉体を殺す

殺人のもう一つの手段は「先ず魂を殺し、そして肉体を殺す」である。過去の歴史に於いて最も残虐な秦の王朝でも、精神を虐殺することはなかった。しかし、 中国共産党は、人にそう言う正義のために、粛然として死に臨むような機会を与えない。「白状した者は寛大に、抵抗する者は厳重に処分する」、「頭を下げて 罪を認めることが唯一の生きる道」しかない。必ず自身の思想と信仰を放棄させ、犬のように何の尊厳もない状態で死なせるのだ。そうしなければ、烈士のよう に正義のために死ぬ気概は、他の人を鼓舞してしまう。卑しい死に方こそが、中国共産党が達成したい、未来の人達に対する「教育」の目的である。中国共産党 が現在残虐極まる迫害を法輪功(ファールゥンゴン)に加えている理由が、法輪功(ファールゥンゴン)は、命より信仰を重んじるからである。彼らの尊厳を打 ち砕けない状態で、中国共産党は彼らの肉体に虐待の限りを尽くす。

4.暴力と甘い餌(アメとムチ)を施しながら殺人する

殺人の過程において、中国共産党は「ニンジンと棍棒」、暴力と甘い餌を同時に用いる。共産党は常に「ほんの僅かな部分を打撃する」と言う。5%の比率に例 え、「大多数の人」が常に良い人で、常に「教育」の対象になる。この種の教育は「恐怖」と「保護」の二つが使い分けられる。「恐怖」とは、共産党と対立す れば必ず悪い結末を迎え、打撃対象の人々とは距離を持つように戒められる。「保護」とは、共産党の信頼を得られれば、党の味方であり、安全が確保され、重 用もされる。もしかしたら、何かの勝利品をも分けてもらえる。林彪は「今日は少し、明日も少し、合わせればたくさんになる」と言った。しかし、一つの運動 を幸いにも安全に避けられた人は、往々にして次の運動における犠牲者となるのだ。

5.「芽の内に摘み取る(芽生えた時に消滅させる)」殺人モデルと「隠蔽された違法殺人」の殺人モデル

今のところ中国共産党は「芽の内に摘み取る」、「隠蔽された違法殺人」という殺人モデルをさらに発展させている。例えば、各地での労働争議や農民の抗争が 増えつつあり、中国共産党は「芽の内に摘み取る」の原則に基づいて、その都度「リーダー」を逮捕し、重刑を加える。また、人権と自由が世界の共通認識であ り、時流となっているので、中国共産党は決して法輪功(ファールゥンゴン)学習者に対して死刑を下さない。しかし、江沢民の「殴打して死なせても当たり 前」の教唆と放任の下、各地で法輪功(ファールゥンゴン)学習者が、拷問によって死亡した悲惨な事件が頻繁に起きている。また、憲法では公民が陳情する権 利を有することに対して、中国共産党は私服警察、甚だしくに至ってはヤクザ、チンピラを雇い、陳情する公民を「阻止」し、逮捕し、強制送還している。更に 陳情する人々に対して、強制労働させることまで起きている。

6.見せしめにする方法の殺人

張志新、遇羅克[23]、林昭[24]などを迫害。

7.殺人はしないと言う口実で殺人事件を隠蔽

国際的に影響力のある人に対し、中国共産党は往々にして弾圧に留まり、虐殺はしない。影で影響力の少ない人達を虐殺するのが目的である。例えば、反革命を 鎮圧する時に、国民党の将校、龍云氏、傅作義氏、杜聿明氏などは虐殺されなかったが、それより以下の官員及び兵士がほとんど虐殺された。

長期にわたる殺人は、人々の魂を異なるものにしてしまった。現在、中国国内では多くの人々が殺気立っている。「9.11」テロ事件が起きた時、中国大陸の ネット上では何と、喝采が起きた。超限戦を鼓吹することも絶えなかった(超限戦とは中国空軍の大佐が唱えた現代の戦争に対する新しい概念で、あらゆる限定 と限界を超えた戦争を意味する。貿易、金融、テロ、ハイジャック、サイバーテロなどすべての場が戦場になるため、民間人をも平気で巻き込む恐ろしい戦争形 態である)。この状態は考えただけでもぞっとする。

結び

中国共産党が情報封鎖しているため、我々は共産党の統治期間中、人々が迫害され死亡した確実な数字は分からないが、上述の例だけでもそれぞれの運動で少な くても6千万人が死亡した。その他、中国共産党は新疆、チベット、内モンゴル、雲南省などの少数民族に対してもの虐殺を行った。しかし、それらに関連する 資料の入手は更に難しい。『ワシントンポスト』の統計によれば、中国共産党が迫害した人々の数は8千万人余りに達している。[25]

迫害致死した人のほか、身体障害者になった人、精神異常になった人、怒りで亡くなった人、恐怖によって死亡した人、ストレスで亡くなった人なども数多くい る。勿論、それについても確実な数字は分からない。一人の死はその人の家族にとって、骨身に染みる、忘れることのできない痛ましい悲劇である。

日本の読売新聞は、一度このような報道をした。中国共産党は全国29の省及び市に対して、次のことを調べ、統計を纏めた。文化大革命に影響を受けた人口は6億人で中国人口の半分を占めている。[26]

スターリンは次のように話したことがあった。「一人の死は悲劇だが、百万人の死は只の数字だ」。李井泉は、四川省において、どれほどの人々 が餓死したことを聞かされても、平然として、次のように語った。「どの時代でも人は死んでいるのだ」。毛沢東は「奮闘をすれば必ず犠牲も出る。人が死ぬと 言うことはよくあることだ」と言った。これが無神論者である共産党の生命に対する態度である。スターリンは、2千万人を迫害し殺害した。これは前ソ連人口 の10分の1を占める。中国共産党は8千万人を迫害し殺害した。これも、中国人口の約10分の1を占める。カンボジア共産党は200万人を虐殺した。カン ボジア人口の4分の1を占める。現在の北朝鮮では餓死した人の数は100万人を超えたと言われている。これらは全て共産党が作った罪悪である。

邪教は人を殺して、その人の血で邪霊を祭る。共産党は設立時から殺人を利用し、外部の 人を殺せなければ、内部の人を殺す方法で彼らの「階級闘争」、「路線闘争」の邪説を奉った。 更に自分達の総書記、元帥、将軍、部長などまでも、邪教の祭壇へと差し出し、生贄として 奉るということまでもやってしまった。

多くの人は、中国共産党に対して、彼らの殺人は以前に比べ控えられているのだから、改善するために時間を与えるべきだと言っている。しかし、例えば一人の 人間を殺害すれば、直ちに殺人犯とされる。広範囲で言えば、虐殺は中国共産党が、テロリズム的統治の目的を達成するための手段の一つである。従って、虐殺 する人の多さは需要によって調整することが出来る。それは「予測不可能」と言うことで表すことが出来る。人々にとって、恐怖をあまり感じない時、多くの人 を虐殺すれば、恐怖心を与えることができる。元々人々が恐怖感を非常に感じている時、小人数の虐殺だけでも、十分にテロリズム的なコントロールが出来る。 そして、人々は知らないうちに怯えている時、中国共産党は虐殺するのだと掛け声を掛けるだけで、人々に恐怖感を与えられる。中国共産党のテロリズムに対し て、条件反射する際、中国共産党は虐殺と言う言葉すら出す必要もない。政府が大批判することを喧伝するだけで、人々の心の底に潜んでいる恐怖感を蘇らせる ことが出来る。

人々の恐怖感が薄れてくれば、中国共産党は直ちに虐殺の調整を図る。従って、中国共産党にとってどれ位の人を殺すのかが目的ではなく、重要なのは、殺人の 一貫性を維持することである。中国共産党は今でも全く温かい心は無く、殺人の刀も下ろした訳ではない。人々が奴隷化されただけである。一旦、人々の政府に 対して求めるものが、中国共産党の容認する限界を超えると、中国共産党は決して容赦はしない。

また、まさに恐怖を維持するために、任意に虐殺することも最も多く使用される手段である。これまでの大規模な虐殺では、わざと虐殺の対象、罪状及び刑罰を 明確にしていないため、多くの人々は自分達がこれからもその対象にされないように、自ら「安全な区域」に身を引く。この「安全な区域」の区画範囲は、時に は共産党が定めたものよりも狭いことがある。これも、何故その都度人々は「左派に傾くことがあっても、決して右派には傾かない」ことの理由である。毎回の 運動の「拡大化」は、その都度人々が、自分を守るために自主的に条件を厳しくしたのが原因である。運動の対象が下の階層へ行くに連れ残虐さも増す。このよ うな社会全体に行き渡る恐怖の自動的な増幅と効果は共産党の任意の虐殺に由来するものである。

長期にわたる虐殺の歴史の中で、中国共産党は変態と化した連続的殺人狂人に変異した。虐殺を通じ、自らがあらゆる大権を手に持ち、生殺与奪が出来る変態的 快感を満足させる。虐殺を通じ、自らの内なる怯えを緩和させる。絶え間なく続く虐殺を通じ、今まで虐殺したことによって生まれた憎しみと不満を弾圧する。 今日に至って、中国共産党は多くの人民を殺害した累々たる血生臭い罪悪について、既に善処するすべがない。故に、共産党は自分が生きている最後の最後ま で、弾圧と独裁を実行し続ける。たとえ、一時に「殺人、名誉回復」などのモデルを採用して惑わすようなことがあっても、共産党の血を好む本質は一度も変 わったことはない。もちろん、将来も変わることはない。




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[1] 毛沢東が妻、江青へ宛てた手紙(1966)

[2] 孔子語録 (論語)

[3] レビ記19:18 

[4] マルクス「共産党宣言」(1848年).

[5] 毛沢東、「人民民主主義独裁」(1949)

[6] 太平天国の乱(1851-1864)。この戦いは、清王朝の軍とキリスト教信者であった洪秀全率いる客家文化の神秘主義グループに共鳴した民衆との戦いであり、中国史上最も血生臭い事件のひとつである。この争いで、少なくとも3千万人の人々が亡くなったと云われている。

[7]香港の雑誌“争鳴”1996年10月号より抜粋

[8] 大躍進(1958-1960)-中国共産党は国内の工業、特に製鋼業を飛躍的に発展させるために率先してキャンペーンを行った。この運動が経済的な大打撃であったことは広く知られている。

[9] 1994年2月、「紅旗出版社」より出版。引用文は、訳者によって訳された。

[10] レイモンドJ、「内部の敵」Guild Books, Catholic Polls, Incorporated (1968) 

[11] 鄭義(Zheng Yi)著:「血のように赤い記念碑」(Scarlet Memorial)(台北中国テレビ公司出版社、1993年は出版)。本書は英語版もあり、「血のように赤い記念碑―現代中国の人が人を食う物語 (Scarlet Memorial:Tales of Cannibalism in Modern China)、T.P.Sym氏によって英語に翻訳、編集され、1998年コロラド州ボールダー市、ウエストビュープレス(Boulder、 Colorado:Westview Press)が出版。

[12] 中国共産党が唱える「旧社会」とは中国共産党が国家を支配した年である1949年以前の中国のことを指す。

[13]「恐怖の拘束服」はジャケットの形をした拷問用の道具である。拘束 された者は両腕をねじられて後ろに縛られ、その両腕を頭の上から胸の前まで引っ張る。この拷問を受けたものはその場で両腕に障害が残る。そして無理やり拘 束服を着せられて腕から宙吊りにされる。その結果、両肩、両肘、両手首と背骨に亀裂が生じ、絶筆に尽くしがたい程の痛みの中で死んでいく。何人かの法輪功 の学習者たちはこの拷問により死亡した。詳しくは:
Chinese: http://search.minghui.org/mh/articles/2004/9/30/85430.html
English: http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2004/9/10/52274.html

[14] 1930年、毛沢東は共産党支配化にある地域において更に自分の権力を集中させるため、党に対して江西省にいる何千人もの党員、紅軍戦士、無辜の民衆を殺すようにという命令を下した。詳しくは:
Chinese: http://kanzhongguo.com/news/articles/4/4/27/64064.html

[15] 王先根(Wang Xiangen)著「ベトナムを援助、米国に抵抗の実録」 (北京: International Cultural Publishing Company, 1990) 

[16] 労改基金会2004年10月12日報告:

[17] マルクス(Marx)が社会階級を分析するために用いた三つの工具(生産用具;生産様式;生産関係)の一つ。生産関係(Relations of production)は生産用具を擁する者とない者との関係を指し、例えば地主と農民、あるいは資本家と労働者間の関係である。

[18] 「孟子」第3集 Penguin Classics series, D.C. Lau. 翻訳

[19] 範仲淹(989-1052) -有名な中国の教育者、文筆家、北宋の高官。この言葉は彼の有名な散文詩、“登岳陽楼記”からの引用。

[20] 顧炎武(Gu Yanwu)(1613-1682の年)著、清朝早期の著名な学者。

[21]「孟子」第7集Penguin Classics series, D.C. Lau.翻訳。

[22] 「三家村」は1960年代の3人の文化人、呉晗、鄧拓、寥沫沙のペンネームである。彼らは新編歴史劇“海瑞の罷官”の著者であり、毛沢東はこの劇を彼と彭徳懐の関係を風刺した政治劇だと考えた。 

[23] 遇羅克は人権派であり文筆家。文化大革命の初期、中国でたくさんの人が殺害され、遇羅克は長編の論文「出身論」を発表し、人権が無視された血統論に対して猛烈な批判を展開し、人々の支持を得た。そのため、文革の執行部に逮捕され、1970年処刑された。

[24]1957年、北京大学マスメディア学部の学生林昭は「右翼」のレッ テルを貼られた学生に同情し、正義を主張したため、長期的に監視された。その後「反革命集団を組織した」という罪名を押し付けられ、獄中で様々な残酷な拷 問を受け、1968年密かに殺害され、遺体も消滅された。

[25] http://www.laojiao.org/64/article0211.html より引用。(中国語)

[26] 「宋美齢の廖承志への公開状」(1982年8月17日)から引用しました。出所:
http://www.blog.edu.cn/more.asp?name=fainter&id=16445 (中国語)


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2013/12/19 16:57|九評共産党TB:0CM:0

 

序文

文化は一つの民族の魂であり、人種や大地などといった物質的な要素と同じく重要な精神要素である。

民族の文明史はその民族の文化発展史でもあり、民族文化に対する徹底的な破壊は、その民族の消滅であるとも言えるだろう。人類の歴史上、す ばらしい文明を創り出した民族は、現在、その人種としてその子孫がまだ残っている.が、民族としてはその伝統的な文化が失われるにつれてだんだん姿を消し てしまった。世界各国を見ると、中華民族は唯一五千年の文明を受け継いでいる。それゆえ、その文化に対する破壊はさらに大きな罪となるに違いない。

「盤古は天地を開く」[1]、「女(じょか)は人間を造る」[2]、「神農は百草を嘗める」[3]、「蒼頡(そうけつ)は文字を造る」[4]などの伝説は神が文化を伝える当初の様子を私たちに伝えている。「人法地、地法天、天法道、道法自然(人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る)」[5]では、天人合一という道家の思想を文化に織り込み、「大学之道、在明明徳(大学の道、明徳を明らめるに在り)」。[6]二 千年前の孔子は初めて学校を開き、儒家思想を代表する「仁、義、礼、智、信」を社会に伝えた。紀元1世紀、「慈悲済度」を訴える仏教は東へと伝わって行 き、中華文化はさらに豊かになった。儒、仏、道三家の思想は互いに照り映し、盛唐時代、世界中の人々からそれぞれの素晴らしさが注目された。

中華民族は歴史上何度も侵略と打撃を受けたことがあるが、私たちの伝統的な文化は非常に強い融合力と生命力を持つため、その精華はずっと後 代に伝わってきたのである。「天人合一」は私たちの先祖たちの宇宙観を表し、「善悪には報いがある」は社会の常識で、「己所不欲、不勿於人(己の欲せざる ところ人に施す勿れ)」は人間の基本的な美徳であり、「忠、孝、節、義」は人々の人柄を為す基準であり、そして、「仁、義、礼、智、信」は人と社会の道徳 を規範する基礎である。このような前提の下で、中華文化には誠(実)、善(良)、そして和(貴と為す)、(包)容などの優れた特徴が顕われた。人々が祭る 「天地君親師」という位牌は、神(天地)を敬い、社稷(君王)に忠誠し、家庭(親)を大事にし、師道を尊敬するという文化が世の中の人々の中に深く植え付 けられていることを示している。中華伝統文化は天と人の調和を追求し、個人の修養を重視し、人々が包容でき、発展でき、人間の道徳が守られ、さらに人々が 正信を持つことができるように、儒仏道家の修煉信仰に基づいている。

人々を強制的に抑制する法律と違い、文化による抑制は柔和的で最も効果的なものである。法律は、罪を犯したら、どのような刑罰を与えるかと いうことを重んじる。しかし、文化は道徳を育成することにより、犯罪を予防するという役割を大いに果たしている。一つの社会の倫理価値観は、その文化を通 し、具体的に反映できたのである。

中国史上、伝統文化がその頂点に達した唐の時代は正に中華という国の国力がその頂点に達した時でもある。当時の科学技術も世界中で最も先端 に立っていた。そのため、欧州、中東、日本から多くの学生が唐の都である長安に留学した。また、唐の周辺の国々は中国を宗主国として見なし、万国からの使 者が中国に訪ねた。[7]秦の時代から、中国もよく少数民族に侵略されていた。その中に、ま た、隋、唐、元、清と他の民族がそれぞれ割拠していた時代もあった。しかし、それらの民族はほとんど漢民族化されたのである。「故遠人不服、則修文徳以来 之(遠きが故に人服せずば、則ち文徳を修するを以って之を来たらしむ)」と孔子が言ったように、これは、伝統文化の強大な同化力の働きであると言えるだろ う。[8]

1949年、中国共産党が政権を奪い取った後、国家のすべてをかけて私たちの民族文化を破壊し始めた。これは、共産党が工業化を進めよう、 あるいは西洋諸国と同等に並びたいという熱意からの行動ではない。そもそも、イデオロギーの面から言えば、共産党の理論は民族の伝統文化とまったく正反対 なものである。共産党の文化への破壊は実に、組織的に、計画的に、かつシステム化されたもので、国家暴力を基礎とするものである。共産党が設立されてから 今までは、中国共産党は中国文化に対する「革命」を停止したことがない。共産党は確かに中国文化の「命」を徹底的に抹消(革)しようとしてきた。

さらに、中国共産党はこっそりすりかえるという方法を使い、古代から今日まで、人々が伝統文化を投げ捨てた後に起こった権力をめぐる陰謀に 満ちた激しい戦い、独裁専制などをさらに広め、彼ら独自の善悪を量る標準や物事の考え方、言語方式を造り出し、人々に「党の文化」は伝統文化の継承である と認めさせた。また、彼らは人々の「党の文化」への反感を利用し、さらに中国真正の伝統文化を放棄させようとした。

これは、結果として中国に災難をもたらした。人々は道徳的な抑制を失っただけではなく、中国共産党に強制的にその邪悪な学説を注入されたのである。

一、どうして共産党は民族文化を破壊しようとしたのか?

(一)源は遠く流れは長いというほどの中華文化──信仰為本道德為尊(信仰を本とし、道徳を尊とする)

中国人の真正の文化は五千年前に黄帝によって造られた。そのため、私たちは黄帝を「人類と文化の祖」と呼んでいる。実は、黄帝は中国道家思想の「黄老之 学」の創始者でもある。孔子は「志於道、据於徳、依於仁、游於芸(道に志し、徳に据わり、仁に依り、芸に遊ぶ)」や、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可 なり」[9]と話したように、儒家思想は道家から強い影響を受けた。また、天地、陰陽、宇宙、社会と人生規律を記述する『周易』は儒家に「群経の首」と呼ばれた。その中の予測学は、現代の科学技術さえできないものである。仏家思想、特に禅宗思想は少しずつ学識者に影響を与えてきた。

儒家思想は伝統文化の中の「世に入る」という部分であり、家庭倫理を重視するものである。そのため、儒家思想の中には、「孝」という考え方がほとんどを占 め、曰く「孝は百善の先と為す」。孔子は「仁、義、礼、智、信」を主張すると同時に、「孝悌也者、其為仁之本歟?(孝悌は、其の仁の本なる歟?)」として いる。

家庭倫理は自然に社会倫理と発展した。「孝」は大臣が君主への「忠」と拡大でき、いわゆる「其為人也孝悌、而好犯上者、鮮矣、(其れ人にして孝悌を為し、而して上を犯す者鮮(すくな)し)」とも話していた。[10]

「悌」は兄弟関係を表し、それは友達の間の「義」へと広げられる。儒家は家庭の中において、父はやさしく(慈)、子供は親孝行を行い、兄は友好的で、弟は 恭しくなければならないと主張している。また、その中の「慈」は君主の大臣に対する「仁」に広げられる。「修身、斉家、治国、平天下(身を修し、家を斉し くし、国を治め、天下を平らげる)」と言ったように、家庭の中の伝統が保たれれば、社会倫理も自然に維持できる。[11]

仏家思想と道家思想は伝統文化の中の「世を出る」という部分である。仏、道教文化は普通の民衆生活への影響が至る所にあるというほど強いのである。道家思 想と深く関係しているのは、漢方医学、気功、風水、占いがある。そして、仏家の天国地獄、善悪に報いがあるなどという思想や儒家倫理を加えて、中国伝統文 化の核心を構成したのである。

儒、仏、道、この三種類の信仰は中国人に一つの極めて安定した道徳体系を造り上げたのである。「天が変わらなければ、道も不変である」。[12]この道徳体系は社会が存在し、安定でき、協和できる基礎である。

精神的な面から言えば、道徳はとても抽象的であるが、文化は人々にその道徳体系を分りやすく表現するという重要な役割を担っている。

中国に有名な書物が四冊ある。『西遊記』[13]自身は、神話である。『紅楼夢』[14]の冒頭の大荒山無稽崖で空空大士、渺真人や通霊宝玉の間の対話は、同作品における多くの謎を解く鍵である。『水滸伝』[15]の冒頭では、「洪太尉が誤って妖邪に走った」と話した。この神話は水泊梁山の百零八将軍の由来を説明している。『三国演義』[16]では始めに、天災が警告を示し、また、最後に「紛紛世事無窮尽、天数茫茫不可逃(紛紛たる世事は無窮にして尽きず、天数茫茫として逃がれる可からず)」いう天命観で結論を結んだ。また、『東周列国誌』[17]や『説岳全伝』[18]などはみな同じような物語で始めている。

これは、決して作者達が言い合わせたかのように書いたのではない。それは中国の学識者の自然界や人生に対する基本的な認識が同じだからである。彼らの作品 は後代の人々に大きく、しかも強い影響を与えた。そのため、中国人が「義」について話すとき、どのように「義」を解釈するかを考えるのではなく、「義薄雲 天(義薄くして天に雲)」と言う関羽(『三国演義』の人物)や、そして、彼に関連する「屯土山約三事(土山を屯して、三事を約す」、「白馬之囲(白馬の囲 い)」、「五関を過ぎ、六将を斬る」、「華容道」、最後に麦城で失敗して、「義不屈節、父子帰神(義節に屈せず、父子神に帰す)」などの物語を思い出すの である。「忠」について話すとき、自然に岳武穆が忠誠に国のために戦ったこと、諸葛亮「鞠躬盡瘁,死而後已(献身的に力を尽くし,死ぬまでやりぬく)」な どの物語を思い出すのである。

伝統的な価値観の中で「忠義」に対する賛美は作家たちが書いたすばらしい物語を通じ、人々の前に完全に現れている。抽象的な道徳説教は、文化の方式によって具体的に、また形象化された。

道家は「真」を、仏家は「善」を、そして儒家は「忠恕」、「仁義」、「外略形跡之異、内證性理之同、……無非欲人同帰於善(外略形跡異なれども、内証性理は同じ・・・人欲せずとも同じく善に帰す)」を重んじる。[19]これはまさに「儒、仏、道」の信仰に基づく伝統文化の最も価値のある部分である。

伝統文化の中で「天、道、神、仏、命、縁、仁、義、智、信、廉、恥、忠、孝、節」などを貫いている。おそらく文字を読めない人は多くいたかもしれないが、 彼らは伝統的な演劇や評書などの文化形式を通じ、伝統文化から価値観を得ることができた。従って、中国共産党による文化の破壊は、直接に中国人の道徳を破 壊し、社会を安定する基礎を破壊したこととなる。

(ニ)共産党の邪説は伝統文化と対立している

共産党の哲学は、中国真正の伝統文化と正反対である。伝統文化は天命を敬い畏れる。孔子は「死生有命、富貴在天(死生は命に有り、富貴は天に在り)」と考えている。[20]仏 家と道家思想は有神論であり、生死は輪廻し、善悪に報いがあると信じている。共産党は無神論を信じているだけではなく、無法無天と主張している。儒家は家 庭倫理を重んじているのに対して、共産党は『共産党宣言』の中で、家庭を消滅させるよう明確に書かれている。また、伝統文化では「明夷夏之辨(夷と夏の弁 え)((民族共存の教え))」と教えているが、『共産党宣言』は『民族消滅』と鼓吹している。儒家文化は「仁者は人を愛する」との教えに対し、共産党は階 級闘争を主張する。儒家の君王に忠誠し国を愛するという主張に対し、「祖国消滅」と『共産党宣言』の中に書かれている。

共産党は中国において確固とした政権を確立するため、まず人々の倫理思想を破壊しなければならなかった。毛沢東は「一つの政権を倒すために、まず世論を造り出さなければならない。つまり、イデオロギーの面でまず何かのことをしなければならない」と話した。[21]中 国共産党はそれをかなり理解しているようである。共産党の暴力的な理論は、武力に支えられており、西洋思想のゴミのようなものであり、中国の五千年の奥深 い伝統文化と対抗できないため、共産党は徹底的に中華文化を破壊したのである。そのため、マルクス・レーニン主義が中国の政治舞台に躍り出ることが出来た のである。

(三)民族文化は中国共産党の独裁を阻む 毛沢東は以前、「私は傘をさす僧侶である―無法(髪)(中国語では、髪と法の発音が同じ)無天だ」と話したことがある。[22]民族文化の存在は間違いなく、「無法無天」である中国共産党にとって最も大きな障碍だったであろう。

伝統文化の中の「忠」は決して「盲目的な忠」ではない。人々から見ると、皇帝は「天子」であるが、その上には「天」がある。皇帝は常に正しいとは限らない ので、そのため、皇帝の誤りを正す大臣や官員を必要とするのである。また、中国には史官が皇帝の言行を記録する信史制度があった。士大夫は「帝王の師と為 す」、皇帝の言行が良いか悪いかは儒家経典によって量られていた。また、人々は無道な皇帝を倒すこともできる。例えば湯が桀を伐ち武王が紂を伐ったことは 伝統文化の観点からも不忠不義には当たらず、大逆不道でもなく天に替わって道を行ったことになる。[23]文天祥[24]が捕虜となり宋朝の皇帝自ら降伏を勧めたがこれを聞かなかった。儒家では「民を貴と為し、社稷は之に次ぎ、君を軽と為す」と説くからである。[25]

これらのことは独裁中共にとって許されないことである。彼らは「主要な人物を神格化しよう」(即ち、個人崇拝)と願い、自分の上に存在する伝統文化の中に ある「天、道、神」などのものに束縛されたくなかった。それは、伝統文化での共産党の言行を量れば、全部極悪なものであり、伝統文化が存在する限り、人々 はその「偉大さ、光栄さ、そして正しさ」を賞賛しない。学識者たちは「命を捨て義を取る」[26]、「君を軽と為し、民を貴と為す」などの価値観を残せば、彼らに従うことをしないので、全民が「思想統一」することはないだろうと共産党自身も分かっていたのである。

伝統文化の天と地への敬畏は、中国共産党が天地と戦うための障碍である。伝統文化の中の「人命は天に関係している」という考え方は命を大切にすることを訴 えている。しかし、これは中国共産党の「集団虐殺」による恐怖統治を阻む。伝統文化の「天道」は道徳善悪を量る最終基準である。しかし、共産党には道徳を 解釈する言葉はない。そのため、中国共産党は伝統文化が彼らの政権維持にとって最大の障碍であると見なした。

(四)伝統文化は中国共産党の執政合法性に挑戦する

伝統文化の中には「有神論」と「天命論」を含んでいる。「天命」を承認すれば自分が「有道明君」であり、「奉天承運」を行っているとの証明になる。「有神 論」を承認すれば、まず「君の権力は神から授けられた」と認めなければならない。また、中国共産党の執政理論は「救世主など存在しない。人類の幸福を創り 出すのは、神仙や皇帝に頼るのではなく、私たち自分自身に頼るべきだ」と話している。[27]

中国共産党は「歴史唯物主義」を宣伝し、「共産主義」は「人間天国」であると宣揚した。また、この「人間天国」へ導くのは「無産階級先鋒隊」である共産党の指導である。有神論を認めれば、中国共産党の執政合法性に挑戦することとなる。

ニ 共産党はいかに伝統文化を破壊したか

中国共産党のすべてはその政治行政に使われていた。その暴政を維持し固めるために、共産党は邪悪な党性で人性を「偽、悪、争」という党文化により、中国伝 統文化と入れ換えた。この種の破壊と入れ換えは、文化遺跡や古書などの目で見えるものだけではなく、人の行為や思想、生活スタイルなどの面から、人々の伝 統的な価値観、人生観、世界観を変えた。しかし、一方、彼らは伝統文化の重要でない部分を「精華」と呼び、保留してきた。その「精華」を表面の飾りとし、 その中身に共産党文化をこっそりすりかえ、「中国の伝統文化を承継し発展する」というスローガンを揚げ、国際社会と人々を騙してきた。

(一)三宗教を同時に滅亡させる

伝統文化は儒、佛、道という三家の思想に基づくものなので、中国共産党が文化を破壊するまず第一歩は文化の具体的な体現である宗教を取り除くことである。

三教は歴史上、何回も破壊を受けたことがあった。例えば、佛教は歴史上、四回の大法難とも呼ばれる破壊を受けたことがある。歴史はこの四回の法難を「三武一宗」が仏を滅すると呼んでいる。北魏太武帝[28]と唐武宗[29]は道教を興すために佛教を滅したのである。北周武帝[30]も道教と佛教を共に滅したが、儒教を尊んだ。また、周世宗[31]は仏像を壊し貨幣を作るために佛教を滅したが、儒教や道教には何も触れなかった。

しかし、中国共産党だけが、この三つの宗教に対し滅亡させようとしていた。

中国共産党が政権を確立した当初、すでに寺を壊し経典を燃やし、僧侶や尼を強制的に還俗させたほか、他の宗教施設の破壊もずっと止めなかった。60年代には、中国の宗教施設はもうほとんど残っていなかった。文化大革命の時、「破四旧」[32](思想、文化、風俗、習慣の破壊)は宗教や文化への更なる災難であった。

例えば、中国最初の佛教寺院は洛陽にある東漢時代のはじめに建てられた白馬寺[33]であ り、「釈教の源で祖庭である」と呼ばれた。「破四旧」の時、白馬寺は同じく悲惨に破壊された。「寺院の隣に白馬寺生産大隊があった。党支部書記は革命をす ると言って、農民たちを白馬寺に連れて行き、千年前の遼の時代に土で造られた十八羅漢の像を壊し、二千年前にインドの僧侶が持ってきた貝葉経[34]を 燃やしただけではなく、稀世の宝とも呼ばれる玉の馬をもばらばらに壊した。数年後、カンボジアの亡命君主であるシアヌークから白馬寺へ参拝を希望され、周 恩来は慌てて命令を下し、北京故宮にある貝葉経と北京郊外にある香山碧雲寺から、清の時代に造られた十八羅漢を洛陽に運んで、やっとこの外交難題を解決し た。[35]

1966年5月、“文化大革命”[36]が始まった。この「革命」は確かに中国文化の命を革めることである。同年8月以降、「破四旧」の動きは中華大地の隅々まで広まった。寺院、道観、仏像、名勝遺跡、字画、骨董などは「封、資、修」として紅衛兵[37]たちが主に破壊する対象となった。例えば、仏像だけでも、北京の頤和園[38]万寿山にある一千尊瑠璃で造られた仏像の彫刻は、「破四旧」が終わった後、仏像は傷だらけになっていた。首都の北京がこのような状況であるから、他の地方も同じような状況となっていたに違いない。「山西省代県にある天台寺[39]は 千六百年前の北魏太延の時代に造られ、その彫刻や壁画はとてもすばらしく珍しいものであった。この寺院は遠くの地方に位置しているにも関わらず、「破四 旧」の関係者は当地へ行き、寺院にある仏像の彫刻や壁画を壊した。……陝西省の周至県県内に二千五百年前に老子が生徒に経文を教え、そこで道徳経を書いた という楼観台がある。……老子が当時経文を講じた「説経台」を中心とし、そこから十里[40](中国の距離を測るのに使う単位)以内には五十ヶ所の遺跡があるという。その中に、千三百年前に唐高祖李淵[41]が 老子のために建てた「宗聖宮」がある。しかし、楼観台などの遺跡は破壊され、道士たちは強制的にその場から退去させられた。道教の規則によると、道士は出 家後、髭を剃ってはならず、髪の毛も切ってはいけないという。しかし、多くの道士は無理やりに髪の毛を切られ、道士の服を脱がされて、人民公社[42]の 社員にされた。さらに、当地の農家の娘婿となったのである。……道家聖地とも呼ばれている山東省ラォ(山へんに勞)山にある太平宮、上清宮、下清宮、闘姆 宮、華厳庵、凝真観、関帝廟などは「神像、祭器、経文、文化遺品、廟の牌は、皆焼却された」という。……吉林市の文廟は全国四大孔廟の一つであるが、「破 四旧」により深刻な破壊を受けた。[43]

(ニ)法の特殊な破壊方法

レーニンは「最も簡単に要塞を攻め破るには内部から始めることである」と言った。中国共産党はマルクスとレーニンの後継としてよくこの言葉を理解している。

釈迦は『大般涅槃経』[44]の中で、彼が涅槃後、魔王が僧侶や尼僧に生まれ変わり、男女居 士と一緒に仏法を壊乱すると予言した。私たちは釈迦佛が具体的にどのような事を指しているか分らないが、しかし、中国共産党の佛教に対する破壊は僧侶から 始まったのである。その時、共産党はスパイを寺院に送り込んでいた。文革のある批判会で、ある人は当時の中国佛教協会副会長である趙樸初に「あなたは共産 党員だが、なぜ佛教を信じるのか」と非難した。

釈迦佛は「戒、定、慧」を通じ、無上の正等正覚に成就できたのである。それゆえ、涅槃に入る前、弟子たちに「護持禁戒。勿得虧犯。(禁戒を護持せよ。虧犯 を得ること勿れ)と教えた。また、「破戒之人、天龍鬼神。所共憎厭。悪声流布。……死即随業受地獄苦。経歴劫数、然後得出。復受餓鬼畜生之身、如是転転無 解脱期(破戒の人、天竜鬼神所共に憎み厭う。悪声流布す。・・・死すれば即ち業に随って地獄の苦を受け、劫数を経歴し、然る後に出を得る。復び餓鬼畜生の 身を受け、転々として解脱の期無きが如し)」と警告した。[45]

しかし、仏の警告は政治僧侶に無視された。1952年、中国大陸で「中国仏教協会」が設立された時、中国共産党は官員を派遣した。会議中、多くの信者は佛 教にある厳しい戒律が多くの若い男女の命を奪ったので、それらの戒律は取り除かれるべきだと主張した。さらに「信仰の自由、僧侶と尼僧は結婚すべきで、酒 を飲むことや肉を食べることは自由にするべきだ」と主張する人もいた。当時の会議に出席した虚雲法師は、戒律を変えられれば佛教は滅亡するということが分 かっていたため反対し、そして佛教の戒律や僧侶の服装を維持すると主張した。しかし、それによって虚雲法師は「反革命」の無実の罪を負わせられた。彼は方 丈室に監禁され、食べ物も与えられず、トイレに行くことも許されなかった。さらに、「黄金、白銀や什器などを出せ」と法師に強要した。虚雲法師が「持って いない」と答えると、軍部らは頭部から出血させ骨を折るほど激しく殴り、法師を床に倒した。翌日、法師がまだ死んでいないことが分かり、さらに残酷に殴り 始めた。当時、虚雲法師はすでに112歳だった。

1952年に成立した中国仏教協会と1957年に成立した中国道教協会は、その発起書の中に「人民政府の指導の下」、つまり「無神論」を持つ共産党の指導 の下で活動をすると明白に声明した。また、両協会は積極的に生産建設に参加し、徹底的に政府の政策を貫こうと話した。これは完全に世俗化された組織であ る。精進し戒律を守る出家の人々は逆に反革命分子とされ、「仏、道教の集団を浄化しよう」というスローガンの下、彼らは監禁され、労働改造され、しかも処 刑されたのである。甚だしくに至っては、西洋から伝わってきたキリスト教とカトリック教も同じようなことをされた。「1958年出版した『中国共産党が如 何にキリスト教を迫害したか』の中の統計によると、大陸の聖職者の中で「地主」「悪覇」という罪を負わされ、殺された人は、8840人にも達し、労働改造 をされた人は39200人、「反革命」分子として殺害されたのは2450人、その罪で労働改造をされたのは24800人にも達した。[46]

宗教は世を出る修行をする法門であることは明確であり、「彼岸」と「天国」を重んじる。釈迦はインドの王子であったが、静かに解脱[47]で きる方法を求めるために、王位を放棄し、森に入って苦修をしていた。イエスは成就する前に、サタンは彼を山まで連れて行った。そこで、サタンは天下の宝を 指してイエスに見せ、しかも「もしあなたが私に屈服すれば、私はこれらのものを全部あなたに与える」と言ったが、イエスはそれらの誘惑に騙されなかった。 しかし、中国共産党に協力した政治僧侶、政治牧師らは「人間佛教」「宗教は真理であるが、社会主義も真理である」と多くのでっちあげを作り、「此岸と彼岸 とは矛盾していない」というような言い方をする。彼らは、出家の人はこの世での幸福と富を追求するよう進め、従って、宗教の教義と内涵を変えた。

佛教は殺生を禁止する。中国共産党は「鎮反」[48]の時、数え切れないほど多くの人を殺した。政治僧侶らは「反革命者を殺すのが一番大きな慈悲である」といい、しかも、「朝鮮戦争」[49]の時、僧侶を直接戦場に送り込み殺生させた。

また、キリスト教を例にあげると、呉耀宗[50]が1950年に「自治自養自伝」と言う「三 自」教会を設立し、「帝国主義」を徹底的に離れ、積極的に「抗美援朝(抗米援朝)」(即ち、朝鮮戦争である)に参加しようと主張した。彼の友人が「三自教 会」への入会を拒否したため、二十年もの間監禁された。そのなかで、友人は多くの拷問にあった。友人は呉に「イエスの行い、神跡をどのように考えている か」と聞いた。呉は「私はこれらのものを全部捨てた」と言った。

イエスの神跡を認めなければ、イエスの天国を認めないことになる。では、その人はキリスト教の信者であると言えるだろうか? 呉耀宗はその後三自教会の創始者から政府の高官となった。彼が人民大会堂[51]に入った時、イエスのおっしゃった「心を尽くし、品性を尽くし、意を尽くして、あなたの上帝、主を愛してください。これは、命の中で第一のことで、最大のことであろう」「上帝のものは上帝に帰する。カエサルのものはカエサルに帰する」をきっと忘れたに違いない。

中国共産党は「寺院を没收し、洗脳を強化するため僧侶や尼僧にマルクス主義の勉強を強い、さらに僧侶と尼に肉体労働をさせた。例えば、浙江省寧波市に『佛 教工場』があった。その中に、25000人ほどの僧侶と尼が重い肉体労働を課させられた。さらに、中国共産党は僧侶や尼に結婚させようとした。これは佛教 信仰を完全に破壊した。例えば、1951年3月8日の婦人節の前、湖南省長沙市の婦人連合会は、全省の尼僧は決められた数日間の内に結婚するよう命令し た。そして、若い僧侶は軍に入れられて、戦場まで送られたのである。[52]

中国の各種の宗教団体は、中国共産党の暴力の弾圧によって完全に崩壊した。佛教界、道教界の真の修煉者は弾圧され、残りの人たちは還俗した。また、袈裟[53]、道士や牧師の服装を着ている偽者がたくさんおり、彼らは隠れた共産党員であり、佛教経典、道蔵、聖書を歪め、これらの経典の中に中国共産党が運動を行う理屈を探し出していた。

(三)文物を破壊する

文化遺産への破壊も中国共産党が伝統文化を破壊する重要な一部分である。「破四旧」において、多くの学識者が保存していた古本書や書画が燃やされたり、紙 くずのように破られたりしていた。章伯鈞の家には一万冊の書物を収蔵していた。しかし、これらの書物は紅衛兵たちによって彼らの体を温めるために燃やさ れ、また一部の書物は造紙工場に送られて、紙糊となった。「字画の『神医』と呼ばれる高度の技術を持ってすばらしい書画を修復できる洪秋声さんは、宋徽宗[54]の山水画、蘇東坂[55]の竹、文徴明[56]と唐伯虎[57]の 画などを修復していた。何十年もの間、彼が修復した古代の字画は数百件もあった。これらは全部国家一級収蔵品である。彼が大変な努力をして収蔵できた有名 な書画は、『四旧』と勝手に決め付けられて、火をつけられて燃やされた。その後、洪さんは涙を流して『百斤の書画が、長い間燃えていた』と言った。[58]

「人事有代謝、往来成古今、江山留勝跡、我輩復登臨……(人事代謝有り、往来古今成る、江山勝跡を留め、我輩復た登臨す・・・)」[59]

もし現代の中国人が歴史のことを少し思い出せば、孟浩然のこの詩をうたう時、違った味わいを感じるだろう。

「江山勝跡」は「破四旧」の時に壊され、しかも消えてしまったのだ。王羲之[60]が書き残し、千年も伝わってきた『蘭亭集序』[61]中の蘭亭は破壊されて、さらに王羲之の墓まで壊されたのだ。呉承恩[62](『西遊記』の著者)の生家も壊され、呉敬梓[63]の安徽故居も破壊された。蘇東坡が石碑に『酔翁亭記』[64]を書いたが、その石碑は紅衛兵らに倒されて、石碑上の字もナイフで削られた。

これらの中華文化の精華は数千年を通して積み重ねられてきたものである。一旦壊されると永遠に復旧できないだろう。しかし、中国共産党はその「革命」とい う口実で簡単にすべてを破壊した。私たちは以前、八国連合軍が「万園の園」である圓明園や、その中の巨著とも呼ばれた『永楽大典』[65]などを完全に燃された事実を聞いて嘆くが、中国共産党の破壊は侵略者たちの破壊と比べてより広く、より長く、より徹底的に行われていた事事を夢にも思っていなかった。

(四)精神面での破壊

中国共産党は物質面で宗教や文化を滅亡させようとした以外に、精神面でも信仰や文化への認識をできれば取り除こうとしていた。

例えば、中国共産党が回民族(イスラム民族)の習慣が「四旧」に属すると言い、強制的に回民族の人々に豚肉を食べさせようとした。しかも、回民の農家やモ スクの管理者に豚を飼わせ、各家庭は毎年ニ頭の豚を政府に渡すようにと命令した。しかも、紅衛兵らはチベット仏教のパンチェン・ラマに人の糞便を食べさせ た。さらに、ハルビンの最大の近代寺院である極楽寺の三名の僧侶に「何が佛教経典だ。全部でっちあげだ!」と書いた看板を持たせた。

1971年、林彪が逃げ出し、彼の乗っていた飛行機がオンドルカンで落ちた後、毛家湾で探し出した孔子語録は再び、全国的に孔子を批判する運動を起こした。「梁効」[66]が雑誌「紅旗」で発表された「孔丘という人」の中で、孔子を「虚偽でずるい政治詐欺師だ」と形容し、その後孔子を批判する漫画そして歌まで出てきた。

宗教と文化の荘厳と神聖は少しも残されず消されたのである。

(五)一人ひとりに及ぶ破壊

中国古代において、地方に対する中央の管理は県レベルまでで、それ以下はすべての管理をそこの宗族に任せていた。だから、始皇帝[67]の 焚書坑儒や、三武一宗の滅仏は上から下までの運動で、徹底的なものではなかった。その時、仏、儒の書物や思想は世の中に広く生存できる空間もあったからで ある。しかし、思春期の学生が中国共産党の煽動を従い行った「破四旧」は「自発情熱」からの草の根運動だった。当時社会を厳しくコントロールするために、 「それぞれの村に党の支部」が設置された。この「革命」を全国の隅々まで広め、一人一人に衝撃を与えた。

同時に、共産党のように、人々の心から最も神聖なもの、最も美しいものを取り除くために、暴力以外に歴史上でっちあげや人をひどく罵った皇帝は誰もいなかった。イデオロギー上の消滅は、単純に物質を消滅することよりさらに効果的で、より長く続けられるのである。

(六)学識者たちの改造

中国の漢字は五千年の文明の精華を集めたものである。字の形、字の発音や字で組み合わせられた熟語、物語は私たち民族の深い文化の内質を表している。中国 共産党は漢字を簡体化させた他に、ピンイン化を進めようとして、言語文字の中から文化にあるすべての伝統を取り除こうとしていた。その後、この計画は全く 実現されず、取りやめられた。しかし、伝統文化を受け継いだ学識者たちはそれほど幸運ではなかった。

1949年までに、中国にはおよそ200万人の学識者がいた。彼らの中に、西洋に留学した経験を持つ人がいるが、ほとんどの人はやはり儒家思想を受け継い だ。中国共産党は彼らを許さなかった。彼らは「士大夫」と呼ばれる階級の人で、彼らの思想は世の中の人々に大きな影響力を持っていた。

そのため、1951年9月、中国共産党は北京大学から一つの熱烈な学識者への「思想改造運動」を始めた。また、その基礎の上に、学識者に対して「まじめに以前の運動経歴を報告し、その中の反革命者を粛清しよう」と要求した。[68]

毛沢東は学識者を一番嫌っていた。彼は「彼たちは一つの真理を知らなければならない。それは、いわゆる学識者は実に一番無知な人であることだ。労働者と農民の人々が持っている知識はときに彼らより多いのだ。」[69]と、また「まだ改造されていない学識者を労働者や農民と比べ、学識者たちは精神だけではなく、その体もとても汚いのだ。手は黒くて、脚に牛の糞がついているかもしれないが、最もきれいなのはやはり労働者と農民だ」と話したことがある。[70]

中国共産党の知識人に対する迫害は、様々な形式の大批判会から始めた。1951年「行乞辨学(武訓は乞食をして集めたお金で学問所を開設した)」を主張する武訓[71]を 批判していたのをはじめ、1955年毛沢東が自ら胡風を反革命として定めるまでは、学識者たちはまだ大規模に弾圧を受けていなかった。しかし、1957年 にいくつかの伝統的な宗教への破壊がほぼ終わったころから、中国共産党はすぐに学識者に対する迫害を始めた。これが有名な「反右闘争」である。

1957年2月末、中国共産党は「百花齋放、百家争鳴」と言うスローガンを出して、学識者に対し政府に意見を出すようすすめた。しかも、提案する人は「言 者無罪」と言った。学識者たちは、中国共産党の起こした鎮反や粛反などの運動、そして政府が自分たちが全く分らないのに、科学、哲学、文化芸術などの領域 にむりやり命令を下したり、正しくない政策を建てたりしたことに対する不満を持っていたため、政府の「意見を言いなさい」という言葉を聞き、政府はこれか ら真剣に自分たちの話に耳を傾けてくれると信じ、以前自分達が言えなかったことをすべて話し出した。

歴史が過ぎた今、毛沢東が反右闘争を起こしたのは、学識者の言い過ぎた意見に腹をたて、反撃するようになったと思う人がたくさんいるが、事実はそうではない。

毛が1957年5月15日に書き、党内の高いレベルにいる官員たちが読み回った『物事は変化している』という一文の中に、「最近この一時期、右派はかなり 気ままに行動している。彼らは中国で7度以上の台風のような激しい運動を起こし、共産党を滅亡させようとしている。」と話した。[72]そ れから、「大鳴大放」に興味がなかった各レベルの党の幹部はすぐ熱心に学識者たちの意見に耳を傾けるようになった。章伯鈞の娘が書いた『往事は煙のような ものではない』という回想録の中で、中国共産党統戦部部長の李維漢は自ら章伯鈞に電話をかけて、整風交流会に参加するよう招いた。章伯鈞が来てから、李維 漢は章を一番前にあるソファーに座らせた。章はこれが陰謀だと分らず、自分の意見をたくさん話した。「李維漢は父の話にうれしそうな様子だった。父は微笑 む李を見て、たぶん自分の意見に李も共感しているからだと思っていた。しかし、父が知らなかったのは、李は父に負わせる口実を見つけたから、微笑んでいた のだ。」と記述した。章伯鈞はその後中国のナンバーワンの右派とされた。

この年、文書や講演で発表された批判や提案を見てみよう:章伯鈞の『政治設計院』、5月21日提出した;龍雲の『反蘇謬論』、5月22日提出;羅隆基の『平反委員会』、5月22日提出;5月30日林希は 北京大学で講演会を行った、題名は「中国共産党の封建社会主義を批判する」;呉祖光の『できれば党はあまり早く芸術界を指導しないように』、5月31日提 出;儲安平之『党天下』、6月1日提出。これらの文章はすべて毛が自分の文章を書き、根回しした後、発表された。つまり、意見を表明したものはすべてわな にはめられたのだ。

彼らは直ちに「右派」とされた。このような「右派」は全国で55万人にも上った。

中国伝統文化には、「士は殺してもいいが、決して恥ずかしめてはいけない」という精神がある。しかし、中国共産党は学識者に対して恥ずかしめるだけではな く、その恥を受けなければ、食べ物すら与えない。さらに、その人たちの子供も親たちと一緒に恥ずかしめられた。そのため、多くの学識者は屈服し妥協した。 また、自分を守るために、他人を暴露するようになった。実に、これらのことは人々の心をひどく傷つけた。一方、迫害をされても妥協しなかった学識者たちは 本当に殺されたのだ。

このように、伝統社会の道徳の模範でもあった「士」階層は消えてしまった。

毛沢東は「始皇帝もたいしたことはない、彼はただ460人の儒生を生きたまま埋めただけだ。しかし、私たちは46000人の儒生を生きたまま埋めたのだ。 私たちの鎮反(反動分子弾圧)は、反革命の学識者を殺した。私は民主主義を訴える人と論じたことがある。彼らは私たちを始皇帝だと罵っている。それは違 う!私たちは百倍も始皇帝を超えている」と言った。[73]

実は、彼は、儒生を殺しただけではなく、最もひどいのは、毛は彼らの信仰と心を殺したのだ。

(七)根本からすり替えられた表面文化

中国共産党が改革開放を実施してから、多くの寺院、道観、教会を建て直した。国内で祭りを行い、海外で文化祭を行った。これは実に、中国共産党の伝統文化 に対する最後の破壊と利用である。中国共産党は、人々の中にある「善良」を切り取ることができない。これは共産党の党文化を破産させられるのである。ま た、共産党は伝統文化を利用して、その「偽、悪、闘」という邪悪な本性を隠そうとしていた。

文化の根本はその道徳的内質であり、単に娯楽ではない。共産党は文化の表面にある娯楽の働きを回復させて、道徳が破壊された後の実質を隠そうとした。共産 党はいくら書画、骨董の展示会を開いても、獅子舞のある文化祭や特産物フェアーを開催しても、あるいは、すばらしい古典建築を建てても、これはただ単に表 面文化を回復させただけで、伝統文化の精華ではない。同時に、これらのイベントを通じて、海外に共産党の文化への認可を強めようとしただけである。実に、 かれらにとって、その権力と中国における統治を維持することが一番大事なのである。

例えば、寺院はそもそも静寂で出家の人が仏を拝み、修錬する場所であり、あるいは、世の人々が懺悔するところでもある。修行するには、静けさと無為を重ん じる。懺悔するにも、荘厳な環境が必要である。しかし今、経済の発展につれて、寺は旅行名所となった。今寺院に足を運ぶ人の中で、精進潔斎してから、仏を 敬う心を持って、自分の過ちを反省するために来た人は何人いるだろうか?

表面文化を回復し、その本質を破壊する。これは正に、共産党が人々を騙す戦略である。佛教や他の宗教や文化はすべて共産党によって滅亡させられた。

三 党文化

共産党は伝統の半神文化を破壊しながら、政治運動を通じて、自分たちの党文化を作り上げた。党文化は年取った世代を改造し、若い世代に害毒を与え、さらに 幼い世代に影響を与えた。その影響力は極めて深く、極めて広いものである。多くの人が共産党の本質を暴露しようとする時でさえ、共産党の善悪標準、考え 方、話し方を使う。

党文化はマルクスー・レーニン主義という外来文化に影響されていること以外に、中国人の数千年来積み重ねてきたよくないものも受け継いだ。例えば、宮廷闘 争、私利のために勢力グループを結合すること、人を打倒すること、人を騙して物事の本質を別のものとすり換えることなどがある。それらにまた、共産党の暴 力革命、階層闘争哲学を加えた。共産党は生き残るために、この数十年あまり「偽、悪、闘」と言う特徴を絶えず発展させた。

党文化の性質は専制と独裁である。共産党はその政治闘争、階級闘争をするために、主に四つの面から「人文」環境の専制を始めた。

(一)統治の面

1.封閉文化

共産党文化は封鎖的、独占的であり、思想、言論、結社、信仰などの自由はない。党の統治は人々への圧制と封閉で維持されている。一つの漏れがあれば、その統治システム全体が崩れてしまう。もし、「六四」天安門事件[74]の 時、学生が政府との対話が許されれば、他の労働者や学識者、軍隊の人たちが皆政府と対話したい、と言って来るかもしれない。そうなると、中国は民主主義に 変わるので、党の独裁統治ができなくなる。だから、彼らはたとえ人を殺しても、人々との対話を避けた。今、彼らはインターネットによる通信手段を封鎖して いる。それは、人々に共産党が見てほしくないものを絶対に見せないためである。

2.テロリズム文化

共産党が中国における政権を開始以来、絶えずテロリズムで中国の人々を苦しめてきた。かれらは、むちと人を殺す刀を用い、さらに人に災難を 与える方法で、人々の行動を「正した」。人々は恐怖の中で、やむを得ず「おとなしくなった」のである。かれらは、一人を殺して他人に見せしめにするという 方法で、民主運動家、自由思想家、共産党の体制を疑う人、また信仰を持つ各種団体を、厳しく弾圧している。

3.ネット上の監視文化

中国において、すべては党のコントロールの下におかれている。戸籍管理制度、街道住民委員会制度(即ち、各コミュニティーが当地の管党委員 会によって管理される制度)、各階層の党委員会がある。また、計画生育委員会もある。中国では、「各村において党の支部がある」とか、「党、共産党青年団 の生活をしよう」とか、「包保責任制度を固く貫く(官職の上の人が下の人に対して、『その人が党に対して何も怪しいことはしない』と言う保証をさせ責任を 持たせる制度である。もし、下の人が本当に党に対する反対思想を持っていれば、彼だけではなく、その上の人まで処罰されるのである)責任追及制度」とか、 「610オフィス[75]の監督課は、不定期に各地、各政府機関を監察する」ということをよく耳にする。

4.連座文化

「地主、金持ち、反共産党者、悪い人、右派とされる学識者」の家族に対して、共産党は「出身論」[76]の 提出から今日の「リーダが責任を果たしていないので対策が不十分で法輪功学習者が北京に来る、主なリーダは責任追及を実行し、評価を知らせろ。状況は重大 なので規律による処分を行う。」「一人でも(法輪功を)煉功したら一家全員失業させろ、従業員が一人でも煉功したら会社全てのボーナスは取り上げる。」な どと言いさらに“子どもに良い教育ができる”、“黒五類“などの差別政策を打ち出し、党と一致するよう提唱し「大義親を滅す」、人事、組織やファイルを通 じて地位を変える制度、「左遷制度」、「告発制度」、「手柄を立てて賞金を与える制度」がある。

(ニ)文化宣伝の面

1. 一言堂文化(全て口裏を合わせるやり口)

まず、中国において「最高の指示」「一つの言葉は万言に匹敵し、一言一言は真理である」という言い方がある。政府にコントロールされているマスコミは、何 かあると全部同じようなでっちあげをする。必要な時は、各レベルの党、政、軍、工、共産党青年団、婦人連盟などに支持発言をさせる。

2. 暴力文化を鼓吹する文化

「八億の人は、戦わなければどうなるというのか?」「殴られて死んだ人は犬死にだ」、「超限戦(あらゆる卑劣な手段を動員する戦い)」「原子力爆弾は張子の虎である、人口の半分が死んでも、後残りの半分が廃墟の上でまた新しい家を建て直すだろう」

3. 人の憎しみを煽動する文化

「階級の苦しみを忘れず、やっつけられた憎しみをしっかり覚える」と言うのは根本的な国策である。階級の敵に対する残酷さは美徳と見なされて、共産党は 「仇、憎しみを歯で細かく噛んで、それらを無理やりに呑み込もう。これで、仇への憎しみは心に入って少しずつ芽生える」という考え方を広めている。[77]

4. 虚言文化(中共の嘘の数々)

「『六四』天安門事件では、天安門広場で一人も死んでいない」「私たちはSARSを完全にコントロールできた」「今現在は、中国人権の最も良い時期だ」「三つの代表(最先端の生産力の向上発展、先進文化の方向性、中国人民の基本的利益の三つ党が代表すること)」。

5. 洗脳文化

「共産党がなければ、新しい中国は存在しない」、「私たちを指導してくれる核心的な力は中国共産党であり、私たちの思想を指導してくれるのはマルクス・レーニン主義である」[78]、「党中央政府と同じ位置を保つ」か、「理解できたものを執行する。理解できなかったものをも執行しなければならない。執行しながら理解を含めよう」。

6. 歯の浮くようなゴマすり文化

「天と地が広くても、極めて大きい党の恩とは比べられない」、「すべては党の手柄である」、「党は私にとって母である」、「命をかけて党中央を保護しよう」、「偉大で、栄光に満ち、正しい党」、「戦いにおいて負けたことのない党」など。

7. その場限りの文化

模範として、この人からあの人まで立てて、「社会主義精神文明をつくろう」「思想教育」などのキャンペーンを行うが、キャンペーンが終わると、皆は元に戻ってしまう。すべての報告会や読書会、心得交流会は皆いい加減にされてしまい、社会道徳は依然として低下していく。

(三)人間関係の面

1、嫉妬文化

「絶対平均主義」、「出る杭は打たれる」という言い方を宣伝する。能力のある人とお金持ちの人を嫉妬する。他人を嫉妬することは中国語で「赤眼病」[79]という。

2、人を踏みつけにする文化

「人と人が戦ったり、こっそり他人を密告したりする」こと、でっちあげ、偽の資料を作ることをすれば、積極的に進歩を求めている印であると見られて、党内において早く昇進できる。

(四)知らず知らずのうちに人々の内面の心理と外面の行動を規範化する

1.人々を機械化する文化

共産党は人々に対し「革命機械のさびない一本の釘になろう」、「党の言うことを聞き、党のおとなしい道具になる」、「党が指せば、そこへ戦 いに行こう」、「毛主席の兵士は一番党の言う事を聞く、どこかで人を必要とすればそこへいく、たとえどんな困難があるところでもそこに住もう」と要求す る。

2.是非を倒錯させる文化

「社会主義の草だけがいい、資本主義の芽なら取り除こう。」とか、銃で人を殺したのは「二十年の安定と取り替えるためであった。」とか、「己所不欲、要施於人(己の欲せざるところを人に施せ)」などがよく聞かれる。

3.自我洗脳を行い、絶対服従させる文化

「下級は上級に、全党は中央政府に服従しよう」、「利己的な考え方と戦おう」、「魂の深くまで革命を起こそう」、「党中央政府の政策に従おう」、「思想、歩調、命令、指揮を統一させよう」。

4.服従をよしとする奴隷文化

共産党はよく、「共産党がなければ、中国社会は混乱に陥るに違いない」、「このような大きな中国では、共産党以外、誰がこの国を仕切られる だろうか」、「中国という国が崩れれば、これは世界にとって災難になるだろう。だから、その指導を保つため共産党を応援しよう」と共産党はこのように人々 にその政権を守ることを説得している。長期的に、共産党に圧迫されてきた人々の言行は、恐怖と自己保護のため、共産党党員や共産党自身より左だと見える。

このようなことは数え切れないほど無数にある。中国の読者であれば、自身の体験の中でこのようなことを見つけ出せるだろう。

文化大革命を経験した人々は、きっと「白毛女」、「地道戦」[80]、「地雷戦」[81]な どの演劇やドラマなどを覚えているに違いない。これも、共産党が人々に対して洗脳を行う一種の方法である。このようなドラマは共産党の「偉大さ」、そして 党の戦士がいかに党に忠誠で党のために何もかもを犠牲にできるか、共産党はいかに困難に克服して戦ってきたか、敵たちはいかに愚かで残酷な人たちである か、というのを人々の頭の中に注入した。共産党は彼らの必要とする価値観を、毎日の宣伝を通して、一人一人に注入した。今、「東方紅」というミュージカル を再び見ると、その主題は「人を殺す」以外に何もない

同時に、共産党は彼ら特有の言葉を作った。この中に、批判するために人を罵る言葉、共産党の指導者を賛美するための虫ずが走るような言葉、官僚が使う意味 のない言葉があげられる。そのため、人々が話すと、すぐ「階級闘争」や「党への賛美」などの思惟方法に陥り、覇権的な言葉で理性的な道理を取り変える。ま た、宗教専門用語に対する乱用は、それらの語彙の本質を歪めた。

真理もさらに一歩進めれば誤りとなる。党文化はかなりの程度、伝統文化を乱用している。例えば、伝統文化の中の「信」は、共産党もよく論じるが、しかし、 彼らは「共産党を信じなければならない」と言っている。また、「孝」に対して、共産党は親の面倒を見ない人を捕まえて刑務所に入れるが、これは親孝行をし ないからではなくて、その人たちの親が政府の「負担」になったからだという。しかも、必要な時、親と子供は敵のようにならなければならない。また「忠」に 関して、伝統文化は「君軽民貴、社稷為重(君を軽んじ民を貴び、社稷を重きと為す)」を強調するが、共産党は人々に党への「愚かな忠誠心」を要求する。彼 らは「迷信といわれるほど信じ、服従するなら盲従せよ」と強く訴えている。

中国共産党の作った言葉はとても人を迷わせる力がある。例えば、共産党は共産党と国民党の間の内戦を『解放戦争』と呼び、人々を圧迫の中か ら解放させたという言い方をする。実は、1949年に建国したと言われるが、実に、中国共産党の前に、中国はもう存在していた。共産党はただ新しい政権を 作ったにすぎない。また、彼らは三年大飢餓災害を「三年自然災害」[82]と呼んでいる。これは自然災害ではなくて、全くの人災であった。しかし、私たちは毎日のように「三年自然災害」を聞いているので、知らず知らずのうちに慣れて何も疑問を持たなくなった。

伝統文化の中で、音楽を人々の欲を抑える方法として見なしていた。『史記』[83]の 中の『楽書』には、人々は生まれつき静かであり、しかし、外の世界と接触すると人々の感情が影響されて変わっていき、自分の心と智慧によって善し悪しの感 情を生じさせる、もし抑えないと、外部にある限りない誘惑と心に潜んでいる悪いものによって悪事を働いてしまう、だから、人々の欲を抑えるために先王は礼 楽を作ったと書かれている。音楽は「楽而不淫、哀而不傷(楽しみて淫せず、哀しみて傷めず)」であるべきだ。つまり、人々の感情を歌うが、人々の感情を同 時に抑制しなければならない。孔子は「詩三百、一言以蔽之、曰思無邪(詩三百、一言以って之を蔽えば、曰く、邪を思う無し)」と話したことがある。

このような美しいものは共産党が人々を洗脳するために使われている。例えば、「社会主義はよい」、「共産党がなければ、新中国はない」など の歌を幼い子供たちに教えて、大学生になっても歌わせるのである。共産党は伝統的かつ美しい民族音楽を使い、共産党を賛美する歌詞を入れ、それは伝統文化 を破壊すると同時に党のために利用することができる。

共産党はその経典である『延安文芸交流会における談話』の中で、文化と軍事を「文武は二つの戦線である」と述べ、銃を持つ軍隊だけでは足り ない、文化の軍隊も必要であると話した。また、「文芸は政治に服従する」、「無産階級の文学芸術は……革命機器の歯車とねじである」と定めた。これらのこ とによって、一つの「無神論」、「階級闘争」を核心とする党文化が作られた。この文化は伝統文化と全く相反するものである。

党文化は共産党が政権を奪い取るため、大きな力として働いたに違いない。軍隊、警察といった暴力機器と同じように、党文化は「文化暴力」というもう一種の暴力を提供した。この文化暴力は五千年の伝統文化を破壊し、人々の心を歪め、しかも、民族の結束力を壊した。

現在の中国人は、伝統文化をほとんど知らない。しかも、この五十年の「党文化」イコール中国五千年の文化であると見なしている。これは中国 人の哀れである。伝統文化を反対している人々は、自分たちが反対しているのは党文化であり、中国の真正の伝統文化ではないと言うことに気付いていない。

多くの人は欧米の民主主義を用い、中国の現行制度を変えようと希望している。実は、「主の前では皆平等である」を主張し、人間性と人の選択 を重視する欧米の民主主義は、キリスト教に基づく文化の上につくられたのである。共産党のような専制、且つ非人間性の党文化が民主制度の土台になるなどと いうことがあるだろうか。

結び

伝統文化は実に宋の時代から絶え間なく破壊を受けてきた。「五四」運動[84]以 降、自分の成功を急ぐ知識人たちは伝統文化への否定を試み、欧米文明の中から中国が発展する道を見つけ出そうとしてきた。しかし、その時、文化領域で起き た衝突と変化は学術上のものに限られ、国家暴力はなかった。中国共産党の出現は、文化的な衝突を共産党の生と死に関わる問題というレベルに高めた。よっ て、共産党は文化に対してばらばらに壊すという直接の破壊方法と、「その糟を取り、その精華を取り除く」、また、伝統文化への乱用という間接的な破壊方法 を用いた。

民族文化を破壊する過程は、「党文化」を建てる過程であった。共産党は人々の心の中にある良知を破滅させ、人々を伝統文化から離れさせようようとしていた。民族文化が徹底的に消滅される日は、私たちの民族が滅亡する日でもある。これは絶対に言い過ぎではない。

同時に、民族文化の破壊は私たちに予想もつかない物質的な災害をもたらした。

伝統文化は「天と地が一つになる」を強調している。だから、人間は自然と調和して生活すべきである。共産党は「天と地と戦うのが極めて楽し い」と煽動していたため、中国における自然破壊は党文化と直接関係する。たとえば、水。中国人は「君子は財を愛するが、それを取るには作法がある」という 伝統を捨てて、自然に対して狂ったように略奪と汚染を行ってきた。中国五万平方キロメートルの河のうち、四分の三は魚類が生息できないほど汚染されてい る。地下水の汚染度は十数年前にすでに三分の一を超え、現在依然と悪化し続けている。淮河で次のようなことが起きた。ある日、子供一人が油の浮かんでいる 河の中で遊んでいた。突然火花がその水面に落ち、直ちに高さ5メートルぐらいの火の柱が出てきた。その周りの木や草は全部燃えた。[85]こ のことから、そこで生活をしている人々が飲んでいる水はどれほど汚いか分かるだろう。その水を飲めば、癌をはじめとするいろいろな病気になるに違いない。 中国の西北地域では砂漠化、高塩化が進んでおり、工業化が進んでいる地域における汚染は、人々の心の中で自然に対する敬畏が失われたことと関係している。

伝統文化は命を敬うことを重んじる。共産党は「造反有理」や「人と戦うのが極めて楽しい」と宣伝した。革命の口実で、人を殺し、数千万の人 を餓死させた。また、命を無視したため、偽物、毒のあるものの流通が広められた。例えば、安徽阜陽では、生まれてきたばかりの赤ちゃんがある種の奇病に なった。それは、赤ちゃんたちがみな、頭が大きくなり、手足が短くなり、体が極めて細くて弱いという症状が出た。八人の赤ちゃんがこの病気で亡くなったの である。調査を行った結果、ミルクパウダーを販売する企業の責任者は金もうけのために、ミルクパウダーのなかに、なんと毒を入れたという。また、金儲けの ために、カニ、食用のカメ、蛇を養殖している人たちは、太らせるために刺激性のある薬を飲ませていた。あるいは、工業用のアルコールを混ぜて偽のお酒をつ くるとか、工業用の油でお米を精米するとか、工業用の漂白剤で小麦粉などを漂白するということが起こった。さらに、河南省のある県の企業は、ゴミになった 油、白土油といった癌細胞を生じさせる油で、「食用油」を生産していた。しかも、その企業は毎月千トン以上も生産していたという。これらの有毒食品はある 地域、あるいは、ある時期だけに限られたものではなく、実に全国普遍の現象である。これは、文化が破壊され、人々が道徳上の抑制を失い、物質的なものばか りを追求していると言うことに関係がある。

また、党文化は独占的で排他的なものである。しかし、伝統文化にはとてつもない大きな包容性がある。中国文化が盛んな唐代、佛家思想やキリ スト教や他の西洋宗教は皆道家思想、儒家思想と平和共存ができた。真正の伝統文化は西洋文化に対して必ず開放的で包容力がある。アジアの四つの龍と呼ばれ ている、経済が目覚ましく発展している国は「新儒家文化サークル」を形成した。彼らの経済発展は、伝統文化は非科学的なものではなく、その発展をも阻まな いと言う事実を証明した。

そして、真正の伝統文化は外在の物質ではなく、人の心から現れた喜びで人々の生活の質を量るのである。“先に誉れを受けても、後から貶められないとは限らない。肉体的には楽をしていても心に憂いがないとは限らない”。[86]陶淵明[87]は貧しかったが、でも楽観的だった。貧しい生活を送った彼は「菊を東の籬の下に採り、悠然として南山を見る」と言うゆとりの気持ちを表した。  

実は、どのように生産性を高めるか、あるいは、どのような社会制度を用いるかは、みな文化が答える問題ではない。文化は道徳の面で、人を導 き、人の悪い言行を抑制するという役割を果たしている。真正の伝統文化への回帰は人々が天、地、自然を敬い畏れ、命を大切にして神を敬うという状態に戻す ことである。このようになれば、人々は天と地と平和に共存でき、健康かつ幸せに生活できるに違いない。




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[1]盤古:人類上の初の生命と言われ、中国古代神話上の天地開闢の神。

[2]女:中国古代神話上の人類を造った女神。

[3]神農:(文字面から“天上の農民”と解釈する)中国古代神話上の、五千年前の伝奇的な人物。人間に耕作を教え、農業の創始者とされる。百種類以上の薬草(毒あるものも含む)、植物を口にして自ら薬効と毒性を確かめ、中国の伝統医学の創始者ともされる。

[4] 倉頡:中国昔の寓話と伝説の中の人物。黄帝の時の史官(歴史を掌る官吏)だそうで、中国文字の創始者とされる。コンピュ-タの倉頡漢字入力方法は彼によって命名された。

[5] 出典:《道徳経》。《道徳経》は老子が著作した道家の重要な経典の一つ。

[6]孔子の著作《大學》の前書き。

[7]出典:中国初めての主要な歴史学者司馬光(前145年~前85年)が 著作した《史記》。《史記》は遠古から歴史学者のいる時代までの中国および隣国の歴史を記載した。司馬光は歴史に対するはっきりとした叙述は、その後の二 千年以来各王朝の標準的な歴史を記録する範式になった。

[8]出典:孔子の《論語》。

[9]同上。

[10]同上。

[11]出典:孔子の著作《大学》。原文:身修而後家斎、家斎而後国治、国 治而後天下平。(身が修まった後にはじめて、身内の事情(家)に対しても公正(斉)に判断をすることができるようになる。身内の事情(家)に対して公正 (斉)に判断することができるようになって初めて、国が治まるのである。国が治まった後にはじめて、天下を平和にすることができる。)

[12] 漢の時代の儒家の思想家董仲舒(前179年~前104年)、著作《天人三策》の文章に “天不変、道亦不変”(天が変わらない、道も変わらない)と書かれた。

[13]《西遊記》は中国の四大古典名著の一つ(ほかに《三国志演義》《水 滸伝》《紅楼夢》がある)で、作者は呉承恩(1504年~1582年)。孫悟空という猿王に関する物語で、中国唐朝の有名な僧侶玄奘三蔵(602 年~664年)の経歴を元にした。玄奘三蔵は仏教経典を求め、仏教の発祥地(今日のインド)まで行脚していた。小説の中で玄奘の弟子として猿王、猪八戒と 沙悟浄は、玄奘を保護しながら同行して来た。西方に着くまでに81個の危険と災難に遭った。

[14]《紅楼夢》は清の時代の曹雪芹(1715年~1763年)が著作し た長編悲恋小説。一つの貴族家庭の没落を背景に、社会歴史の全体を生き生きと表現した。印象深く目が眩むほど多くの人物も描き上げた。中心人物は賈宝玉と 林黛玉。《紅楼夢》は広範的な表現、細かい構造、古典的な語法の文学の価値によって、中国古典小説の精粋として評価される。

[15]《水滸伝》は最も有名な中国古典小説の一つで、14世紀施耐庵が著作した。108人の英雄豪傑たちが梁山泊根城に集まり、弱きを助け、強きをくじいて大活躍する豪快な物語。

[16]《三国演義》は羅貫中が著作し、中国の有名な古典小説の一つで、三国時代(220年~280年)の歴史を舞台に、三つの強大な政治の勢力――劉邦、曹操、孫権は王位をめぐって演出した物語。その時代のさまざまな偉い才略と策略なども描写した。

[17]《東周列国志》は明の時代の余紹魚が著作し、明の末に馮夢龍が改編した。その後蔡元放が再び改編した。春秋時代(前770年~前476年)及び戦国時代(前475年~前221年)に亘る500年以上の歴史を描写した。

[18]《説岳全伝》は、清の時代の銭彩が著作した。南宋期の名将、中国歴 史上の愛国英雄岳飛(1103年~1142年)の一生を描写した。岳飛将軍は、北方に侵入してきた金国と勇敢に戦い、非常に優れていた。宰相秦桧は主戦論 を唱える諸将を除くため、岳飛を罪を着せ、牢屋に入れ処刑した。その後岳飛の罪が晴れ、記念のために岳飛の故郷でお寺を建てた。岳飛のお墓の前に、四つの 鉄で作った人像が立てられ、それらの人像は両手が後ろで縛って、跪いており、岳飛の死に責任を負うべき人たちを代表する。岳飛は中国文化の国に忠誠を尽く す模範にもなっている。

[19]出典:明の時代編纂された《道蔵》 摘要

[20][8]と同じ。

[21]出典:毛沢東の中国共産党代表大会第8期での講話

[22]毛沢東の中国語の原文は、掛け言葉を使った。和尚打傘――無法(法:中国語では髪の毛と同じ発音で、“髪の毛”の掛け言葉)無天(“空”の掛け言葉)

[23]桀は夏王朝(前16年~11年)の最後の皇帝で、紂は商王朝(前16年~11年)最後の皇帝で、どちらも暴君。

[24]文天祥(1236年~1283年)は、南宋朝期、軍隊を率いて、侵入してきたモンゴルの軍隊と戦う名将で、モンゴル軍に捕虜され、モンゴル人に降服しないため、1283年1月9日に殺された。

[25]出典:《孟子》

[26]出典:孟子の有名な言葉:「生亦我所欲也,義亦我所欲也;二者不可得兼,捨生而取義者也。(生がほしく、義もほしい;生と義を両立できない時は、生を捨て義を取る。)」

[27]出典:共産主義国際国歌。中国語の文面の意味としては:救世主など存在しない。人類の幸福を創り出すのは、神仙や皇帝に頼るのではなく、私たち自分自身に頼るべきだ。

[28]北魏太武帝拓跋壽(424年~452年)。

[29]唐武宗李炎(840年~846年)。

[30]北周武帝宇文(561年~579年)。

[31]後周朝世宗柴栄(954年~959年)。

[32]1960年代中期、中国文化大革命の時に使っていたスローガン。

[33]白馬寺は中国最古の仏教寺院で、68年(東漢(25年~220年)永平11年)に建てられた。

[34]貝葉経は、葉に書かれたお経のこと。貝葉はインド語でタ-ラという植物の葉で、厚くて、虫に強い。昔紙がまだ出来ていないころは、インドの祖先は、手紙や文章を葉に刻んで使っていた。

[35] 丁抒《幾多文物付之一炬》(どのくらいの文物も焼き払ってしまう)。

[36] 毛沢東の「文化界での独裁」。つまり古代の「封建主義への反対」、西洋の「資本主義への反対」、共産主義国家の「修正主義への反対」などを指している。

[37]紅衛兵は、文化大革命の時の最前線で活躍する執行者で、15、16歳の中学生が多い。

[38] 頤和園は、北京より15キロ離れ、中国最大で、最も良く保存された皇室公園で、800年以上の歴史を持っている。

[39] 天台寺は、中国の有名な道教の寺院で、“天国の下の最初に加護された場所”と言われる。天台寺は、終南山の北の山丘(周至県より15キロ離れた東南方)に位置し、西安より70キロも離れている。

[40] 里は中国の長さの計量単位で、1里は0.5キロに相当。

[41]唐高祖李淵(618年~626年)は、唐王朝の始めての皇帝。

[42]人民公社は1958年~1982年、中華人民共和国農村地区の三つの行政ランクの最も上のランクである。公社は、政府、行政、経済などの機能を果たし、最も集中的な単位で、さらに生産組、生産隊に分けられ、1982年以降は、村に取って代わった。

[43] 36と同じ。

[44]大乗仏教の大般涅槃経は、大乗仏教の最後の経である。佛は、世の中にいる最後の日に皆に伝授したもので、大乗仏教経の全ての精華を凝集した。

[45] 出典:大般涅槃経第1冊第7号。(ここでは一時的な訳で、更新する可能性がある。)

[46] 出典:百志《共産党鎮圧宗教的理論與実務(共産党が宗教を弾圧する理論と実務)》。 www.dajiyuan.com/gb/3/4/15/n300731.htm(中文)。

[47] 解脱(Mukti)は仏法の指導と伝承で、“緩める、解脱、救済、自由、開放、解放、束縛から解放して自由を獲得する、輪廻転生・業力・紛れ道・苦難から離脱する” などと訳する。解脱は涅槃が座禅より自由を獲得できること(輪廻転生から離脱すること)を意味する。

[48]反革命弾圧は、元の秘密結社のメンバー、宗教組織、1951年までにまだ残っていた国民党のメンバーを残忍にも処置した。

[49] 中国共産党が自称した“米国の侵略に対抗し、朝鮮を援助する戦争”は、1950年始まった。

[50]呉耀宗(1893年~1975年)は、他の人と共同で、所謂“新中国を建設するにあたって中国基督教の努力の方法”を発行し、三自創新宣言とも呼ばれ、その後三自教会を形成した。

[51]人民大会堂は、1959年に建てられ、天安門広場の西側に位置し、中国国家人民代表大会が会議を開催する場所である。

[52] [46]と同じ。

[53] 袈裟袍は、和尚の袍または伝道師が着る黑色の袍。

[54]宋徽宗趙佶(1100年~1126年)。

[55] 蘇東坡(1036年~1101年)は、中国宋の時代の有名な詩人、作家で、“唐宋八大家”の一人である。

[56]文徴明(1470年~1559年)は、中国明の時代の画家である。

[57]唐伯虎(1470年~1523年)は、中国有名な学者、画家、明の時代の詩人である。

[58] [35]と同じ。

[59]唐の時代の有名な詩人孟浩然(689年~740年)の詩より。

[60]王羲之(321年~379年)は、唐の時代の有名な書法家である。

[61]蘭亭集序原版は、王羲之が書法家としての全盛時期(51歳の時、353年)に書かれ、中国書法史上の最も重要な作品と公認される。

[62]呉承恩(1506年~1582年)は、中国明の時代の小説家、詩人で、中国の“四大古典小説”の一つ《西遊記》の作者である。

[63]呉敬梓(689年~740年)は、清の時代の作家で、《儒林外史》の作者である。

[64]欧陽修(1007年~1072年)は、“唐宋八大家”の一人で、“酔翁”と自称。

[65]永樂大典は、明王朝の永樂皇帝が1403年に学者に命じて作らせ た。世界一番古い、偉い百科全書で、2000人の学者が携わり、8000冊の古代から明王朝の初期までの書籍を収納した。1408年に完成し、22000 冊の手で書き写した巻があり、総体積は、40立方メートルにも達した。

[66] “梁効”は、文化大革命期に成立した紅衛兵や論文執筆グループで、周一良氏も加入していた。彼は加入した後、昔の友達から “極端の恥” と書いた匿名手紙が届いた。

[67] 秦始皇(前292年~210年)政 は、中国史上はじめての皇帝で、法典、文字、重量単位、度量衡を統一し、長城を建てることを命じた。これは、中国の歴史と文化に深く影響した。また儒家と 道家などの書籍を焼き払って、460人の儒学者を生き埋めた。“焚書坑儒”と呼ばれた。彼は自分のために、巨大なお墓を作った。その兵馬俑は世界の八大奇 観の一つになっている。

[68]出典: 1949年~1976年毛沢東語録第2冊。

[69] 出典:毛沢東《修正党的工作型態(党の工作形態を修正する)》(1942年)。

[70] 出典:毛沢東《永安文芸論壇的談話(永安文芸論壇における談話)》(1942年)。

[71] 武訓(1838年~1896年)は山東省生まれ、幼い時、父親を失い家計がとても苦しかった。彼は乞食をして母親を養い、とても親孝行の乞食だと皆に知られている。母親が死んだ後、乞食は生活の唯一の方式になり、乞食をして集めたお金で無料の学校を開設した。

[72]出典:毛沢東選集(第5冊)《物事は変化している》(1957年)。

[73] 銭伯城、東方文化、第4版(2000年)。

[74]六四学生運動は、民主改革を提唱する大学、専門学校の在校生は、1989年4月15日~6月4日に発起した。その後、人民解放軍に弾圧され、国際で“六四大屠殺”と呼ばれる。

[75]専門的に、法輪功を弾圧する部門で、党の各レベルの行政部門と他の政治管轄システムなどを凌駕する権利を有する。

[76]“出身論”( 血脈または家系)は出身の家庭の階級は一人の本質を決めると主張する。

[77] ミュージカル“紅燈記”より摘録した。“紅燈記”は、文化大革命期(1966年~1976年)の人気のあった政府側の典型的な演劇である。

[78]中華人民共和国第一期全国人民大会第一会期(1954年9月15日)の開幕式における講演。

[79]中国には「紅眼病」という諺がある。お金持ちや権力者に対する嫉妬や羨望が広がっていることを指す。ここでは、他人が自分より良いと見ると、不公平に思い、嫉妬することを指す。

[80] 地道戦、1965年上映した白黒映画で、中国共産党が自称した「1940年代中国中部にいる共産党の遊撃隊員は、地下の通路を利用して、日本の侵略者と戦う」物語を演じた。

[81] 地雷戦、1962年上映した白黒映画で、中国共産党が自称した「1940年代中国中部にいる共産党の遊撃隊員は、河北省で地下道を掘り、日本の侵略者と戦う」物語を演じた。

[82]1959年~1961年の大凶作は人類史上最大な大凶作で、非正常死亡者は3千万人から4千5百万人であると言われる。

[83] [7]と同じ。

[84]五四運動は中国現代史上の初の民衆運動で、1919年5月4日より始めた。

[85]陳貴利、淮河の警告(1995年)。

[86]出典:“唐宋八大家”の一人の韓愈の《送李源帰盤古序》。

[87]陶淵明(365年~427年)、陶潜とも言う。中国東晋時代の詩人である。

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2013/12/19 16:50|九評共産党TB:0CM:0

 

序文

張付珍さん(女性、38歳)、山東省平度市現河公園の元職員であった。2000年11月、法輪功の陳情のために上京したが、不法に連行された。情報 によると、公安局関係者により、張付珍さんの衣服はすべて剥ぎ取られ、髪の毛もすべて切り落とされ、辱めを受けた。更に、ベッドの上に「大」の字に縛り付 けられたため、ベッド上で用を足すしかなかった。そして、何らかの薬物注射を打たれ、直ちに狂ったかのようにもがき始め、そのままベッドの上で悶絶し死亡 した。その場に居合わせた「610オフィス」の官員らは、一部始終を監視していたという(明慧ネット2004年5月31日による報道より)。[1]

楊麗栄さん、(女性、34歳)、河北省保定地区定州市北門街に居住していた。法輪功を修煉しているという理由で、家族はいつも警察から嫌がらせと脅迫を受 けていた。計量局の運転手である彼女の夫は、職を失うことを恐れていたが、2002年 2月 8日夜、またしても警察からの嫌がらせを受けると、ついに耐え切れなくなった。翌日の夜明け、両親がいない隙を見計らって、妻の首を締めた。こうして楊麗 栄さんは、10歳の息子を残して無惨にも世を去った。その後、夫は警察に自首した。警察は現場に到着すると、まだ体温が残っている楊麗栄さんを解剖して は、多くの臓器を持ち去った。取り出された臓器はまだ熱を出しており、絶えず鮮血がしたたり落ちていた。定州市公安局の一人が“これは死亡した人を解剖し ているのではなく、生きた人を解剖しているのではないか”と言った(明慧ネット 2004年 9月 22日による報道より)。[2]

黒龍江省万家労働教養所で、妊娠6,7ヶ月になる妊婦が虐待を受けた。椅子の上に立たされ、両手を縛られた状態で鉄棒を握らされる。この状態で、椅子を蹴 飛ばされる。すると体は一瞬宙に浮いた状態となる。我慢できずに、手を離すと床に落下するが、両手は縛られており、受け身も出来ない。筆舌に尽くしがたい 苦痛を受け続け、流産してしまった。さらに残酷なことには、警察は、妻が虐待される様子を、全て夫に側で見るように強制した(明慧ネット2004年11月 15日、万家労働教養所で100数日間の残酷な刑を受けた王玉芝さんへの取材報道より)。[3]

この様な聞くに堪えない残酷な事例が、現代の中国でも起こっている。しかも、その迫害は、法輪功学習者の身の上で起こっており、5年間に渡り継続的に行われて来た無数の虐殺事件における、氷山の一角にすぎないのである。

改革開放以来、中国共産党は国際社会において、積極的に一つの進歩的なイメージを、作り上げることに全力を傾けている。しかし、昨今の広範に渡たる、法輪 功への血なまぐさい理性を欠いた迫害の凄まじい圧迫、及び残忍な手段は、国際社会に中国共産党の真実な一面を再び露呈すると共に、中国共産党の人権におけ る最大の汚点となっている。現在、一部の人々は、それらの責任は警察機構の堕落にあると思い込み、中国共産党は改善され進歩していると、誤認しているが、 今回の上から下まで、すべてに渡る組織的な法輪功への迫害は、その人々が抱いていた幻想を、徹底的に破壊しているのである。

「このような血なまぐさい、かつ荒唐無稽な迫害が、なぜ中国で発生しうるのか?20年前の文革に対して、“混乱が静まり正常に戻った”ばかりの今日、なぜ 再び歴史は邪悪循環へと墜落したのか?“真・善・忍”を原則とする法輪功は、世界60ヶ国へと広く伝えられているのに、なぜ、たった一国、中国だけで迫害 に遭わなければならなかったのか?今回の迫害で、江沢民及び中国共産党は一体どの様な関係にあるのか?」と、多くの人々は考えるようになった。

江沢民には、徳もなければ能力もなく、中国共産党という、殺人と嘘のでっち上げを専門とする、正確に動く暴力マシンがなければ、全中国に波及し、ひいては海外にも及んだ集団虐殺的な迫害を発動することは、決して出来なかったのである。

目前の開放政策及び世界と軌道を接する国際情勢の中、江沢民という、強情で独断専行の邪悪な独裁者がいなければ、中国共産党も歴史の潮流に逆行しては、動 けなかったはずである。江沢民及び共産党邪霊の相互の呼応と共鳴が、雪山を登る者の声と積雪との共振により、雪崩のような災難を引き起こすように、江沢民 及び中国共産党は互いに利用しあい、その弾圧の邪悪なることを古今未曾有となるまで、拡大することができたのである。


一 類似した成り上がりの歴史がもたらした、同様の危機感

江沢民は1926年に生まれた。中国共産党が常に人民に、その血なまぐさい権力闘争の歴史を覆い隠してきたように、江沢民も常に中国共産党及び人民に、その売国奴としての歴史を覆い隠してきた。

江沢民が17歳の時、世界ではファシズムに反対する勢いが、非常に激しくなっていた。愛国青年たちは、次々に前線へと馳せ参じ、抗日救亡運動に参加してい た。一方、江沢民は、汪精衛の傀儡政府が、1942年に南京で創設した中央大学で、高等教育を受けることを選択した。様々な調査によれば、その理由は、江 沢民の父である江士駿は、日本が江蘇を占領している間、関東軍の反華宣伝機構の高官に任命されていたためである。正に正真正銘の売国奴である。

江沢民は、国を売る売国奴としての一面においても、まるで一つの轍から出たように、中国共産党と同様に、中国人民に対する感情が欠落し、思うままに中国人民を虐殺することができた。

中国共産党が、内戦において勝利を得た後、江沢民は中国共産党に紛れ込み、富貴を求めるために、自分は早年に中国共産党に加入し、後に賊に撃たれて死亡し た叔父の江上青の養子となったと偽証し、この関係を利用して、数年間で初級幹部から電子工業部の副部長へと昇進した。江沢民の昇進は、その本領によるもの ではなく、人間関係において上手く立ち回ったためであることは、明らかである。江沢民は上海市委書記在任中、毎年上海で春節を過ごす李先念氏、陳雲氏[4]などの党内の元老に対して、媚びへつらうことを極めた。かつて、李先念氏に誕生日祝いのケーキを送るため、上海市委書記たる者が、大雪の積もる中、数時間も恭しく待っていたのである。

1989年6月4日に起きた“64”天安門事件は、江沢民の生涯におけるもう一つの転機となった。事実を報道しようとする『世界経済導報』を強烈に弾圧 し、更に人民代表大会委員長の万里氏を軟禁した。そして、“64”事件への弾圧を支持したことで、中国共産党の総書記まで、のし上がったのである。江沢民 は“64”事件よりかなり以前に、鄧小平宛に秘密裏の書簡を送り、“断固とした措置”の採用、さもなければ“国及び党も没する”と要望していた。この15 年来、江沢民は“安定はすべてを圧倒する”ということを理由にして、異議を唱えたすべての人士、及び独立信仰団体に対して、ほしいままに弾圧虐殺を行って 来た。

中ロ両国が1991年に国境線を定める際、江沢民は、中国により帝政ロシア及び旧ソ連への侵略を全面的に認め、『アイグン条約』をはじめとする、すべての 中ロ不平等条約を引き受け、百数十万ヘクタールのも中国領土を譲渡した。江沢民の略歴を見渡すと、売国奴の長男であるにも関わらず、烈士の遺児と偽証し、 身をもって共産党の“騙し”を実践して来たのである。“64”天安門事件の虐殺を支持し、民主化運動及び信仰の人士を弾圧することで、自ら共産党の“殺 し”を実践したのである。かつて中国共産党は、第三コミンテルン遠東支部として、ソ連の命令に従ったが、江沢民は無償で国土を譲渡し、身をもって共産党の “売”を実践したのである。

江沢民及び中国共産党は、類似した卑劣な成り上がりの歴史を持っている。このため両者は権力に対して、極度な不安感を持つことが、避けられない運命となっている。


二 江沢民及び中国共産党は、同様に“真・善・忍”を恐れている

共産主義運動の歴史は、数億人の血で塗られたものである。共産主義国家のほとんどは、スターリン式の粛清を経験してきたのである。みだりに無辜な人民を殺 し、その数はすぐに百万人、千万人に上る。1990年代、ソビエトが崩壊し、東欧に激変をもたらし、共産党陣営は一夜のうちに、大半の山河を失った。中国 共産党が、この事件から得た教訓とは、即ち弾圧を停止し、広く言論発表の道を開くことは、自ら滅亡を招くことになるということである。

もし広く言論発表の道を開いたならば、血なまぐさい暴行をいかにして覆い隠すのか?イデオロギー上の騙しは、いかにしてつじつまを、合わせることができよ うか?もし弾圧を停止すれば、人民は恐怖及び威嚇から開放され、共産党以外の生活様式及び信仰を選ぶようになるのではないか?共産党の生存を支える社会基 礎はどこにあるのか?中国共産党はその形式がどんなに変わろうとも、本質が変わることはないのである。そのため民衆を騙すなら、必ず死ぬまで騙さなければ ならない。人民を弾圧するなら、必ず最後まで弾圧しなければならない。これは“64”事件の後、“すべての不穏な要素を萌芽の状態のうちに消滅せよ”と声 高に叫ぶ江沢民が、極度の恐怖の中で出した結論である。

そのような時、法輪功が現れたのである。法輪功は当初多くの人に、病気治療及び健康保持に、不思議な効き目のある気功だと考えられていたが、後に人々は 徐々に法輪功の核心は、簡単で学びやすい五式の功法ではなく、“真・善・忍”を持って、学習者に良い人となるように指導することにある、ということに気づ いてきた。


(一) 法輪功は“真・善・忍”を信じ、共産党は“偽、悪、争”を信じる

法輪功は“真”を唱道する。これには本当のことを言い、偽りのないことを成す、ということを含んでいる。しかし、中国共産党はその反対に、常に嘘によって 洗脳を行ってきた。“嘘を言わなければ偉業は成し遂げないものだ”という手口より、政権を掠め取った後、毎回の運動の中で、累々と血の債務を負っているの である。もし人々が本当のことを言うようになれば、民衆は中国共産党が、元来ソ連に頼り、殺人、拉致、逃亡、アヘン栽培、偽の抗日などで、家業を作り上げ たということを知るようになる。これは中国共産党にとって正に最期の到来である。法輪功は“善”を唱道し、常に他人を考慮し、善を成さなければならない。 しかし、共産党は常に“残酷に闘争し、無情な仕打ち”を提唱してきた。中国共産党の模範的英雄である“雷鋒”は、「敵に対しては厳しい冬のように冷酷無情 でなければならない」と言っている。実際のところは、中国共産党は敵に対してだけでなく、党内部の人に対しても、ほとんど変わらない。中国共産党の開国元 老、元帥そして国家主席をも含めてみな、情け容赦もない批判や殴打、残酷刑などを受けていた。“階級の敵”に対する虐殺は、なおさらそれ以上に恐ろしいも のである。もし“善”が社会で優勢に立ったら、それらの“悪”を基礎とする群衆の運動は、もう出現できなくなるのである。

『共産党宣言』の中で、「今日に至っても、すべての社会の歴史は、階級闘争の歴史である」と述べている。これは共産党の歴史観及び世界観を代表している。 法輪功は矛盾が現れてきたら、自分の問題を顧みるように唱道している。この世界観は、内に向かい反省するというものであり、共産党の外へ向けられた闘争哲 学とは、きつ然と対立している。

しかしながら、闘争は共産党が政権及び生存を維持するための、主要な手段である。周期的に粛清する政治運動を発動することは、正に自分を絶えず充電し、 “革命の闘志を煥発させる”ためである。この種の暴力及び嘘によってさらに強化させ、熟知させる過程こそが、また人々の恐怖を刷新するものであり、その統 治の過程を維持するためでもある。

このように、イデオロギーから言っても、共産党の生存のよりどころとなる“哲学”は、法輪功の教えとは、きつ然と対立するものである。


(二) 信仰により人は恐れというものを知らなくなるが、中国共産党は恐怖というものによって政権を維持しなければならない

真理を認識し、そして十分に理解した人は、恐れというものを知らないものである。キリスト教はかつて三百年もの迫害を経てきた。無数のキリスト教徒は、 ローマ皇帝によって斬首され、焼死され、溺死させられ、ひいてはライオンの餌とされてきたが、キリスト教徒は屈服しなかった。歴史上の佛教法難も、同じよ うに節操を堅く守り、屈服しないという表現がそこにあった。

無神論宣伝の一つの重要な目的とは、人々に天国も地獄も、善悪による応報も、信じることのないようにするためである。それによって、良心による自制を放棄 し、現実の栄華及び享楽ばかりを重視するようになる。そして、人間性おける弱点に対して、操作し、脅迫し、利によって人を釣ることに、充分な効力を発揮す ることができる。しかし、信仰者は、生死及び世俗の煩わしさをも、看破することができ、このようになれば、世俗の誘惑及び生命への威嚇は、非常に軽いもの となり、共産党が人をコントロールしようしても、その力の入れ所を失わせるものとなる。


(三) 法輪功の道徳面での高い基準は、中国共産党にとって耐え難いものである

1989 年の“64”事件以来、中国共産党のイデオロギーは徹底的に崩壊した。特に1991年8月、ソビエトの崩壊、そして東欧の激変は、中国共産党に極大な恐怖 及び圧力をもたらした。内外共に行き詰った形勢は、共産党統治の合法性とその存続に、空前の挑戦をもたらしたのである。このときの中国共産党には、すでに マルクス、レーニン、毛沢東らの本旨の主義によって、党員を統合することができなくなり、全面的な腐敗により、党員の忠心を交換することで、手に入れるよ うになった。

言い換えれば、誰でも党に追随すれば、汚職行為といった方法により、入党しない人には得られないメリットを、手に入れることを認めたのである。特に1992年、鄧小平[5]の 南方巡回以来、中国には至るところに、役人ブローカーの横行、土地産業及び株式市場の投機、密輸、愛人囲い、扇情的風俗、賭博、薬物乱用などが蔓延した。 “洪洞県内にはもう良い人はいない”とまでは言えないものの、すでに民間は中国共産党の腐敗を一掃することに自信を失い、中級及び上級幹部の腐敗の割合 は、半数以上と考えるように至ったのである。


(四)法輪功の発展及び管理方式は、中国共産党の嫉妬の元となった

法輪功の発展の方式は、人から人へ、心から心へ伝わり、採用される管理方式は、来るも去るも自由であり、非常に緩い管理である。これは中国の厳密組織とは 全く異なっている。それにも関わらず、中国共産党の毎週一回、あるいは数回に渡る政治学習、組織生活はまるで形骸化されたものとなっている。党のイデオロ ギーに対する党員の承認は、ほとんどゼロである。しかし、法輪功学習者らは、自覚を持って“真・善・忍”を実践している。また、法輪功の心身の健康に対す る改善は、修煉者数を二乗の速度で増加させ、修煉者は自ら望んで李洪志師の諸著作を学び、自費により法を広めていた。わずか7年間で、法輪功学習者は無か ら一億人にまで増加した。当時、およそすべての中国の公園で、法輪功を煉功する際の音楽が流れていた。

共産党は、法輪功が中国共産党と群衆を“争奪”している“宗教”であると流言している。実際のところ、法輪功が人にもたらしたのは、一種の文化と生活様式 であり、中国人がすでに遺失してから久しくなった、祖先の文化及び伝統の根である。江沢民及び共産党が、これほどまでに法輪功を恐れているのは、この種の 伝統的な道徳が、一度群衆と溶け合って一体となってしまえば、いかなる力もその迅速に拡大する勢いを、阻むことができなくなるからである。こうした生まれ ついての伝統は、共産党により数十年間断絶され、改ざんされた。

再び伝統そのものを拾い上げることは、歴史の選択であり、一種の広大な群衆が苦難を経験した後に、自分の選択した帰結である。この種の選択の必然となる結 果は、つまり是非を唱え、邪悪を捨て去ることである。つまり共産党に対する根本的な否定及び除去でもある。これは中国共産党にとって死への急所を刺された ようなものである。特に法輪功を修煉する人数が、中国共産党員の人数を超えたときの、中国共産党の内心から発した恐怖と嫉妬は想像に難くない。

そして、中国共産党の社会へのコントロールは、徹底されたのである。農村の“すべての村には党の支部がある”、都市の中で党の支部は、幹線道路、軍隊、政 府及び企業といった最も末端にも、党の組織がある。この種の絶対的な独占性及び排他性は、中国共産党が政権を維持するための重要な手段である。『憲法』の 中で、その名を美化して“党の指導を堅持する”と定められている。法輪功の修煉者は“真・善・忍”を基準としたいと心から願っている。しかし、中国共産党 から見れば、これは全く受け入れることのできない“党の指導を否定する”ものなのである。


(五)共産党は、法輪功が“有神論”を信仰することで、その政権の合法性を脅かすと考えている

真の有神論の信仰は、共産党にとって必ず重大な挑戦となる。なぜなら共産党が政権を握る合法性の源は、いわゆる“歴史唯物主義”である。“人間の天国”を 建てるためには、人間による“先鋒隊”に頼らなければならず、つまり“共産党”の指導である。そして、“無神論”は、随意に道徳の善悪を解釈できるように させたものであり、本来の道徳ではなく、共産党が永遠に“偉大で栄光に満ち、正しい”とさえ、民衆が覚えればそれでよいことになる。

有神論は、民衆に一つの普遍的な善悪の基準をもたらすものである。法輪功学習者にとっては、ある事柄が正しいかどうかは、“真・善・忍”を持って判断するものであり、中国共産党の一貫した“統一思想”にとって障碍となったものである。

さらに多くの理由があげられるが、上述された五つの原因の中のいずれも、中国共産党にとっては十分に致命的である。江沢民が法輪功を弾圧することも、同じ原因がもたらした結果といえよう。

江沢民は嘘の略歴を報告することで、今日の地位の基礎を作り上げた。よって“真”を恐れるものである。民衆を弾圧することによって早く出世したのであり、 もちろん“善”は好まない。党内で互いに腹を探り合って、暗闘することによって権力を維持したため、もちろん“忍”も嫌いである。

江沢民の度量の小さいこと、嫉妬心の強いことは、ある些細な事件からも分かる。浙江省余姚県(現在は市となっている)には、“河姆渡遺跡博物館” [6]があり、全国の重要な文物を保護している施設である。当時の“河姆渡遺跡博物館”の看板の題辞は、喬石氏[7]に 依って書かれたものである。1992年9月、江沢民が参観した際、喬石氏の書いた題辞を見て、直ちに暗い顔となった。同行者らも一瞬にして緊張した。江沢 民が喬石氏を受け入れないことも、また自身をひけらかすのが好きで、どこに行っても、その場所で題辞を書き記すようにしていることを、皆知っていたからで ある。

“済南市公安局交警支隊”及び“鄭州市退職エンジニア協会”でさえも、題辞を書き記すようにしていた。博物館の幹部は、狭量な江沢民に対するもてなしが、 不行き届きとなるのを恐れ、1993年 5月、博物館が休館後再公開されるということを口実にして、江沢民の題辞に替えたのである。

毛沢東のものは“雄文四巻”と称されている。『鄧小平文選』の中にも“猫論” [8]の実用 主義の思想がある。江沢民は苦労してやっと三つの言葉を作り出し、またそれを“三講”と名づけたのである。本が印刷された後、中国共産党組織による系統的 な宣伝を経て、強制的に発注させることで、初めて売り出されるようになった。しかし、党員らは江沢民に少しの敬意もなく、却っていたるところで、女性歌手 とのゴシップ、国外で“オー・ソレ・ミオ”を歌ったこと、スペイン国王の前で、髪をすくなどのスキャンダルを広めた。一方、法輪功の創始者は平民の出身で あるが、講演する時には、大学教授、専門家、留学生などが集まり、多くの博士、修士などが遠路をいとわずに、講演を聞きに来ていた。充実した明快な話を原 稿もなく数時間講じ、そして説法の録音が活字になれば、すぐに本として出版された。虚栄心と嫉妬心に満ち、狭量な江沢民にとって、これらのすべては、我慢 ならないことであった。

江沢民の生活は、極めて荒んで腐敗していた。豪華な専用機を購入するため9億元をも使い込んだ。国庫から数百億元を取り出しては、息子の商売に使った。姻 戚関係を利用して、すべての親族及び腹心を、部級以上の高官に抜擢した。部下の汚職行為を庇護し、すべてにおいて頂点を極めていた。そのため、江沢民は法 輪功の道徳の力を非常に恐れ、さらに法輪功の講じる天国と地獄、善悪による応報が、本当であることを恐れていた。

江沢民は、中国共産党の最高権力を手に入れたものの、政治における業績及び才能に欠けているため、常に自身が中国共産党の残酷な権力闘争の中で、失脚する ことに対し不安を感じていた。その権力の“核心”の権威に、非常に敏感になっていた。自身と見解を異にするものを取り除くために、江沢民は陰謀詭計をめぐ らしては、政敵の楊尚昆、楊白氷兄弟らを排除した。

1997年の中国共産党十五大会及び2002年の中国共産党十六大会のとき、江沢民は政敵 を失脚させたが、彼自身は規定を顧みず、権力を握ったまま退こうとはしなかった。

1989 年の“64”事件の後、中国共産党の新しい総書記となった江沢民は、国内外の記者会見に出席した際、フランスの記者が、64事件によってある女子大生が、 四川の農場のレンガ運搬作業へ配置され、地元の農民によって、何度も強姦されたということを述べたが、江沢民は「その事情が事実であるかどうかは知らない が、彼女は暴徒である。もし本当であるならば、その罰を受けるだけのことがある」と答えた。文革の中で、張志新[9]が中国共産党の監獄の中で、輪姦されてから喉を切られたことは、江沢民から見れば同じく“罰を受けるだけのことがある”ということなのであろう。この様に、江沢民の下劣で変態かつ残虐な人格を伺うことができる。

概括的にいうと、江沢民の暗い心理、独裁権力への欲望、残虐な人格及び“真・善・忍”に対する恐怖により、江沢民が理由もなく、法輪功の弾圧を起こしたゆえんである。このことは共産党組織と極めて一致しているのである。


三 江沢民及び中国共産党の間における相互利用

江沢民は、一心に法輪功を“消滅”させ、自身の私憤を晴らそうとしていた。しかし、自身をひけらかすことに夢中になり、政治をもてあそび種々の計略に夢中 となり、その無学無能さは、広く知れ渡っていったのである。中国の伝統的な文化に根を下ろし、広範な社会的基盤をもつ、煉功の群衆に対して、江沢民一人で は無力も同然であった。しかし、都合よく中国共産党という暴政マシンがすでに磨きがかかり成熟していた。そして同じように法輪功を取り除こうとした。共産 党総書記である江沢民にとっては、正に火に油を注ぐようなもので、弾圧をするというキーを軽く叩いたのである。二者の弾圧の呼応共鳴は、まさに登山者の叫 び声により、雪崩を引き起こすような効果があった。

江沢民が弾圧の命令を下達する前、中国共産党の法輪功への討伐、監視、調査及び無実の罪をでっち上げることは、早くから始められていた。中国共産党という邪教組織が固有に持つ、邪悪が本能的に、“真・善・忍”の存在が脅威であると感じていたからである。

さらに、これほども広大で依然として迅速に拡大していく、修煉団体を容認することができなかった。1994年当時より、中国共産党の公安員が、すでに法輪 功の中に潜り込んでいたが、何の問題も発見されない上、多くのスパイも法輪功を修煉しはじめるようになった。1996年、『光明日報』は気功に対し、“宣 伝しない”、“干渉しない”、“打撃しない”という三つの政策に背いて文章を発表し、思想領域で理由もなく法輪功を批判した。その後も、公安局及び“科学 者”の肩書きを持つ政客による法輪功への攪乱は、一向に後を絶たなかった。

1997年初頭、中国共産党中央政法委員書記・羅干は、職権を利用し、公安部門に全国規模で法輪功に対する調査を行うよう指示した。その意は無実の罪名を でっち上げ、法輪功を取り締まることにあった。各地で“未だ何の問題も発見されず”という結論が出された後、再び羅干は1998年7月、中国公安部一局よ り、公政[1998]第555号の『法輪功に対しての調査を展開する通知について』を出した。法輪功を“邪教”と断罪し、全国各地の公安部門に組織的な “潜入調査”を行わせ、証拠収集をしていた。しかし、調査の結果は依然として何も見つからずに終わったのである。

中国共産党が、一つの邪悪組織として手を出そうとするときには、もう一人の最も肝心な弾圧マシンを起動する人が必要である。この際、中国共産党の指導者の 処理は重要な役割を果たしてくる。一人の個人として、中国共産党の党首は、人間性の中にある善と悪を同時に持っている。もし“善”を選択すれば、しばらく は、中国共産党の邪悪な政党の性質の発作を抑制することができる。もし“悪”を選択すれば、中国共産党の邪悪な性質が十分に現れることであろう。

64天安門事件のとき、中国共産党総書記である趙紫陽は、学生を弾圧するつもりはなかったが、中国共産党を支配する八大元老は、執拗なまでに弾圧をしよう とした。その当時、鄧小平は「二十年間の安泰と引き換えに、二十万人を殺すことだ」と言った。この“二十年の安泰と引き換え”とは実質上中国共産党の二十 年間の政権と引き換えるということである。これは中国共産党の独裁専制の根本的な目的と合致したため、中国共産党はそれを受け入れた。

法輪功の問題においては、当時の中国共産党政治局の7人の委員の中で、ただ江沢民だけが弾圧することに固執していた。江沢民の打ち出した口実とは、“党が 滅び、国が滅ぶ”ことに関連しているのである。これが中国共産党の最も敏感な神経に触れた。江沢民個人の権力維持と中国共産党の一党独裁維持は、ここで高 度な統一が得られたのである。

1999年7月19日夜、中国共産党高層会議を司会する江沢民は、権力を持って法に代わり、自ら認識を “統一”し、一人で全面的な弾圧の決定を下し、中国政府の名義で全面的に法輪功を取り締まり、世人を騙した。中国共産党及び中国共産党のコントロールする 中国国家政権及び暴力マシンは、スピードを上げ、天地を覆い隠すように、無辜の法輪功民衆を弾圧し始めた。

これより、私たちは一つの仮説を立てることができる。もし当時の中国共産党総書記が、江沢民ではなく、他の誰かであれば、今回の弾圧は発生しなかったことであろう。この意味合いから言えば、共産党は江沢民を利用したのである。

もし、共産党のその血による債務及び危機感のためではなく、その十悪をすべて備えている卑劣な天理、及び人間性の絶滅した本性でなければ、共産党は法輪功 を脅威とみなさなかったことであろう。中国共産党の社会に対し、あらゆる隙を狙い、全面的なコントロールを行うというものがなければ、江沢民の弾圧をしよ うとする意志は、組織による保障、財政による保障、メディア宣伝による保障、外交による保障、人員による保障、設備による保障、及び監獄、警察、国家安全 隊、軍隊、偽宗教団体、科学技術、民主党派、労働者連盟、団結委員会、婦人連盟などからの支持も得られなかったであろう。この角度から見ると、江沢民は共 産党を利用したのである。


四 江沢民はいかにして中国共産党を利用して法輪功を迫害したのか

江沢民は中国共産党の“全党は中央に服従する”の組織原則及び中国共産党の握っている国会マシン、軍隊、メディア、公安、警察、武装警察、国安、司法系 統、人民委員大会、外交、偽宗教団体などなどを利用して、法輪功迫害に奉仕させた。中国共産党の軍隊、武装警察、公安警察が、直接法輪功学習者を拉致し、 不法逮捕することに参加した。メディアは、江沢民政権に代わり嘘を散布し、法輪功に汚名を着せた。国会安全系統は、江沢民に対して個人的なサービス、つま り、材料を収集し、デマをでっち上げ、偽情報の捏造などを提供した。

人民大会及び司法部門は、江沢民及び中国共産党の犯罪行為に“合法”、“法治”などの外套を被せ、各界の人民を騙し、江沢民の道具及び保護の傘へと化し た。外交部門は国際社会で嘘を散布し、政治、経済利益で誘惑し、一部の外国政府、政府要員及びメディアを買収し、法輪功の受けた迫害に対し、沈黙を保つよ うにさせたのである。

江沢民は1999年、法輪功への弾圧を配置する中央任務会議において、「共産党が法輪功に勝てないわけがない」と声明した。弾圧全体の配置において、“名 誉上において腐敗させ、経済上において崩壊させ、肉体上において消滅させる”の三大方針を実施し、全面的な弾圧運動を展開させた。


(一) メディアを使用して情報を封鎖する

“名誉上において腐敗させる”の実施において、中国共産党がメディアをコントロールすることにより行われた。1999年7月22日、法輪功学習者を不法に 逮捕し始めるようになった三日目に、中国共産党のコントロールするメディアは、天地を覆い隠すほどの反法輪功宣伝を放送し始めた。北京の中央テレビ局を例 に挙げると、1999年の間に、中央テレビ局は毎日7時間を使って、各種の前もって制作された番組を放送し、法輪功の創始者である李洪志師の話を改ざん し、歪曲することを初めとし、いわゆる自殺、他殺、持病があるのに通院を拒否して死亡したなどの案件に加えて、あらん限りの力を尽くし、法輪功及びその創 始者を中傷する否定的な宣伝を行った。

最も著名な事例は、李洪志師が、かつて公の場で述べた“いわゆる地球の爆発は存在しない”、という言葉の中の“無い”という文字を取り、テレビの中で“地 球の爆発は存在する”とした。さらに、通常の刑事犯罪者の犯罪行為を法輪功学習者の行為へとすり替え、世人を騙した。例えば、北京の殺人狂・傅怡彬、浙江 の乞食毒殺事件などの精神病患者、殺人犯などを、すべて法輪功へ罪を着せたのである。

中国共産党の絶対的なコントロール下にある二千もの新聞、千以上の雑誌、数百の地方テレビ局及びラジオ局をすべて総動員して、全力を持って法輪功を汚す宣 伝を行った。これらの宣伝は、再び政府系の新華社、中新社、中通社及び海外の中国共産党のメディアなどを通し、海外のすべての国家にばら撒かれた。不完全 な統計ではあるが、わずか半年で、中国共産党のメディアが、大陸及び海外で法輪功を中傷する報道及び批判する文章は、30万篇にも上った。

中国在外領事館にも、法輪功を批判する、多くのパンフレット、ディスク(CD、VCDなど)及び単行本が置かれ、法輪功を批判するための特定記事についてのコラムが設置された。

上記に留まらず、1999年末、江沢民は自ら前面に出て戦いに臨んだ。ニュージーランドで行われたアジア太平洋サミット会議において、中国共産党の制作し た法輪功を非難するパンフレットを、会議に参与した十数ヶ国の元首に、一人一冊ずつ手渡した。フランスでは、江沢民はさらに直接、外国のメディアを通し て、法輪功が邪教であると宣伝し、“名誉上において腐敗させる”の目標に達することを企んだ。

一時は黒雲が大地を覆い、文革の再来のような草木を枯らす勢いであった。

最も悪辣なものは、2001年1月に演じられた“焼身自殺”の茶番である。その後、新華社を通して、かつて無いスピードで全世界に広めた。この事件は、後 に国際教育発展組織をも含めた多くの国際組織に、やらせであると認定された。質問の回答を求められていることに直面し、テレビ番組の制作に参与した工作員 は、中央テレビ局の放送した部分の一場面は、“事後に撮影し補足した”と答えた。“少しも死を恐れない法輪功の弟子”は、なぜ中国共産党当局に、これほど までに協力したのか?という疑問を人々は持ち出さずにはいられない。

でっち上げられた嘘は、白日を恐れるものである。捏造、でっち上げと同時に、中国共産党は全力で情報を封鎖し、すべての法輪功に関する海外のニュース及び 各種の法輪功学習者の合理的な弁解をも、無情に封鎖を通して消した。あらゆる法輪功の書籍及びその他の資料はすべて処分された。中国の法輪功学習者を、取 材しようと試みたすべての外国メディアに対し、一律に極端な応対措置を取るか、あるいは記者を中国から追い出し、または海外のメディアを脅かし、市場利益 を餌に自主的に一切問わないようにさせた。

法輪功の事実情況及び当局が残酷に弾圧する資料を、海外に送り伝えようと試みた法輪功学習者に対しても、中国共産党は極端な弾圧の手段を採用した。清華大 学だけでも、十数名の教師及び学生らが、このため中国共産党により重い実刑判決に処せられた。重慶大学の研究生である法輪功学習者の魏星艶さんが強姦され た事件が暴露された後に、7名の重慶の法輪功学習者が、重い実刑判決に処せられた。


(二) 罰金、家財の没収を通して生存の権利を剥奪する

“経済上において崩壊させる”ことは、中国共産党国家機器全体で行われた。5年間の弾圧の中、数十万の中国法輪功の弟子は、恐喝による罰金を負わされ、少 ない場合は数千元、多いときは数万元にも上る。しかしこれらの罰金には、何ら法律的根拠もなく、地方政府、会社組織及び派出所、公安局が随意に行い、罰金 を負わされる人は、何ら法的根拠のある領収書をも受け取ることはなかった。

家財の没収は、経済を略奪するもう一つの方法である。法輪功の修煉を堅持する学習者は、常時、警察による家財の没収に直面している。家財を没収する者は現 金、財物を持ち出し、農村では、時に屋内に置かれた保存の食料さえも、見過ごすことはなかった。同様に、これらの没収された財物には何の領収書もなく、大 半は家財の没収を執行する人の私腹とされたのである。

また、法輪功学習者は一時解雇及び失業の懲罰に直面することになり、農業従事者は土地を没収される脅威に直面することになった。中国共産党はさらにすでに 退職した老人をも見逃さず、多くの退職した老人は退職年金の支給が停止され、住まいを没収された。一部の商業活動に従事する法輪功学習者らも、財産を没収 されると同時に、銀行預金をも凍結された。

これらの政策を執行する際、中国共産党は連座の政策を採用した。およそ会社企業に法輪功学習者がいれば、会社の取締役及び従業員までも給料の給付を停止さ れ、昇進も停止された。これは社会において、法輪功学習者への恨みや憎しみを作り出すためである。そして、法輪功学習者の家族もまた、一時解雇及び失業に 直面し、子供は停学にされ、住まいを没収されるなどの脅威に晒された。これらのすべては、法輪功学習者の経済的出所を切断することを目的とし、信仰を放棄 させるために強行された政策である。


(三) 残酷刑による虐待及び思うままの殺戮

最も血なまぐさい“肉体上において消滅させる”ことは、基本的に公安局、検察院[10]、法 廷部門に依って執行された。明慧ネット(法輪功の公式サイト)の統計(すべての迫害事実を未だ完全に網羅してはいないが)によると、1999年7月20日 以降の5年間、民間経由で伝えられ明らかになった中で、少なくとも1,128名の法輪功学習者が迫害されて死亡した。迫害致死の事案は、全国30の省、自 治区、直轄市に分布している。2004年10月1日現在、死亡案件の発生率の高い地区は、上から黒龍江、吉林、遼寧、河北、山東、四川、湖北などである。 その中で最も年少の死亡者は、生後10ヶ月の乳児、最も高齢なる者は72歳である。女性が51.3%を占め、50歳以上の老人が38.86%を占めてい る。しかし、中国共産党の官員によって、密かに迫害され死亡した法輪功学習者の数は、実際にはこの数字を遙かに超えると伝えられている。

そして、法輪功学習者に加えられた各種の残酷刑は、さらに数え切れないほど多い。めった打ち、鞭打ち刑、電撃刑、冷凍刑、縄縛り刑、長時間にわたる手枷と 足枷、火あぶり、焼きごてによる焼けど、吊り下げ刑、長時間に渡って佇ませる刑、跪かせる刑、竹串あるいは針で刺す刑、性的虐待、強姦などがある。 2000年10月、遼寧省馬三家労働教養所の看守人員は、18名の女性法輪功学習者たちを裸にして、男性の牢屋に投入し、受刑者らに任意に強姦させ、蹂躙 した。これらすべては血の痕跡が点々と付くものであり、文字で伝えることなどとてもできない。

“精神病治療”の乱用も、法輪功学習者を迫害する多くの残酷刑の一つである。正常で、理性的で、健康な法輪功学習者らが不法に精神病院に監禁され、中枢神 経を破壊する正体不明な薬物を注射された。中には全身不随になり、あるいは局部不随になった事例、両目が失明し、聴力も失った事例、身体の筋肉、器官が壊 死した事例、部分あるいはすべての記憶を喪失した事例、内臓に重症な損害をもたらした事例、発狂するまで迫害された事例、薬物の作用で直ちに死亡した事例 などもある。

調査の結果、“精神病治療”の手段を持って、法輪功学習者を迫害する事案は、中国23の省、市、自治区に普く分布され、少なくとも百以上の省、市、県、区 の精神病院が迫害に参与したことが分かった。事案の数量及び分布範囲から見ても、法輪功学習者への精神薬物の乱用における迫害は、計画され、上から下まで 組織的に実施された政策であることが分かる。少なくとも千以上の精神状態が、正常である法輪功学習者らが、強制的に精神病院、薬物乱用者の監禁所へ監禁さ れ、多くの人が強制的に多種の中枢神経を破壊する薬物を注射され、食物注入され、そして長期にわたって縄で縛られ、電撃などの残酷刑に遭い、少なくとも 15人は、このような迫害の下で死亡したのである。


(四) 法律体制をも超越した610オフィス

1999 年6月7日、江沢民は、中国共産党政治局会議において、何の根拠もなく法輪功を中傷し、法輪功問題を「政治闘争」と定義し、法輪功を中共の敵と決めつけ、 中共の闘争神経を刺激し、中央で法輪功問題処理指導組を成立させた。6月10日に成立したので、外部に対して“610オフィス”と呼ばれていた。後に、こ の“610オフィス”が全国各級政府の至るところに及び、法輪功を弾圧するすべての具体的な事務を担当し、中国共産党委員指導者の下の政法委員、メディア 及び政府機関の公安、検察院、法廷及び国安隊は、全てその手先であった。“610オフィス”は、名義上国務院で看板を出した。しかし、実際のところは、国 家及び政府体制以外の党務組織であり、いかなる法律条文及び国家の政策規定の制限をも受けず、国家法律体系及び政府体系を超越し、国家財源を管理し調整す る極大な権力機構を持ったナチスのゲシュタポに類似している。

江沢民が法輪功を弾圧する命令を下した後、1999年7月22日、新華社は中国共産党組織部の責任者、中国共産党中央宣伝部の責任者などの講演を放送し、 公然と江沢民よる法輪功への迫害を支持した。これらのすべては共産党の厳密な組織において、江沢民が邪悪な計画を実施することに、歩調を合わせるためであ る。

多くの事案で、およそ法輪功と関係のある案件について、公安局、検察院及び法廷は、自主処理の権限を持たず、必ず“610オフィス”の命令に従わなければ ならないことが証明された。逮捕され、監禁され、そして虐待され死亡した、多くの法輪功学習者の家族らは、公安局、検察院及び法廷部門に質問し、諮問する 際、みな“610オフィス”による決定が必要であると告知されるのである。

しかし、この“610オフィス”の存在には、なんの法的根拠もない。“610オフィス”が中国共産党のあらゆる体制内の機構に対し、命令を下すとき、ほと んどの場合書面による命令及び通知はなく、口頭による伝達しかない。そして、すべての伝達を聞いたものは、録音、録画、ひいては文字による記録すらも、許 されないと規定されていた。

このような臨時の専制機構は、まさに中国共産党が一貫して使ってきた手口である。中国共産党がこれまでの政治粛清の運動の中で、このような正常でない手段及び正常でない臨時機構による指導により、例えば中央文革組のように、共産党の暴政を全国に押し進めたのである。

中国共産党は、長期に渡る暴政及び高圧的な統治の過程の中、暴力、嘘のでっち上げ及び情報の封鎖を用いて、世界最大の最も邪悪な国家恐怖主義に鍛え上げら れ、その残虐さ及び嘘、欺きは最悪の域に達し、その規模及び程度はさらに空前絶後である。これまでの政治運動の中、組織的に人を苦しめ、人を陥れ、殺人の 方法と経験を累積してきた。極めて残酷で、狡猾に悪賢いのである。


(五)迫害を行うために軍隊と国家財源を使う

中国共産党は、国家軍隊による統制で、その人民を弾圧するとき、何らはばかるところなく、勝手放題にやってきた。今回の法輪功に対する弾圧の中、江沢民は 警察、武装警察を動員した上、1999年7月から8月の間、全国から数十万、ひいては数百万の、心に寸鉄も帯びない農村の人々が、法輪功の潔白のために、 上京し陳情した際、江沢民は直接武装した軍隊を使用し、北京に繋がる要路に、銃器及び実弾を装備した兵士を配置し、警察と共に陳情してくる法輪功学習者を 阻み、逮捕に協力した。江沢民は中共の軍隊を直接動かし、血まみれの迫害への道を開いた。

中国共産党の国家財政におけるコントロールは、江沢民が法輪功を迫害する経済的な後ろ盾となった。遼寧省司法省の高級官員は、かつて遼寧省馬三家労働教養所の大会で、「法輪功に対処するための財政の投入は、すでに一回の戦争に使われる経費を遙かに越えている」と述べた。

今現在、中国共産党が、一体どれほどの国家経済資源及び人民が汗水たらして納めた税金を投入し、法輪功を迫害したのかは定かではないが、天文学的数字にな ることは想像に容易くない。2001年、中国共産党公安内部の情報によると、天安門一ヶ所だけでも、法輪功学習者を逮捕するため、一日の出費は170万か ら250万元に上る。即ち一年の出費は、6億2千万から9億1千万元という巨額に上る。全国規模では、都市部から遠く離れた農村にまで、派出所の警察から 公安局、そして各級の“610オフィス”の人員まで、江沢民は法輪功を迫害するために、少なくとも数百万人を雇用したと推定される。この給料の出費は毎年 一千億元に上る。

これに留まらず、江沢民は法輪功学習者を監禁する労働教養所を増築し、洗脳センター及び基地などを建立するために巨額の経費を投入した。例えば、2001 年12月、江沢民は、法輪功学習者を転向させるための洗脳センター及び基地を建てるために、一度に42億元を投入した。江沢民はさらに多くの人が、法輪功 への迫害に参与するよう金銭により刺激し、奨励した。多くの地区で、法輪功学習者を捕まえれば、数千元、または、数万元が奨励金として渡された。そして、 法輪功への迫害の最も邪悪な遼寧省の馬三家労働教養所では、中国共産党は所長の蘇に、一度に5万元もの金額を奨励金として渡し、また、副所長の邵氏に三万 元を渡したのである。

中国共産党前総書記である江沢民は、今回の邪悪な迫害を作り出した張本人であり、また策を立てる指揮者でもある。彼は中国共産党の運動機構を利用し、法輪 功に対して迫害を発動した。歴史に残る罪悪から、逃れることのできない責任を負っている。もし、中国共産党及びその長期の鍛錬によりできあがった残酷な機 構がなければ、江沢民も初めから今回の邪悪な迫害を発動し、推進することはできなかったであろう。

江沢民が、中国共産党と相互に利用し合い、ごうごうたる非難を押し切って、天下の大悪をあえて犯し、個人及び党の私欲のため“真・善・忍”に反対したことは、今回の罪悪及び荒唐無稽な迫害が発生した本当の原因なのである。


五 江沢民は内部から中国共産党を打倒した

江沢民は私欲のため、共産党固有の邪悪を利用して、“真・善・忍”を修煉する人々に対し、大迫害を行った。社会の善であり、国家社会にとって最も有益であ りながらも、無害な存在に対して、討伐を行ったのである。今回の迫害は、国家及び人民に罪悪及び災難を持ち込んだだけでなく、最終的には、根本的に共産党 自体をも打倒したのである。

江沢民は、中国共産党を利用し、古今東西のすべての邪悪な手段を法輪功に対して施したため、法律、道徳及び人間性は極大な破壊に遭い、国家政権の統治基礎を根本的に崩壊させた。

江沢民政権は、国家の財力及び人力のすべてを利用して、法輪功を叩き、善良な人々を弾圧し、国家及び社会に多大な負担をもたらし、金融システムに巨大な圧 力を与えた。中共は、もはや失敗と決まった今回の迫害を永続させることはできず、民衆に負担させ、国債を発行し外資導入によって継続を図ったのである。

中共及び江沢民が、迫害の中で無頼で、残虐な、詐欺に満ちた各種の手段を使用し、中国共産党の邪悪の経験の集大成を集中し、法輪功への迫害のためすべてを持ち出した。

中共及び江沢民はすべての宣伝道具を利用し、法輪功のデマをでっち上げ、法輪功をそしり、弾圧及び迫害の口実を作り出していた。一旦これらの嘘が最終的に 暴かれたならば、このすべての邪悪が、迫害の失敗により暴露され、人々に知れ渡り、そのデマをでっち上げる宣伝の道具は、民衆を騙すこともできなくなり、 中国共産党は徹底的に信用と評判を失い、民心を失うのである

江沢民は1999年、法輪功弾圧の当初、“三ヶ月”で法輪功問題に決着をつけると企んでいた。しかし、中国共産党は法輪功の力を過小評価し過ぎたと共に、伝統及び信仰の力を軽視したのである。

古より、邪は正を圧することはできず、邪悪は人々の心から善良を取り除くことはできない。5 年の歳月が過ぎ去ったが、法輪功は依然として法輪功であり、世界においてさらに広範に伝播されるようになったのである。江沢民及び中国共産党は却って、今 回の善悪の勝負の中で大敗し、自身の下劣で残酷且つ邪悪な本性を残らず露呈した。今、江沢民の名は地に落ち、内外共に行き詰り、まさに多くの法律起訴及び 清算、法律により裁かれる声に直面しているのである。

中共は本来、今回の弾圧を通して、その暴政を強化することを企んだが、結局のところ“充電”することができなかっただけでなく、自身のエネルギーをすべて 使い果たした。現在の中共は、すでに救いようのないものとなり、僅かな異変が無くても、朽ち果てた枯れ木のように、自ら崩壊していくものとなったのであ る。共産党を救おうとする如何なる企ても、歴史の潮流に逆らうものとなり、何ら効果もなく、自らを壊滅させる前段であるに過ぎない。


結び

当時の中共総書記であった江沢民は、今回の邪悪な迫害を作り出した張本人であり、また画策指揮者でもある。江沢民は、中国共産党の権力、地位、人を苦しめ る手段及び運動機構を十分に利用し、今回の法輪功に対する迫害を発動し、歴史的な罪悪から逃れることのできない責任を負った。他方、もし、中国共産党がな ければ、江沢民も根本的に今回の邪悪な迫害を発動し、推進することはできなかったのである。

中国共産党は、その誕生の日からすでに正義及び善良を敵とみなし、弾圧を手段とした迫害を得意とし、一党で天下を統一する思想を持って、その統治基盤を統 括してきた。共産党はその本性の故に、“真・善・忍”を恐れ、法輪功を敵視し、その法輪功への弾圧及び迫害もまた、偶然の中の必然となったのである。江沢 民と中共は“真・善・忍”の弾圧に、偽、悪、暴、毒、邪、腐敗を氾濫させた。中国の大地に、後に残るものは普遍的な道徳の低下、社会風紀の悪化であり、 人々もその害を深く受けることになるだろう。

中国共産党及び江沢民の間における相互利用は、二者の命運を共に縛り上げた。法輪功は正に江沢民を起訴している中、江沢民が法により裁かれるとき、中国共産党の終焉も想像できることであろう。

“真・善・忍”を修煉する人々に対し、非人道的な迫害を行うことは、天理も許さないところである。また、江沢民及び中国共産党の罪悪行為は、人類に対し深刻な教訓を永久に残すことであろう。




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[1]この事例に関して、下記のサイトにてより多くの関連情報を得られます。 http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2004/7/23/50560p.html、 http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2004/6/7/48981p.html

[2]この事例に関して、下記のサイトにてより多くの関連情報を得られます。 http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2004/9/25/52796.html

[3]関連情報は以下のサイトにあります。
http://search.minghui.org/mh/articles/2004/7/9/79007.html (中国語)

[4]李先念(Li Xian nian (1902~1992))、元中国国家主席(1983-1988)、元中国人民政治協商会議主席(president of the Chinese People’sPolitical Consultative Conference)(1988-1992)。陳雲(Chen Yun)(1905-1995)は、共産党中国の最も影響力のあった指導者の一人で、中国共産党中央委員会政治局の常務委員(Politburo Standing Committee member)として数十年に渡って在任し、そして1987年から1992年まで中央顧問委員会(Central Advisory Committee)主任委員でもあった。

[5]1992年、鄧小平(Deng Xiaoping)は半引退状態から復帰し、中国南部の香港から近い深?(Shenzhen)を巡視し、中国社会主義市場経済の発言を発表した。鄧小平の 今回の巡視は1989年の天安門広場虐殺事件(Tiananmen Square Massacre)以後に停滞していた中国の経済改革に再開の火をつけたと見られている。

[6]1973年に発見された7000年の歴史を有する河姆渡文化遺跡(Hemudu Cultural Ruins)で、中国の新石器時代の重要な村邑遺跡のひとつである。

[7]前中国人民代表大会常務委員会委員長

[8]鄧小平には次のような発言がある。「黒猫か白猫かにかかわらず、鼠を捕まえればよい猫だ。」その意味は経済改革の目標は国民に富みを与えることにあり、そのための形式は社会主義か資本主義かにこだわらないということである。

[9]張志新は文化大革命の時、毛沢東の「大躍進」政策が誤りであったことを非難し、真実を 率直に述べていたため、拷問を受けて殺された。刑務所の看守たちは彼女を裸にして後ろ手に縛り上げ、男性囚人がいる監房に押し込み、彼女が精神異常になる まで輪姦させた。刑務所は彼女が党に反対するスローガンを叫ぶことを怖れ、死刑の前に声が出ないよう彼女の喉を掻き切った。

[10]中国政府のある機関で、起訴と法律上の監督統制を担当する。その機能は重要案件の逮捕と起訴、調査の主導、公開起訴の発動及び支持、特別な情況における法律解釈、裁判所公判の監督、司法手続きの監督統制、そして刑務所、拘留所、強制労働収容所の監督統制などの業務を含む。

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2013/12/19 16:41|九評共産党TB:0CM:0

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